第90話 美紗子が泣いた日その㉒ 紙夜里は大人を信用しない
根本の仲間達のうちの一人が、床に放り投げられていたモップを拾い、それを元あった壁の隅に戻すと、既に出入り口付近に来ていた二人は、「おいでおいで」と手招きをした。
もうすぐ授業開始のチャイムが鳴るからだ。
だからモップを置いて来た一人が戻ると三人は、出入り口の所から保健室内を最後にぐるりと見回した。
室内は特別荒らされた形跡もない。
ホッとした顔でそれを確認すると三人はお互いに顔を見合わせて、それから静かに引き戸を開けると、いそいそとその場を後にした。
紙夜里との取引を終えた三人は、何事もなかったかの様にして出て行ったのだ。
後に残されたのは寝相の悪い子の様に、グチャグチャな布団の中に頭まですっぽりと入り、丸まっている紙夜里だけ。
その紙夜里も、三人が保健室を出て引き戸をピシャリッと閉める音を聞くと、布団からゆっくりと顔を出して、それから上半身も起き上がり、掛かっている布団や幾分皺のよったシーツを手で平に直し始めた。
それが三人との約束だから…いや、紙夜里にとってそれは最初からそのつもりであった行動だった。
そもそも紙夜里は大人をもう信用してはいなかったのだ。
自分の親の事、それからネットで調べた色々な事。
全てが紙夜里にとって大人というものを毛嫌いするマイナス要因にしかなり得なかった。
(大人は子供相手だと簡単に嘘を付く。しかも思い通りに行かない事があると直ぐにこちらに当り散らす。特にウチのお母さんなんかの小言はただの自分のストレスの発散だ。優しく説明しながらの小言ではない。『今日は何にそんなに怒っているの?』と、思わず尋ねてしまいたいくらいだ。どうにも行かない本来の問題から目を逸らして誤魔化そうとするから私や妹にそれを八つ当たりしてしまうんだ。全く大人はクソだ。信用出来ない。特に女は駄目だ。保健の先生も女だから駄目だ。大体私を一人置いて、何処に行ったの? 用事って言っていたけれどなんなの? 先生の仕事は保健の先生で、保健室が職場ではないの? それを休み時間中放棄して。そんなのはきっと、自分の都合、自分の用事なんだ。おかげで私はその間に根本の襲撃を受けたじゃないか。保健の先生だって信用出来ない。だからこんな出来事だって教えてはやらないんだ。学校の先生達だって大人だから平気で嘘を付いて、絶対私たちの事なんか助けてくれないんだから!)
そんな事を考えていると、思わずシーツを掌で伸ばす作業も必要以上に力が入った。
(そんな大人達の力なんて間違っても借りたくないから、だからこの事は内緒にしてあげる。例え約束してなくても、頼まれていなくても、この事は大人に伝える気は最初からなかったんだから。初めから最後までずっと、美紗ちゃんは私のもので私が守るって決めているんだから。純真無垢で裏表のない、私の知る限り唯一無二の存在美紗ちゃん。今や彼女だけが私の唯一信じられる存在、やすらぎ。ああ美紗ちゃん…)
紙夜里は美紗子の事を考えると、荒んでいた心が少しずつ温かいものに包まれていく様な気持ちになれた。
それは美紗子とまでは行かなくても、自分もまた優しい表情で、優しい気持ちになれた様な感じで、自ずから顔も綻び、シーツを撫でる手つきも優しくなって行った。
シーツを直し終えると紙夜里はベッドの上仰向けになりながら、綺麗に白い布団を自分の上に掛け直した。
今度はちゃんと枕の上に頭を置き、布団から顔もちょこんと出している。
そして先程の取引から入手した情報を落ち着いて頭の中で反芻してみた。
(四時限目は学級活動の時間に先生がいなくなり自習になる。根本はその時を狙っている。…たしかに不味いな。授業中ではまともに助けにはいけない。時間だってもう三時限目が始まったから、次の休み時間しかみっちゃんとは連絡も取れない。そもそも次の休み時間もみっちゃんが来なかったら…あ~! 馬鹿みっちゃん~! 幾ら来るなって言ったからって、本当に来ない奴が何処にいるんだよ~! 馬鹿馬鹿馬鹿っ~! 次の休み時間いは絶対来いよ~!)
こうして紙夜里はイライラした気持ちが募り出して、また布団の中に顔を沈めた。
「へくちゅん!」
その頃教室に戻り授業を受けていたみっちゃんは、またも大きなくしゃみをしていた。
(なんだろ。やっぱり風邪でも引いたのかな? 次の休み時間こそ保健室に行こうかな。でもそうしたらまた紙夜里に怒られるかな~あ~どうしよう~」
つづく
いつも読んで下さる皆様、有難うございます。





