第51話
幸一達が教室に着いて暫くすると、根本かおりも保健室からようやく戻って来た。
既に席に着いていた幸一は、自分の席の方へと歩いて行き、そして座る根本をずっと追いかけて眺めた後、更に後ろの席の太一の方を眺めた。
太一は既に幸一の方を向いていて、顎で前の席の根本を指し示す。
自分達はその場にいなくて見る事は出来なかったが、今朝根本かおりは突然気絶して倒れたという。
更にその後の、女子達がヒソヒソと言う『倉橋さんが教室に入って来た途端に倒れた』という話は、幸一の耳にも聞こえて来ていた。
(何が起こっているのだろう?)
それは目下の所、幸一にとって最も気になる出来事であり、それは太一も同じだった。
それから五時限目が始まり、先生が授業をしに入って来る寸前に、美紗子は教室に入って来た。
もう閉められていた後ろの引き戸の出入り口を、
ガラガラガラッ
と、音を立てて開ける。
当然の事ながらその音に反応して、ほぼクラスの全員が振り返り、教室の後ろに立っている美紗子を見つめた。
美紗子はドキッ!っとした。
大勢の目に晒されたからだ。
しかもその殆どが好奇の目だ。
クラスの殆どの人が色々な噂を知っていて、自分の行く末を興味深く眺めている。
そう思うと美紗子は到底、それらの視線を直視する事などは出来ず、足元、みっちゃんから借りた上履きのつま先を眺めながら、すごすごと自分の席へと向かった。
(なんて嫌な空気なんだろう。これではまるで、私が何か悪い事でもしたみたい。本当に犯罪者扱いの様…でも、今たしか、根本さんもいたな。保健室から戻って来たんだ。私を虐めようとしている人だけれど、何でもなかったのなら良かった)
そんな風に思えたのは、根本の存在に気付いた瞬間、『あんたの所為だから!』と、今朝根本の取り巻きの一人に言われたのを思い出したからだった。このまま万が一にも根本が帰らぬ人にでもなったなら、それこそ何を言われるか分からない。
兎に角、美紗子は自分の席まで辿り着くと、今度はなるべく音を立てない様に椅子を引き、静かにゆっくりと腰を降ろした。
それでもまだ相当の視線が、自分に向けられているのを感じると、とても落ち着ける心境ではなかったのだが、程なく先生が前の入り口から教室に入って来て、授業が始まったのは、美紗子にとっては幸いだった。
五年四組から二つ隣のクラス・二組。
既に授業は始まっていた。
みっちゃんは、授業中いつも良く空を見ていた。
席替えで窓側の席になった時点で、窓の外ばかり見る様にはなっていたのだけれども、何故か校庭を見る気にはならなかった。
いつも空と雲を眺めていた。
そして今も、ゆっくりと空を流れる雲を見ながら、先程授業開始寸前に紙夜里に言われた言葉を思い出していた。
『四組の根本かおりと、話したい事があるの。でも私が直接四組に出向くと、彼女は警戒してクラスから外に出て来ないかも知れない。だから先ず、みっちゃんが呼び出して来て。私はその間にみっちゃんが干して来たという美紗ちゃんの上履きを取りに行って来るから。それでいつもの屋上のドアの前で待ち合わせしよう。いい、みっちゃん。五時限目が終ったら即行動開始だよ。さっさと片付けて、放課後は美紗ちゃんと帰るんだから。いい?』
イイもクソもなかった。
みっちゃんに選ぶ権利がない事くらい、本人が一番良く分かっていた。
ただ、今こうやって雲を見ながらつい溜息が出そうになるのは、それが凄く面倒臭そうに感じたからだった。
(本当に、何をやってるんだ。私は?)
