第47話
先生が再び教室に来て、クラスの朝礼が始まる少し前に、幸一は自分の席へと戻って来た。
まだ机にうつ伏せている美紗子を横目に、正面の黒板の方を向く。
美紗子は幸一が戻って来た事を、椅子を引く音や、座る音から分かっていた。
(私がこうしていても、幸一君は何も声を掛けてくれないんだね。幾らそういう約束をしたからって…好きだって言ってくれたのに。もういいんだよ。どうせ無視されているんだから。虐めも始まったのかも知れないし。悠那にも悪いと思ってあんな事言ったけど、ちょっと失敗したなぁ。無視されてると気付かなかったうちは、何とも思わなかったけれど。気付いてそう意識したら、結構辛い。急にクラスで独りぼっちなんだって、実感して来た。あーもうホントに紙夜里ちゃんだけだよ。普通に話せて、私に優しくしてくれるのは)
そんな事を考えながら、美紗子は朝礼が始まり、日直が「起立!」と言うまで、そのままでいた。
一時限目の授業が始まり、そして終ると、昨日までの何とかなるという思いとは裏腹に、美紗子は教室にいたくなくなって、直ぐに廊下へと飛び出した。
休み時間は何処かへ行って過ごそうと、授業中から考えていた事だった。
独りぼっちであの席に座り、休み時間を過ごす自分の姿を、周りの人たちに見られる事が、居た堪れなく感じたからだった。
あてどもなく廊下を歩く美紗子。
カポッ カポッ
意識するのを忘れ、緩い上履きの音を立てて。
その頃、保健室では根本かおりが目を覚ましていた。
目を開けた根本が最初に見たのは、白に黒い点々がポツポツとある、ジプトーンの軽量天井だった。
保健室の天井だ。
根本は暫くその黒い点を眺めながら、ボーッとしていた。
何が起こったのか、直ぐには理解出来なかったからだ。
ボーッとしながら、先程までの朝の出来事が、頭の中で早送りで流れる。
『履いてるよ。上履き。履いてるよ!』
突然頭の中に響く誰かの声。
キーーイィーーン!
と、耳鳴りがして、辛い表情になる。
それから根本は、我に返った。全てを理解した。
気絶した根本は、先生に運ばれ、保健室のベッドで寝ていたのだ。
(今は何時限目だろうか?)
そんな事を思うと、根本は静かに音を立てない様に、ゆっくりと首だけ回して、保健の先生の机の方を見た。
先生は出かけているのか、姿が見えない。
安心した根本は仰向けだった体も少し横にして、先生の机の上の壁に掛かっている時計に目をやった。
時間は九時三十分をさしていた。
(丁度休み時間か…)
直ぐに教室に戻るつもりのなかった根本は、もう一度体を仰向けにして、天井を眺めた。
考えなければならない事が幾つかあったからだ。
自分では確認出来なかったが、倉橋美紗子は上履きを履いて来たらしい。
(どういう事だ?)
