第76話 美紗子が泣いた日その⑧ 階段での遊び
学校の回り階段を、踊り場を過ぎて更に下へと下りて行く紙夜里とみっちゃん。
それを上の階の手摺りから、ちょこんと頭を出して覗き見ている根本とその仲間達。
「ねえ、こんなの見てても無意味じゃない?」
「そうだよね。そんな事より、早く倉橋さんに意地悪とかする所見たいわ。その方が断然楽しいもん」
「そうそう。かおりちゃん、私達に面白いの見せてくれるんんでしょ? スカッとするの」
「どうするのか分からないけど。美紗子が困って泣き出しでもしたら、私笑っちゃいそう♪ あはっ」
「ホントホント♪」
紙夜里達を眺める事に飽きて来た連中が口々にそんな事を言う中、根本だけは何かを考える様に黙って眺め続けていた。
「ねえ、もう止めない? こんなつまらないの。根本さん、あんな奴ら眺めていても無意味だよ」
そんな中、ついに堪りかねた誰かが根本に進言する。
その言葉に根本は、視線は下の階段を下りる紙夜里達を見たまま、動かさず。口だけを開いた。
「あの二人、仲が良いんだね」
その言葉の真意が分からず、不思議そうな顔をする根本の仲間達。
それから根本は、その仲間達の方に顔を向けて、更に言葉を続けた。
「私達も階段を下りよう。駆け下りて、あいつらの事を『ワーッ!』って追い越すの。きっと驚いてビビるよ。面白いでしょ」
それを聞いた根本の仲間達は、『ビビる』の言葉に興味を抱いたのか、はたまたただ眺めている事に飽きたのか。軽くニヤリと笑うと、皆んなして根本に頷いて見せた。
「よし」
それを見て根本は満足そうな顔をする。
「じゃあ私を真ん中に、囲む様にして行くよ。階段を駆け下りて、あいつらの直ぐ後ろまで来たら、脅かす様に皆んなで『ワーッ!』って大きな声出すんだからね」
「面白そう♪」
「ビビるかな?」
「ビビる♪ ビビる♪」
「じゃああいつらが階段を下り終わらないうちに、早速始めよう」
楽し気に話す仲間達の声を制す様に根本がそう言うと、皆んなは少し高揚した面持ちで、根本を中心にした陣形を作った。
そしてゆっくりと階段の上に足を乗せると、一歩二歩三歩と、歩を進めるに従い、徐々に歩くスピードを上げ始める。階段の中間地点、踊り場に辿り着く頃には、それは駆け足になっていた。
紙夜里は先生に頼まれたプリントの束を、胸に抱く様に持ちながら、やはりまだ体調が悪いのか、フラフラと階段を下りて行く。
その横をみっちゃんは手持ち無沙汰の様に、空身で付いて歩く。
本当は体調の悪い紙夜里の代わりに、プリントを持ってあげたかったのだが、それは紙夜里に頑なに断られたのだった。
だから仕方なく、心配そうな面持ちで、みっちゃんは紙夜里の隣を歩いていた。
階段はもう少しで終る。その時だった。
ダダダダダーッ!
激しく階段を駆け下りて来る複数の上履きの音に二人は気付いた。
空身のみっちゃんは直ぐに後ろを振り返る。
プリントを持っている紙夜里は、僅かにみっちゃんより振り返るのが遅れた。
先ずみっちゃんの目に飛び込んで来たのは、ニヤニヤした顔の女子五人程の姿。
それが階段を物凄い勢いで駆け下りて来る。
その次に気が付いたのが、その集団の中に根本かおりがいる事だった。
(あいつ!)
