第35話
振り向いた根本は、直ぐに声を掛けて来たのが二組の紙夜里だと気付いた。
美紗子の事を調べる為に、二組に話を聞きに行った時に聞いた名前で、話を訊こうとしたのだが、邪魔が入って訊けなかった相手だ。
「あなた…」
根本はそう言うと、紙夜里の名前を度忘れして、先が出なかった。
「根本さんでしょ? 美紗ちゃんの事を調べているんだよね?」
微笑みながら近付いて来る紙夜里。
根本は「あ、えっ」と、歯切れの悪い感じで声を出しながら、紙夜里と隣に立つみっちゃんの顔を見比べた。
みっちゃんとは面識があった。
それこそ紙夜里の事をみっちゃんに尋ねた時、「何の用? 紙夜里なら何も話さないよ」と、邪魔されたのだった。
更にみっちゃんは、根本の調べでは例の放課後の教科書騒動の当事者の一人だった筈なのだが、「私は何も知らない」と言い、何一つ教えてもくれなかった。
その二人が今、目の前にいる。
(これは気でも変わったのか?)
根本はそう思うと、新たな情報収集の期待に、思わず頬が緩んだ。
「いつも一人で帰っているの?」
「え?」
その時紙夜里から想像もしていなかった、自分への質問が飛んで、根本は緩んだ頬が一瞬にして引き攣った。
それはあまり訊かれたくない質問だった。
そう根本は、いつも一人で帰っていたからだ。
そもそも根本は、クラスの誰とも話が上手く噛み合わなかった。
自分では何処がおかしいのか分らないのだけれど、どうもクラスでは浮いている存在として認識されているのという事だけは、自分でも何となく気付いていた。
しかし気付いていても、根本自身、原因が分らないのだから、本人とてどうしようもなく日々過ごすしかなく。そんな時、一度だけクラスの視線が自分に集まった時があった。
それが噂話だった。
しかもただの噂話ではなくて、本当は根本が作った嘘話だった。
クラスの女子数人が輪になって話しているのが羨ましくて、楽しそうで、混ざりたくて、根本は即興で作った噂話をした。「ねーねー、知ってる?」っと、輪の中に入り。
その話はこんな話だった。
「あのね、ウチの学校の五年の入っているこの校舎、昔は屋上も上れたんだって。だから屋上に安全用の柵もあるの、校庭からでも見えるでしょ。ところが十年以上前に、そこから柵を乗り越えて、飛び降り自殺をした生徒がいたらしくて、当時の五年の女子らしいんだけど。なんか、友達関係で悩んでいたらしくて。それからね、屋上は立ち入り禁止になって、屋上への扉はずっと鍵が掛かっているんだけれど…実はそこの扉の前に、出るらしいの。その女の子の霊が…だから、三階のこの五年の階から屋上への扉まで階段はあるけれども、そこは上がらない方がいいらしいよ。霊が憑くから」
この作り物の噂話は大いにクラスで受けた。
そしてこの時だけは、根本に詳しく聞きたがる生徒達が群がり、それから数日はまるで人気者の様な扱われ様だった。しかし噂は何れ消えて行く。一週間も経たないうちに、根本はまた一人でいる事が多くなった。
「今日は偶々、普段は友達と一緒に帰っているよ」
根本は見栄を張って嘘を付いた。
「ふーん。そうなんだ」
根本を観察する様に眺めてから、みっちゃんが答えた。
紙夜里もみっちゃんも、それが何となく嘘である事に気付いていた。
その上で、紙夜里は本題に入った。
「根本さんって、美紗ちゃんの事色々調べているみたいだけれど、噂話とか好きなの?」
「えっ?」
今度はあまりにもストレートな質問で、根本は思わず聞き返した。
答えは考える間もなく、当然大好きだった。
それは噂話が根本の周りに人を集めるからで、かつての作り話の至福の時が今でも忘れられないからで。
だから美紗子の話は格好のネタだった。
美紗子は男女共に結構な人気がある。それはつまり妬む人も同じ位いるという事で、その人達は喜んで美紗子の噂話を聞いてくれる。それも今度のは屋上のお化けとかではなく、もっと身近なクラスメイトの現在進行形の噂話だ。当分根本の周りにも人が集まり続けるだろう。それどころか、美紗子の人気と入れ違いに自分が人気者になる事だって、あるかも知れない。
