第64話
みっちゃんの笑う姿に、安堵の表情を見せた美紗子を、紙夜里は微笑ましい顔で眺めていた。
何の不安も感じない一時。
しかしそれは、本当にほんの一瞬でしかない。
この場所に長く留まれば、きっと他の生徒も段々やって来て、美紗子が思い出したくもない記憶を、思い出させる様な顔もそこにはあるだろう。
「じゃあ、帰ろうよ」
だから紙夜里は、折角のこの空気を壊したくなくて、そう言うと早々に自分の、二組の下駄箱に向かった。
「ああ」
慌てて笑うのを止めて、みっちゃんも急いで後を付いて行く。
二組の下駄箱は丁度四組の真裏だった。
二人の姿が下駄箱の後ろに隠れると、美紗子は少し不安になった。
(本当に誰かが間違えて履いて行っただけなのだろうか? 本当はやはり根本さんが虐めるつもりで隠したりしていたのだとしたら…)
そう思いながら、美紗子は下駄箱から自分の靴と一緒に、上履きを片方取り出した。
取り出した靴を下に置いて、履きながら片手で上履きを眺める。
しかし、何処をどお見ても悪戯をされた様な形跡はない。
それどころか、心なしか以前より綺麗になっている様にすら見えた。
(まさか、何処かの親切な人が、金曜に持ち帰るのを忘れた私の為にこっそり洗ってくれたりでもしてくれたのかしら。 ありえないな♪)
そう思うと美紗子は一人上履きを見ながら微笑んだ。
「どうしたの?」
靴を履き替えて来た紙夜里が、下駄箱の角から顔を出して言った。
上履きを眺めながら微笑んでいる美紗子が不思議に思えたからだ。
「ん、なんでもない♪」
顔を上げ、紙夜里の方を微笑んだまま見上げた美紗子は、そう言うと、静かに手に持っていた上履きを戻した。
それを何事もなかったかの様に見ていた紙夜里の脇に、遅れてみっちゃんもやって来た。
「どうしたの?」
二人の雰囲気に思わず声を出す。
「ん。なんでもない」
その言葉に紙夜里はみっちゃんの方を振り返ると、そう答えた。
「そう、なんでもない。帰ろ」
合わせる様に美紗子も、まだ微笑んだままでそう言うと、下駄箱の前に敷かれたスノコの上に置いていた手提げバックを手に持ち、二人の方に歩いて行った。
三人は校舎を後にした。
校舎を出て校庭の脇を校門に向かって歩く三人は、美紗子と紙夜里が前で、みっちゃんがその後ろを付いて行く格好だった。
前には下級生らしい背の低い集団が、ポツリポツリと、二つ三つ離れた所に見えた。
「三人でも並べるよ。大丈夫だよ」
後ろを歩くみっちゃんに気を遣い、何度か美紗子は振り返り声をかけたが、みっちゃんは頑なに前に一緒に並ぶのを拒んだ。
「あんまりお喋りって、得意じゃないんだ。後ろで二人の話を聞いてるぐらいが、私は楽しいんだ」
「そうなの?」
嘘とも本当ともつかないみっちゃんの言葉に半信半疑ながらも美紗子はそう言葉をかけた。
振り向いてみっちゃんの方見ている美紗子は気付いていないが、美紗子と並んで振り返っている紙夜里の表情は、実に恨めしそうで、とてもみっちゃんが一緒に並んで帰るなんて言える雰囲気ではなかったのだ。
「そう。本当にそう」
だからみっちゃんはヘラヘラ笑いながらそう言った。
そういう訳で、前に二人、後ろに一人で校庭の隅を歩いて帰る間、話はもっぱら紙夜里の思い出話だった。
よほど美紗子と帰れるのが嬉しかったのか、紙夜里は三年の頃の、美紗子と同じクラスで、一緒に帰っていた時の話ばかり持ち出して来ていた。
美紗子はただ微笑みながらそれを聞き、相槌を打った。
後ろのみっちゃんは、半分聞き流しながら、周囲をキョロキョロと眺めながら歩いていた。
やはり何処かで根本を警戒している気持ちがあったからだ。
そのうちに三人は校庭隅の水のみ場の側を通った。
思わずみっちゃんはそこに目が止まる。
昼休みに美紗子の上履きを洗った場所だったからだ。
その時の事を思い出しながら、みっちゃんは美紗子に、「大丈夫」と言ってあげれて良かったと思いながらそれを眺めていると、不意に突然、目の前に違う映像が浮かんだ。
それは、先程の下駄箱での、間近で見た微笑んでいる美紗子の顔だった。
(なっ!)
