第5話
午後四時。図書室。
本棚で周りから見えなくなっている奥のテーブルで、幸一は借りたばかりの本を夢中で読んでいた。
その隣で美紗子は、頬杖をついて本棚の隙間から図書室の入り口の引き戸を見ながら、先程の斉藤さんの事を考えていた。
同じクラスの斉藤和希さん。
先程凄い勢いで戸を開けて中に入って来て、図書室の中をぐるっと見回して出て行った。
誰かを探していた?
幸一君? それとも私?
私は、斉藤さんと何か約束をした様な覚えはない。
幸一君の方は、何か約束とかしていなかったのだろうか?
横の幸一君を見る。
睫毛の長い瞳が、夢中で活字を追いかけている。
横顔を見て気付いた睫毛の長さは、女の子の様だ。
思わず見惚れてしまう。
幸一君には、思い当たる節はなさそうに思えた。
もう一度正面に見える図書室の引き戸の方を見ながら、何かないか考えてみる。
「あっ!」
何かを思い出したかの様に美紗子のあげた声は、以外にも図書室全体に聞こえる程の大きさの声だった。
「なに?」
「えっ?」
他の図書室にいた生徒達が一斉に奥の本棚に隠れたテーブルの方を振り向く。
そこに人がいたこと自体気付かなかった人が多くて、そんな所から声がした事に、皆んな一様に驚いている様子だった。
「どうしたの?」
美紗子の突然の声に驚きながらも、幸一は横を向いて小さな声で尋ねた。
「私、大切な事を忘れてた」
目を大きく開いて、幸一の方を振り向いて、美紗子は言った。
「どうしよう…行かなきゃ」
「えっ?」
美紗子の言葉に何の事か分らず、幸一は疑問符を投げかける。
「ごめん。私、行かなきゃいけない用事があったんだ」
言いながら幸一の方に軽く頭を下げると、美紗子は椅子から立ち上がり、ランドセルを背負い、手提げバックを持つと、スタスタッと、テーブルの脇を歩き、図書室の出入り口を目指した。
取り残された幸一は、何の事か分らず、手に持った開いた本もそのままに、どんどん歩いて行き、図書室の引き戸を開けて廊下へと出て行く美紗子をただ呆然と見続けていた。
二つある校舎の内の一つの三階の端にある図書室から、美紗子は階段を降りて、二階に着くともう一つの校舎へと繋がる通路を通り、隣の校舎に移動した。こちらに五年生のクラスはあるからだ。
目的は二組に行って紙夜里に教科書を返す事。
しかしもう四時を回っている。
とっくに帰ってしまっているかも知れない。
気持ちが焦り、つい早足で歩く。
二組に行くには、自分のクラス四組の前を通らなければいけない。
美紗子は目もくれず、通り過ぎ様としていた時の事だった。
四組から、廊下にいても聞こえるくらいの、声がした。
「つまり紙夜里さんの中で、みっちゃんは一番の友達になりたい訳?」
先程まで廊下で話していた副委員長の水口さんをはじめとした二組の女子四人の声だった。
美紗子は思わず足を止め、入り口の脇の壁に背(厳密にはランドセル)を当てて、話の内容を聞こうと思った。
何故なら、話の中に紙夜里の名前があったからだ。
「うん。偶にそういう人いるじゃない。好きな友達が自分以外と仲良くしていると怒る人」
これは斉藤さんの声。
つまり紙夜里絡みで斉藤さんはさっき図書室に来たのか?
美紗子は咄嗟に理解した。
「あーいるいる。そういう人って、友達の順位とかも作ってたりするんだよね。逆に自分が友達の中で何番目か? なんてのも考えてたりして」
これは副委員長の水口さんの声だ。
「「はははは」」
その後に、何人かの笑い声が聞こえたけれど、それは美紗子には誰の声なのかは良く分らなかった。
(きっと紙夜里に頼まれて、この人達が私を探していたのだろう)
美紗子はそう思うと、申し訳ない気持ちと、不味いと思う気持ちが両方一遍に湧き上がった。
そして教科書のない紙夜里がどうしているのだろうという不安な気持ちも。
ここで姿を見せなかったら、きっともっと悪い方に物事が動くだろう。
隠れて話を聞いていた美紗子はそう思った。
(何も知らないフリをして、ここは出て行かなくては)
迷っている暇はなかった。
美紗子はタンッと、上履きの音を立てて、足を教室の入り口の前に出した。
その音に気付いて教室の中の四人は揃って入り口の方を見た。
「あれ? まだ残っていた人いたんだ」
何食わぬ顔で美紗子はそう言うと入り口に姿を現した。
(ある程度酷い事も言われるのは、覚悟していた方がいいな。それでも何処に誰といたかは、きっと隠した方がいい)
心の中でそんな事を考えながら表情は何も知らない様に微笑む。
(それから、早く紙夜里に返しに行かなくちゃ)
「美紗ちゃん」
「「美紗子ちゃん」」
「美紗子!」
四人がそれぞれの呼び方で、美紗子の名を呼んだ。
「何処行ってたの? 探したんだから!」
副委員長の水口が、睨んだ顔で先ず最初に話しかけた。
「えっ、ちょっと」
「ちょっとって何?」
美紗子の答えが腑に落ちない水口は、直ぐに再度問いかけた。
「大変だったんだよ。美紗ちゃん、二組の紙夜里さんに借りた音楽の教科書返していないでしょ?」
水口とほぼ同じ位に、美紗子とはこの中では比較的仲の良い方の中嶋美智子が口を開いた。
これは美紗子にとっては少し助け舟だった。
即座に中嶋の話の方に答える。
「分ってる。ちょっと遅くなっちゃったけど、今から返しに行くの」
「きっともう帰っちゃってるよ」
その言葉に水口が冷たく言った。
「私、美紗ちゃん帰ったんじゃないかと思って、下駄箱見に行ったんだよ。靴がまだあって、学校の何処かにいるって。皆んなで探したんだよ」
水口の言葉を無視して、中嶋は心配そうな顔をして、早口で話した。
中嶋は普段から美紗子や悠那達のグループに入りたがっていた。
美紗子のグループは、クラスの女子でもちょっとおしゃれなグループだったからだ。
いつの間にか側にいて、静かに話を聞いていた時もあった。憧れの様なものもあったのかも知れない。
そしてそんな中嶋が、この四人の中にいてくれた事は、今の美紗子にとっては唯一の救いだった。
「ごめんね。図書室で本を読んでいたら、急に頭が痛くなって、保健室の先生の所に行っていたの。少し休みなさいって言われて、ちょっとベッドで休んで」
「そうだったの。だから水口さんが保健室を見た時はいなくて、斉藤さんが図書室を見に行った時もいなかったのね」
「えっ、皆んなでそんなに探してくれてたんだ。ごめんね」
初めて知ったかの様にそう言うと、美紗子は深く頭を下げた。
「本当かな?」
頭を下げる美紗子を見ながら、まだ納得していない水口が言った。
「じゃあちょっと私、紙夜里ちゃんに教科書返してくるね」
下げていた頭を上げると、美紗子は微笑んでそう言った。
(とりあえずこれでこの場から一度は逃れられる)
美紗子はそう思っていた。
しかし、
「その必要はないよ。教科書なら、私のを貸したから」
「えっ?」
水口のその言葉に、美紗子は歩き出そうとした足を止めた。
つづく
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