再び五年四組。
授業が進む中、徐々に先生の目を盗んで、根本かおり宛の手紙が届き始めていた。
その多くは後ろの席の遠野太一の手を介して届けられた。
根本の机、ノートの上にばら撒かれた五通の小さく折られた手紙。
それらはほぼノートを破いて作られた、罫線の入った手紙だった。
「はーっ」
まだ朝の上履きの件の言い訳が、ちゃんと思い付いていない根本は、それを眺めて思わず溜息が漏れた。
どうしたものか? と、思いながらも中身を一応確認する様に一通ずつ開いていく。
(やはり…)
思った通りの内容だった。
そこに書かれていた内容の殆どが、根本の体調を心配する言葉と、その後に続く上履きの話だった。
『朝の倉橋さんの上履きの話は、アレで終わり? 情報の間違い?』
『美紗子さん、上履き履いていたけど、あの話はどういう事? 男子に現を抜かして忘れて来たんじゃないの?』
『かおりちゃん、嘘を付いた訳じゃないよね? あれは何かの間違い?』
全てが根本に説明を求めていた。
更に嘘を付いたんじゃないかと勘繰る言葉もある。
万が一嘘つきと断定されると、その後の顛末がどのようになるかは、自分の兄弟で根本自身嫌と言うほど分かっている。
(それだけは嫌だ)
根本は手紙の文字を眺めながら、唇を噛んだ。
午前中答えが出ないまま保健室で過ごして、このままでは不味いと教室に戻っては来たが、この状況はつまり、言葉を間違えれば自分が嘘を付いたと疑われるという事だ。
(冷静に考えなくちゃ)
思わず全ての問題を美紗子の所為にして怒りが込み上げて来るのを押さえ、根本はそう思った。
先ず、根本の推理による所の、美紗子が友達から上履きを借りて履いている。という話が言えないのが痛かった。
それは確認を求められる可能性がある。
誰かが美紗子に『その上履きどうしたの?』と尋ねる様な事があれば、美紗子は全てを語るだろう。『下駄箱にある筈の上履きがなくて、友達に借りた』と。
その場合、根本の主張する男子に現を抜かして上履きを忘れたという話と、美紗子の主張するあった筈の上履きがなくなっていたという話では、果たしてどちらをクラスの女子は心底信じるだろうか? 考えるまでもない。
その上、貸した友達の確認までされれば、美紗子の話は更に信憑性を増すだろう。
そしてそれと同時に、消えた上履きの嫌疑が根本に掛かる事も間違いない。
つまりここは…素直に謝るのがやはり一番良いのだ。
根本はそう判断すると、一つの手紙の下の空欄に、次の様に書き始めた。
『心配かけてごめんね。つい興奮して気絶しちゃった。(笑) 私もその情報は半信半疑だったから、思わずハラハラドキドキ、興奮しちゃって。でも、ちゃんと上履きを履いて来たって事は、間違いだったみたい。ごめんなさい。 代わりに次の休み時間には、面白いものを見せるよ。勿論倉橋さん絡みで♪』
この文章で失敗はまだ一回。更に次の休み時間に何かあると匂わせた。
これならば、即嘘つき呼ばわりに転じる事はないだろうと、根本は自分の書いた文章を読み直して思った。
だから、その他の四通の手紙にも同じ様な文面を書いて、それぞれ質問して来た人たちへと、手紙を戻した。
「後ろに回して」
と、小声で根本は太一に言うと、三通の手紙が太一の机の上に投げ出された。
急いでそれに腕を乗せて隠しながら、太一は教壇の上の先生の様子を伺った。
先生は黒板の方に向き直り、何か書こうとしている所だった。
太一は急いで誰にも気付かれない様に、腕の下の手紙から一通を取り出した。
そして静かに開いて読み出す。
(美紗子の上履き? 興奮して気絶? 情報は間違い? 何の事だ?)
太一はその場で、その文章から読み解ける仮説を立てようと試みた。
(どうやら今朝は、美紗子が上履きを履いていないという情報が流れたらしい。そしてそれを楽しみに、興奮し過ぎて根本は気絶した。その情報が間違いで、美紗子が上履きを履いて来たから。なんだそりゃ? つまり根本には美紗子が上履きを履いて来ないという絶対的な自信があったという事か? それは…上履きに根本自身が関っているという事か? もしかするともう、無視ではなく虐めに移行しているのか? どうする? これは幸一に教えるか? 教えないか? ん~、さっきの五十嵐の事も少し気になるんだよな。う~ん)
太一は読み終えた手紙を畳み直して、他の二通と一緒にすると、先生の様子を確認しながら後ろの席の女子の机に素早く置いた。
そしてその間も、ずっと幸一にこの事を教えるべきか悩んでいた。
その時、突然ピン! と、土曜日に万引きした本の中に書かれていた一文が頭に浮かんだ。
『ピンチをチャンスに変える! 誰かのピンチは誰かのチャンス!』
(これは、俺にとってチャンスなのか…)
つづく
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