みっちゃんは何故急に美紗子の顔が思い浮かんだのか分からなくて、思わず驚いて、それから急に恥ずかしくなって、顔を赤らめた。
顔を赤らめながら、二人の後をいそいそと付いて歩いた。
「今日は俺とお前の二人きりだから、アイツ、距離を置いて付いて来ているぜ」
昇降口まで来た所で、五十嵐は軽く後ろを振り返ると、隣の幸一に言った。
「付いて来てるって。まるで尾行じゃあるまいし」
五十嵐の言葉に軽く笑いながら幸一がそう返すと直ぐに、
「尾行だよ。あれは、ビ・コ・ウ」
自分の状況にまだ気付かないのかと、五十嵐は口を尖がらせて即座に答えた。
美紗子が紙夜里達と昇降口を出てから、五分以上が経過していた。
既に校門を出ようとしている美紗子達の姿は、昇降口からでは見る事も出来なかった。
下駄箱の前で靴を履き替える為に立ち止まっている幸一と五十嵐の事を、黙ったまま、太一は三メートル程後ろの廊下で眺めていた。
五十嵐が幸一に、何やら良からぬ事を吹き込んでいるのではないかと思うと、気が気ではなかったのだ。
正直気持ちとしては、五十嵐を幸一から引き離したかったし、それが出来ないのならば、自分も一緒にその場に混ざりたかった。
しかし五十嵐が自分を警戒しているのは見るからに分かるし、多分、今まで幸一の事を唆していた事もばれているのだろうと思うと、幾ら男子に対しては太太しい態度をとれる太一でも、今回はそうそう知らん顔をして側に行く事も出来なかった。
(せめて谷口と丸山もいれば…)
そう思いながら、幸一と五十嵐が靴を履き替え、校舎から出ると、相変わらず慌てて自分も下駄箱へと向かった。それでもやはり、二人が何を話しているのかが、気になるのだ。
靴を履き替え、太一は一定の距離をとりながら、幸一と五十嵐の後を追った。
「だからね、本当に私、美紗ちゃんとクラスが変わった時悲しくて悲しくて」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟じゃないよ! 本当にもうあの時は、こんな風に美紗ちゃんとはもう帰れないんだって思っていたから。天と地がひっくり返った位の悲しさだったんだよ」
「更に大袈裟♪」
紙夜里の変な例えに、言いながら美紗子は思わず笑い出しそうになった。
「何で笑うの~私本当にそれ位美紗ちゃんが好きだったんだから~! 今もだけど♪」
美紗子の笑いを堪えて丸く膨らんだ頬を見て、紙夜里は直ぐにそう言うと、言いながら自分も途中から笑い出していた。
みっちゃんはそんな二人を後ろから優しい表情で眺めていた。
美紗子が色々な心配事を忘れて笑うのも、紙夜里が自分には見せない様なおどけた表情で笑うのも、みっちゃんには微笑ましかった。
可愛い、美少女面の女の子達が、こんな風に屈託のない表情で笑うのを見るのは、満更悪くないと思えた。
(不思議だ。私は紙夜里が倉橋さんを見て微笑んでも、ちっとも辛くない。紙夜里の中の一番じゃないと言われた時は寂しかった筈なのに。なんだろう…本当に、本当に私は、紙夜里が嬉しければ、それで良かったのか。私が一番に望んでいたのは、紙夜里との関係ではなくて、その笑顔だったのか? ああ本当に、人の幸せというは、こういう事なのかも知れない)
微笑みながら、温かい眼差しで二人を眺めながら、みっちゃんはそんな事を考えていた。
下校途中、美紗子と微笑みながら話し続ける紙夜里は、目の隅にフッと、その後ろで微笑むみっちゃんの顔を捉えた。
だからちょいっと振り返り真顔で言った。
「何気持ち悪い顔してるの」
「えっ!?」
予想外の言葉に固まるみっちゃん。
(前言撤回!)
つづく
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