咄嗟に紙夜里の方が気に掛かり、集団から目を逸らし、隣を見るみっちゃん。
紙夜里も振り返り、駆け下りて来る集団には気付いていた。
根本には考えがあった。
そしてそれを実行した。
根本達と紙夜里達との距離が、あと階段三段程になった所で根本は、自分の前を走る仲間の女子の背中を押したのだった。
「ワーッ!」
という掛け声と共に。
その声に続き、周りの子達も一斉に「ワーッ!」と声を上げる。
ただ一人、背中を押された子を覗いて。
何という事はない。
紙夜里達はあと四段程で階段を下り終える。
万が一そこから転げ落ちても死ぬ事はないだろう。
それは普段、自分が兄に暴力を受けている事で実証済みだ。
(人は簡単には死なない。どんなに痛くても、死ぬわけじゃない。これ位、悪戯だろ)
兄がどんな気持ちで、自分を殴ったり蹴ったりしているのかが分かる瞬間。
根本はニヤリと笑って、最近出来た多分友達の背中を押す。
みっちゃんに向かって。
(だってそれは、『面白そう♪』とこの遊びに乗って来たあなたも望んだ事でしょ?)
「あっ!」
根本に背中を押された子は、それまでのニヤニヤした笑い顔から、一転して恐怖の表情となり声を上げた。
押された事で前のめりになり、自分ではもう止まる事の出来ない体は、真っ直ぐに眼下のみっちゃんにぶつかる様に投げ出された。
「ワーッ!」と階段を駆け下りて来た集団の中から、身を投げる様に一人の女子だけが、飛び抜けて前に出て来た姿にみっちゃんは気付くと直ぐに、咄嗟に横の紙夜里の方に避けた。
それは決して紙夜里を守る為ではなく、あくまでも自分を守る為の動きだった。
「きゃっ!」
階段を駆け下りて来る集団ばかりではなく、突然みっちゃんまでもがぶつかりそうな勢いで側へ来たものだから、紙夜里は思わず目を閉じて、胸元で抱いたプリントの束をギュッと握り締めて、声を上げた。
そしてみっちゃんが避けて空いた踏み板のスペースには、根本に突き落とされた女子が足を掛ける。
バランスは不安定ながらも彼女はそこから階段を数段徐々に減速しながら下りて、無事二階の床へと辿り着いた。
みっちゃんは、目を閉じて、体に力を入れて突っ立ている紙夜里にぶつかりそうになり、不安定な体勢のまま、慌てて両方の手で紙夜里の肩を掴んだ。
階段を駆け下りて来た根本達は、そんな二人の脇を、笑いながらそのまま駆け下りて去って行く。
ただし、根本だけはその時、足で紙夜里の足首を蹴った。
蹴られた事で階段から外れる片足。
それは、バランスがちゃんととり切れていない危うい状態のみっちゃんにとって、体を大きく揺らす出来事だった。
ふらつき、紙夜里の肩にかけた手から、紙夜里の体がすり抜けていく。
ドサッ!
一階まで残り三段程だった階段は、足を踏み外した様になった紙夜里の体をゴロゴロと転げ落す事はなかったが、直接床には叩き付けた。
徐々に重い頭を下に向け、頭と肩を床に打ち付ける様に。
その瞬間は、みっちゃんにとっては数十秒はあったかの様に感じられた長い時間だった。
紙夜里の手からすり抜けたプリントの束が、空中でバラバラに散らばり、ゆっくりと揺れながら下へと落ちて行く。
そして紙夜里のスカートがはためいて、水色のパンツが一瞬見えたのも、みっちゃんの中では永遠の瞬間だった。
しかし今回は、そんな事以上にみっちゃんを動揺させる事があった。
自分が側に突然行った事で、紙夜里はバランスを崩して、階段から落ちたのではないかと思ったからだ。
根本が紙夜里の足首を蹴った事は気付いていなかったのだ。
「紙夜里っ~!」
慌てて倒れている紙夜里の側に駆け寄るみっちゃん。
跪き、倒れた紙夜里の顔を覗きこむ。
(ああ、どうしよう! どうしよう!)
心臓が早鐘を鳴らす。
「あはははははは♪ やった! やった♪」
その頃、もう階段を駆け下りて廊下のずっと先に行ってしまっていた根本達の一団からは、大きな笑い声が響いていた。
つづく
いつも読んで頂いて、有難うございます。
ブックマーク・評価・感想など頂けると励みになります。