それは根本にとって、相当不利な状況だった。
(このままだと私が嘘を付いたと思われる。また誰も私の言葉を聞かなくなる。ウチの家族みたいに、私を嘘つき呼ばわりする様になる。畜生! 美紗子の奴! まさかあの泥だらけの上履きを履いて来たんじゃないだろうな。わざわざ上履きで泥を掬って、中まで泥だらけにしたのに。いや、そんな汚いのを履いて来る筈がない。じゃあ、どうして…)
根本は思案し続けた。
「よし!」
美紗子は思わず独り言を呟いた。
女子トイレの中には美紗子しかいなかったからだ。
トイレの手洗い場の鏡の前で、その場歩きの要領で、足を大きく上げたり下げたりする。
しかし今は、カポッ カポッっと、緩い上履きの音は聞こえなかった。
廊下を歩いている途中で気付き、女子トイレでポケットティッシュを上履きのつま先に詰めたのだった。
だから今は緩くなく、音もしなくなっていた。
鏡に向かってちょっとだけ微笑む。
美紗子は少しだけ良い時間の使い方をしたような気がして、気分が良くなり、そのまま教室に戻った。
後ろの出入り口の所から、自分の席の方を眺める。
幸一はまだ席に戻ってはいなかった。
(本当に避けているみたい)
「はぁー」
思わず溜息を漏らすと、美紗子は更に根本かおりの席の方を眺めた。
こちらもまだ、戻って来てはいなかった。
朝方遠目に見た、床に倒れている根本と、その後直ぐにクラスの女子に言われた『あんたの所為だから!』と言う言葉が、頭の中で交互に繰り返される。
(被害者は私の筈なのに、まるで私が悪いみたい)
そう思うと、堪えていた怒りが沸々と湧いて来て、美紗子は急に色々な事が腹立たしくなった。
(だいたいなんで、今一番に相談したい幸一君は私を避け続けているの? どっちにしてももう状況は同じなんだから、前みたいに色々話したいのに。好きだって言ってくれたのに、周りばっかり気にして。私はからかわれたって、ちょっとくらい虐められたって平気なのに。幸一君と一緒なら平気なのに)
そんな事を思いながら自分の席の方に向かう美紗子の姿は、傍から見ても怒っている様な歩き方だったのかも知れない。
遠巻きに、クラスの殆どが美紗子の事を眺めていた。
(それから悠那も、あんなに味方だからとか言っていたのに、幾ら私が無視くらいなら大丈夫だからと言ったからって、何も急激に中嶋さんと仲良くする事もないじゃない。私が楽しそうにしているあなた達を、一人遠くから眺めるのが、どれ程辛いかくらい分かるでしょ? 全く、あんな事言わなきゃ良かったな…独りぼっちになってみたら、何か皆んな、冷たいよ。私はきっとそれでも、悠那や幸一君が、話しかけてくれると思っていたのに)
自分の席に着いた美紗子は、椅子を引き、そこに座ると、先程と同じ様に机にうつ伏せた。
二時限目が始まっても、根本は保健室から教室に戻ろうとはしなかった。
一度保健の先生が様子を見に来たが、「まだ眩暈がする」と言って、根本は具合が悪そうにして見せた。
先生はその声と表情を見ると、困った様な顔をして、直ぐに自分の机の方へと戻って行った。
根本にはまだ、この状況を打開する策が浮んでいなかったのだ。
早朝の誰もいない下駄箱には、確かに美紗子の上履きがあった。
それは確かに神様がGOサインを出した証拠の筈で、上履きがあった以上、この作戦は上手く行く筈だったのだ。
根本が渇望する、困って泣き出す美紗子。感情を露にする美紗子は、目と鼻の先だった。
(どうして上履きが…)
だからどうしてもそこに、頭が行ってしまうのだった。
その謎が解ければ、また噂話のネタにする事も出来るだろう。
やはり泥だらけの上履きを履いて来たとは考えられない。
何処かに秘密がある筈である。
(そして私はそれを知っている筈)
根本は上履きの出来事を、逆から見直してみた。
美紗子が上履きを履いて教室に来た。
自分が美紗子の上履きを、側溝の泥の中に捨てて来た。
土曜日に兄に虐められた時に、月曜には美紗子を虐めようと、上履きを捨ててやろうと、はっきりと意識した。
何故?
(何故私はそう意識した?)
それは橋本紙夜里という二組の女子が、倉橋美紗子と一緒にいたから。
彼女は私に、美紗子のキスの話を教えた。
それなのに美紗子と一緒にいた事から、私は彼女を警戒する様になった。
彼女には何かある。
それは私を罠に嵌める事かも知れない。
だから私は事を急いだ。
誰にも邪魔されず、美紗子を踏み台に、私がクラスの人気者になる為に。
その為に無視から虐めに、早い段階で切り替えたのだ。
誰にも止められない様に。
もはや後の祭りとなる様に。
もしそれを、阻止する奴がいたとしたら…
(みーつけたっ♪)
根本の中で、上履きの謎が解けた瞬間だった。
つづく
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