第57話
紙夜里が根本と会っていた同時刻。
幸一は音楽室にいた。
五十嵐が、太一のいない所で話す事を望んだからだった。
「正直太一はウザいよな。急に俺達のグループに混ざって来て。まるでお前の事監視しているみたいじゃないか。やってる事がミエミエなんだよ」
ピアノ用の椅子に座ったまま、体だけ回して幸一の方を向いて話す五十嵐。
太一の名前に幸一は一瞬目を泳がせた。
五十嵐はそれを見逃さず、更に話を続ける。
「やっぱりな。何かあるんだろ?」
先程までとは打って変わって、鋭い眼差しでそう問われた幸一は、そのまま視線を外したが、それでも自分の全身を見られているかと思うと、緊張のあまり立ったまま、フラフラと揺れた。
「なにビビッてんだよ。お前と俺の仲だろ? フン」
そう言うと五十嵐は、再びピアノの方に体を向き直して、軽く右手を鍵盤の上に乗せた。
ゆっくりと静かに指を押し込み、音を奏で始める。
それから左手も鍵盤の上に乗せた。
右手でメロディ、左手がコード(ベース音)を奏でる。
一見単純そうなその曲は、幸一にも聞き覚えがあった。
「お前なら知っているだろ? ショパンのエチュード第3番 ホ長調 Op.1。映画とかでも良く使われているから」
こちらは向かず、鍵盤の方を見たまま、そう五十嵐は言った。
「ああ」
確かに聞いたことのある曲だった。しかし、どの映画で使われていたのかは直ぐには分からなかったので、幸一はそれ以上何も言えなかった。
再び五十嵐が口を開く。
「本当にさ。お前ならいいと思ったんだ。倉橋さん。お前なら喜んで応援してやれる。でも、太一は駄目だ」
そこまで言った時、五十嵐は感情的になったのか、一瞬ピアノを弾くのを止めた。
それから何か思うところでもあったのか、「はあ」と小さく一呼吸してから再び弾き始めた。
「お前さあ、小学・中学・高校って進んで、大人になってもまだ続いている友達って、何人いると思う?」
「えっ?」
五十嵐の言葉に幸一は小声で呟いた。
突然一変した話の内容に、またもや幸一は言葉が見つからなかったので、沈黙を続けるしかなかった。
「俺は一人も残れば良い方だと思ってる。そしてそれは多分、お前だと思ってる」
ゆったりと奏でられていた曲が、そこで急に強く激しく連打されながら音階を上げて行く。
それに合わせて五十嵐の声も大きくなる。
「正直他の奴らはどうでもいい。根本的には話が合わないと思うから。だけどお前は違う。映画とか本が好きで、センスもあると思うし、俺とも話が合うと思う。見た目も肌が白くて、ひょろっとしていて、ちょっと女子っぽい顔立ちだ。一緒にいて遜色ない。お前は俺と同じ、文化・芸術側の人間だ。そして…倉橋さんも」
曲は一番盛り上がる所を過ぎて、またゆっくりとしたペースに戻って来た。
静かに丁寧に指を動かしているのが幸一にも分かった。
「だからさ、俺も倉橋さんの事は好きなんだよ。でも、お前なら諦められると思ってる」
そういい終わると同時に、五十嵐は鍵盤の上からスッと、指を上げた。
演奏が終ったのだ。
再び五十嵐は椅子に座ったまま、体だけ幸一の方を向いた。
「太一とどんな約束をした。あいつは駄目だ。倉橋さんに相応しくない。見るからに野蛮だ。深みがない。教養がない。倉橋さんとも、お前とも合わない」
「何で太一が倉橋さんを好きだと?」
「そんなの見ていれば分かるよ。あいついつも目で倉橋さんを追ってる。それからお前の事も」
「僕?」
突然自分の事を言われ驚いた幸一は、思わず繰り返した。
「お前クラスの皆んなといる時には、『倉橋さん』って呼んでいるけど。倉橋さんと二人っきりの時とかには、『美紗ちゃん』って呼んでるんだろ?」
幸一はその瞬間、あまりの恥ずかしさに、体中の感覚が麻痺して、顔が真っ赤に火照って行くのが分かった。
「正直それって、付き合っているのと同じなんじゃないのか? それなのに何故か急に倉橋さんと話さなくなって、太一が周りにいつもいる様になって。何故だ」
「そんな…なんで、そんな事」
真っ赤になり、カチカチに固まった体からでは、それだけ言うのが幸一は精一杯だった。
「皆んな知ってるよ。倉橋さん女子にでもチョロっと言ったんじゃないのか? 別に悪い事じゃないだろう。それに俺からすると、お前のいつものそのうろたえ様は、好きにしか見えないんだよなあ」
「ち、違う!美紗ちゃんとはただの友達だ! 僕らはまだ小学生なんだぞ!」
「またそれか」
いつもの調子でそう言う幸一を、五十嵐は軽く牽制した。
「お前本当にそう思ってるのか? 俺達はもう直ぐ六年。その後は中学だ。あっという間に彼氏彼女なんていても可笑しくない歳なんだ。それに俺はピアノを習っているから、いつも感受性を、感情を意識している。誰かを好きになる激しい感情も、音楽をやる上で肯定しなければいけない重要な感情なんだ。お前だってそうだろ? 色々な映画や小説を読んで、その中で描かれる恋愛を愛おしいと思って眺めたりする事はないのか?」
「……」
言葉が出なかったが、頭では理解していた。
(映画や小説の中の恋愛は別だ。あれは憧れだ。いつか大人になったら自分も、と思う世界だ。今じゃない。今僕が美紗ちゃんと付き合って、映画みたいに抱きしめて、キスを…なんて事を考えていたら頭がおかしくなってしまう。現実に僕らはまだ小学生じゃないか)
幸一が黙り込んでそんな事を考えている間に、五十嵐は椅子から立ち上がり、幸一の方へと歩きながら更に話し始めた。
「太一の事がなければ、こうも慌てない。ちょっと前みたいにお前と倉橋さんを軽く冷やかして、『偶には俺達にも付き合えよ♪』なんて言っていたと思うよ。それでも何となく皆んな、お前と倉橋さんはお似合いだって、安心して見ていたんだ。でも事情が変わって来た。太一がいつの間にか俺達のグループに混ざる様になった。お前の事を監視する様になった。それから倉橋さんが今、女子の一部に悪口を言われ、無視されているそうじゃないか。何があった? お前と太一は一体何をしているんだ!?」
つづく
いつも読んで頂いて、有難うございます。
ブックマーク・評価・感想など頂けると励みになります。





