第78話 美紗子が泣いた日その⑩ 紙夜里、大地に立つ
「紙夜里! 紙夜里!」
うつ伏せに倒れている紙夜里の、ピンクのカーディガンの掛かった肩に手を置いては、少し揺する様にしながらみっちゃんは叫んだ。
その声に、その階に教室のある下級生の女子達が、数人廊下の角から顔を覗かせる。
しかしピクリッともしない紙夜里に、今のみっちゃんはそんな事を気にする余裕はなくて、変わらずに肩を揺すりながらその名前を叫び続けた。
(私の所為だ! 私の所為だ!)
そう思うと叫び声は徐々に泣き枯れた声の様に変わり、涙も溢れてはポタッポタッと、紙夜里の肩や首筋、頬へと落ち始めた。
「紙夜里っ! 紙夜里…」
遠巻きに見ていた数人の下級生達は、その異変に気付き、徐々にその距離を詰め始めると、誰という事もなく黙って階段周辺の廊下に散らばったプリントを拾い始めた。
そしてそのプリントが拾い終わった頃だろうか、それまで気絶していた紙夜里が口を開いたのだ。
「雨…寒い…気持ち悪い」
言葉と同時に開けられた瞳は、まだ虚ろで、焦点も定まらず何処を見ているのかも分からない状態だった。
しかしそれはみっちゃんにとって切望した瞬間だ。
「紙夜里! 紙夜里っ!」
再度声を限りにその名を呼ぶと、片方の手を紙夜里のお腹のあたりにまわして、ゆっくりと紙夜里の体を、仰向けに直そうとし始めた。
プリントを拾い終わり、眺めていた数人の下級生の女子も駆け寄りそれを手伝う。
この時初めてみっちゃんは、周りに数人の下級生達がいる事に気が付いた。
「ありがとう」
枯れ声で誰を見る事もなくみっちゃんは下級生達に声をかけた。
「いいえ」
「転んだんですか?」
「いいんです」
口々に反応する下級生達。
みっちゃんはそれには答えず、ただ紙夜里の顔を見ながら、体を仰向けにすることだけに力を注いだ。
「転んだ…みたい…」
頭でも打ったのかまだボーッとした感じの話し方で、体の向きを直されながら、みっちゃんの代わりにとでもいうかの様に途切れ途切れに話す紙夜里。
「大丈夫か?」
本当は「ごめん」と言いたいのに、出て来た言葉は違うものだった。
「大丈夫。段々頭がハッキリして来た…」
みっちゃんの言葉に答える声は、しかしまだ弱々しい。
みっちゃんと下級生達によって仰向けにされた紙夜里は自力で起き上がろうと、床に肘を付き、膝を立てた。
「んっ、んん…」
まだ痛むのか、体を起こすのに若干力んで声も漏れる。
「痛むのか!?」
即座に反応するみっちゃん。
下級生達はそれを心配そうに見ていた。
「あの、私、保健の先生呼んで来ましょうか?」
「大丈夫」
一人の下級生のそんな言葉に、紙夜里は直ぐに答えた。
「あ、はい」
ちょっとその早さにビックリしたのか、腑に落ちない顔で、そう尋ねた下級生も続けて直ぐ答えた。
(保健の先生が来たら、何があったのか尋ねられる。紙夜里は、私の所為で階段から落ちた事を隠そうとしているのか? でも、起き上がれないくらい酷いのならやはり…)
「紙夜里、やっぱり先生を呼んで貰った方が良いよ」
そうみっちゃんが言ったのとほぼ同時だった。
「みっちゃん、手」
「へ?」
片手をみっちゃんの前に差し出して、さも起こしてくれと言わんばかりにそう言う紙夜里にみっちゃんは思わず声を漏らした。
「早く」
そのキョトンとした表情に更に催促する紙夜里。
そこで慌ててみっちゃんは立ち上がると、紙夜里の手を掴み、引っ張り起こす事にした。
紙夜里は見ての通り背も低く、体重も軽い。
みっちゃんにとっては造作もない事だ。
「んっ!」
起き上がり様、あちこちの打ち身が傷むのか、紙夜里はちょっと苦しそうに声を漏らしこそしたが、結果的には別段力を入れることもなく、サッと立ち上がる事が出来た。
「あれだね、ウチのお兄ちゃんが好きなアニメと同じだ。『ナントカ大地に立つ』とか言うの♪」
側で見ていた下級生の一人が、紙夜里の立ち上がる姿を見て、何かを思い出したらしく突然そんな事を言ったが、紙夜里・みっちゃんを含めても誰もそのアニメを知らなかったので、その事には誰も触れなかった。
つづく