しかしここでそれを言う程根本も馬鹿ではなかった。
「普通かな? どっちかっていうと友達がその噂を知りたがって、調べて来てって頼まれた感じで。私は本当はどうでもいい事なんだけど」
「ふーん」
根本の話を聞きながら、紙夜里は値踏みする様に、根本の全身を眺めた。
「じゃあ私、とんでもない所を見ちゃったんだけど、教えなくてもいいか。どうでもいいんなら」
一通り眺めた後、紙夜里はニヤリと笑って言った。
「え? 何の事?」
飛び付く様にすぐさま聞き返す根本。
みっちゃんは、紙夜里が何を言い出すのか? 不安で胸が苦しくなって来ていた。
(何を言う気なんだ…紙夜里)
次の日の朝のクラスは、美紗子でも気付く程はっきりと一転していた。
朝美紗子が教室に着いた時には、既に半数の生徒は来ていて、席に着くまでの通路ですれ違った女子には、「おはよう」っと、声を掛けたのだが、一人も返しては来なかった。しかも全員目を合わせようともしない。
美紗子はすぐさま昨日の帰る時の事を思い出し、そしてあの時感じた違和感が、違和感ではない事に気付いた。
(わざとだ。無視されてる)
自分の席の前に立ち、ぐるりとクラス内を見回す。
まだ美紗子の特に仲の良い悠那を含む友達連中は来ていなかった。
(どの程度広まっているんだろうか)
何れこういう事も起こり得るとは、最近の水口との話からも憶測はしていたので、美紗子は自分でも意外な程落ち着いて冷静に考える事が出来た。
そして全ての元凶と言っても過言ではない隣の幸一の席を眺める。
まだ来ていない。
主のいない空の席を眺めながら、美紗子はフッと唇の隅を上げて、にやけた顔になった。
(幸一君は気付いているんだろうか? 二人で過ごした図書室での日々が、今こうやって私に不運を覆い被せている事を。全ては、あなたの所為なのよ)
そう思うと、無視をされている筈なのに、不思議と顔が綻んでしまう。
(ああ、私は幸一君の事が好きなんだ…)
そう思うだけで、体中が温かくなり、幸せな気持ちになるのは何故だろうか?
美紗子はまだ、自分は耐えられると確信した。
それからランドセルの中の物を出して、机の中に入れると、美紗子は立ち上がり空のランドセルを後ろの棚に置きにと歩いた。
美紗子が側を通ると、それまで友達と話していたのが、突然話すのを止める女子がいた。
そういう人達を観察しながら歩くと、そのうち男子には無視されていない事に気付いた。
「おはよう」と声を掛ける男子もいれば、ニヤニヤした顔で美紗子の顔を眺めていく男子もいたからだ。だから男子には、妙な噂はまだ流れていないと美紗子は確信を持った。そしてそれは、幸一の事を想う美紗子にとっては良い事だった。
(少なくとも幸一君が無視されたり、虐められたりする事は今の所なさそうね)
そんな事を考えながら屈んでランドセルを棚に入れている時だった。
教室の出入り口から、あの日の夕方、一緒に下校した中嶋美智子が入って来た。
悠那や美紗子のグループに、いつも隅の方で混ざっていて話を黙って聞いている子。
『私さー、美紗ちゃんとこうやって帰ってみたかったんだー』
あの日の言葉が蘇り、美紗子は屈んだまま振り向いて、仰ぎ見る様に美智子に
「おはよう♪」
と、声を掛けた。
途端、立ち止まって困った様な顔をする美智子。
「おは…よう」
それは視線を合わせず、斜め下を向いたままの、微かに震えた、聞こえるか聞こえないかの小さな声だった。
そしてそんな美紗子と美智子を、教室の真ん中辺りで、八人程の女子と共に眺めていた根本がいた。
根本は今、丁度紙夜里から聞いた話を皆んなにしている所だった。
つづく
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