第70話 美紗子が泣いた日その② ~山崎幸一
しとしとと降り続く雨の中、班の集団登校で小学校へと向かう山崎幸一は、この所自分の周りで起こる目まぐるしい程の出来事に、自分が付いていけないでいる事を自覚していた。
それらは多分、昨日友人の五十嵐に言われなければ、気付きもしなかった事だったろう。
クラスメイトの遠野太一が、自分の隣の席の倉橋美紗子を好きだと言った時も、何処かで自分とは関係がないという気持ちがあった。
(人を好きになる事は個人の自由だ。誰が誰を好きになろうが構わない。もし美紗ちゃんが太一を好きで、相思相愛で想いが成就するなら、それもいいだろう。僕には美紗ちゃんが誰を好きになって、誰と付き合うかについて口を出す権利はない。確かにこれまではそう思っていたのだけれど…『その間に誰かに取られたらどうする!』あの時気にも留めなかった太一の言葉が、今は妙に胸突き刺さる…何故だろう?)
幸一は手に持った青い傘を少し斜めに上げて、灰色の空を眺めた。
薄暗い、どんよりとした灰色の雲に覆われた空が、今日は自分の胸に染み込んで行くようにすら思えた。
言いようのない不安感。
それが自分の心と灰色の空を繋いで、不思議な安堵感へと変わる。
(もし、誰かを本当に好きになって、それがこんな気持ちにさせるのなら、異性を好きになる、愛すると言う事は、とても辛くて寂しいものなんだな…)
幸一は自分でも何となくは分かっていた。
美紗子が太一を好きになる事はないと。好みではない筈だと。
だから何処かで安心していたのだ。
人間は、一瞬何故だか分からない自分の感情も、実は上手く形にして表現出来ないだけで、本当は自分の中で漠然となりとも理解しているものだと、幸一は普段から思っていた。
だから大抵の相談事は、相談する前に自分の中で結論が出ている。
(だとしたら僕は何故分からないフリをして来たのか?)
その答えを出さなければいけない切迫した状況を昨日、五十嵐が作った。
『だからさ、俺も倉橋さんの事は好きなんだよ。でも、お前なら諦められると思ってる』
五十嵐の言った言葉。
(これは意外だった。全く考えた事もなかった。しかし確かに、お似合いな二人かも知れない。五十嵐のピアノを弾く姿は、男の僕が見てもうっとりする程だ。小説が好きな美紗ちゃんなら尚更間違いなく惹かれるだろう。僕なんかより、似合いのカップルかも知れないと、二人が並ぶ姿を想像した時、僕は初めて本当に美紗ちゃんを好きなんだと自覚したんだ。大切なものを誰かに取られるかも知れないという不安感。それでも尚、僕はそれを声に出さないでいようとする。せめて中学生にでもなれば言えるだろう「好きだ」という言葉。何故周りの人たちは待たせてはくれないのか? 何故それを今言わさせようとするのか?)
「無理だ…」
「えっ?」
つい幸一の口から漏れた言葉に、前を歩く四年生の女子が立ち止まり、何の事かと振り返る。
「あ、んん、な、なんでもない」
慌てて否定する幸一に不思議そうな顔をしたまま、前に視線を戻す女子。
そしてまた歩き出す。
彼女が立ち止まった事で立ち止まり、歩き出した事でまた歩き出しながら、幸一はそんな自分を再認識する。
(僕はいつもこうだ。咄嗟だと上手く言葉が浮かない。出ない。そしてその場凌ぎの言葉はいつも後で後悔を生む。そんな僕だ。美紗ちゃん一人にも言えない僕が、クラスの皆んなの前で言える筈がない。ましてや冷やかされている時、それを肯定する言葉なんて。僕はいつだってそんな時恥ずかしさでパニック状態じゃないか。どんなに好きでも、冷静に落ち着いた状態の中でなければ、きっと僕は想いを告げる事は出来ない)
そう思うと幸一は、このまま何事もなく小学校生活が終わり、中学へと進学する事を望む他なかった。
思い出の中のあの柔らかい唇の感触を、探し求めるかの様に頬を擦りながら。
つづく
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