第29話
それから暫くして、クラスの生徒も殆ど登校して来た頃に、美紗子も教室に入って来た。
教室の後ろの席の、仲の良い悠那とその周りに集まっている友達に挨拶をして通り過ぎる。
「美紗ちゃん遅いよ!」
後ろから悠那の快活な声が聞こえたので、美紗子は振り返って微笑んで手を振った。
(何もいつもと変わらない。普段の教室の光景だ)
美紗子は悠那に向けた笑顔のまま前を向いて、そう思った。
だからそのまま自分の席に向かうと、机にランドセルを降ろし、腰を曲げて脇のフックに手提げバッグを掛けながら、小声で、
「おはよう」
と、隣の席に座っている幸一に向けて発した。
思わずハッとした顔で振り向く幸一。下から斜め上に、美紗子の顔は意外と近くにあった。
その顔は先程までの悠那に向けた笑顔のままで、少しだけ悪戯っぽく笑っている様に見えた。
確かに線の細い顔立ちはとても可愛いくて、まるで天使の様だと、幸一も一瞬見入ってしまった。
しかし直ぐに、先程の黒板の件が頭に過ぎる。
幸一は急いで挨拶もせずに美紗子から目を逸らすと、机の上に出していた本を開いて読むふりをし始めた。
怪訝な顔をする美紗子。
(昨日の事で興奮しているのは私だけなのか。昨日好きって言ってくれたのに。でも、このまま当分話さないでいようっても言われたから……私なら、冷やかされても大丈夫なのに)
そんな事を思いながら美紗子は自分の席に着くと、ランドセルを開けて、教科書等を机の中に移し始めた。
それは一瞬の出来事だったけれど、それでも見ている人は見ているもので、教室のあちらこちらで、一瞬沈黙があった。
美紗子も幸一も、そして太一さえもまだ知らなかったが、昨日根本が流した噂の書かれた紙によって、既にクラスの女子の三分の二以上は、『美紗子は影でコソコソ、幸一と図書室でデートをしている。この前は二組の女子から教科書を借りて、それを忘れてデートしていたから、関ったこのクラスの女子は面倒な目にあったらしい。』という事を知っていた。
そして噂というものは、責任者が自分ではないとなった時点から、その内容の真偽はあまり関係なかった。語尾に~らしいよ。っと、付ければそれで良いのである。
「表で堂々とベタベタすればいいのに、裏に隠れてって、なんかイメージ悪いよね」
「男子に人気あるからって、表じゃいい顔してるけど、裏じゃ相当な男好きなんじゃないの」
「男子に現を抜かして、教科書は忘れるわ、返すのもわすれるわじゃ、馬鹿なんじゃないの?」
「あーゆー子とは、あんまり関らない方がいいかもね」
「私多分、話し掛けられたら無視しちゃうわ」
「私も」
「ちょっと可愛いからって。男子が優しくするからあーゆー子になるんだよ。水口さん相当酷い目にあったって。聞いた?」
「水口さんかわいそう」
「ちゃんと皆の前で謝るべきなんじゃないかな~」
「土下座して? ハハ」
「私、倉橋さんと元々あんまり仲良くないから、無視するわ」
「あ、じゃあ私も」
クラスのあちらこちらで囁かれる言葉たち。
そんな言葉など全く聞こえて来ない美紗子は、幸一の態度に少ししらけた気分で、空になったランドセルを仕舞いに、後ろの棚へと向かった。
何でもない日常。
そして先生も教室に入って来た。
その日の授業もクラスも、美紗子にとっては何事もない、普段の日常だった。
そもそも美紗子はそれ程色々な女子と話して歩いている訳ではなかった。
他の女子のグループからも一目置かれる、ちょっとおしゃれな子のグループ、悠那のグループに入っていたからだ。
休み時間の用事のない時は、本を読んで過ごすか、悠那の隣に並び、仲の良い友達らと話をして過ごしている。
一目置かれているグループである。他の女子もそうそうその子達に美紗子の噂を流す勇気もなかったし、タイミングもなかった。
そんな訳で、まだ美紗子はクラス内の動きに気付かず、幸一と話せない事の悲しさだけを胸に過ごしていた。
昼休みの校庭の片隅。
いつもの遊び友達、五十嵐、谷口、丸山とドッヂボールのボールで円になって遊んでいる幸一。
しかし今日はそこに太一の姿もあった。
「どーゆー事。急に仲良くなった?」
幸一の隣にいた五十嵐が側に寄って来て小声で尋ねる。
「知らないよ。何か今日はちょこちょこ側に来るんだ。昼休みも校庭に出ようとしたら、『何をするんだ? 混ぜろっ』って付いて来て。大体アイツ、やる事やってんだろうな?」
「何だよ? やる事って?」
幸一の言葉尻を掴んで五十嵐が更に尋ねた。
「あ、いや。何でもない」
慌てて打ち消そうとする幸一。
あの事とは、朝の話の事だった。
その間も、五十嵐と幸一が話しているのを、太一はじっと見ていた。
ボールは丸山から谷口へ、そして幸一へと投げられた。
普段一緒に遊ばない太一のもとへは、基本的に殆どボールは飛んで来なかった。
そして幸一の予想通り、太一はまだ女子に噂の事とか、今朝の黒板の事とか、訊いて回ってはいなかった。
太一は普段、自分では普通の顔をしているつもりなのだが、どうやら周囲から見るとムッとして怒っている様に見えるらしかった。それを教えてくれたのは自分のクラスの人ではなくて、二組の北村颯太だった。
颯太は少し乱暴な所がある子で、喧嘩が強く、怒ると怖いのだが、普段自分のクラスの女子とも普通に話していて、男子からもそれなりに人気のある存在だった。
太一はいつも女子に話し掛けると、一瞬相手が困った様な顔をされるのに気付いてからは、あまり積極的に女子に話し掛ける事がなくなっていた。しかし、美紗子に対してだけは別で、何とか話し掛けたかった。親しくなりたかった。
それで三年の時同じクラスで、比較的仲の良かった颯太に相談したのだった。
「それはお前、無表情だからだよ。笑え! いつでも何処でもヘラヘラ笑ってろ!」
颯太は太一の両方の頬を思いっきり引っ張りながら、面白そうに笑っていた。
(俺もそんな風に笑えれば、人生変わるのかな?)
颯太の顔を見ながらそんな事を考えていると、両の頬を引っ張られながらも、太一は微笑んだ。
「そうだよ。それで良いんだよ! そうしていれば女子だって気軽に話易いさ」
それから生まれ変わろうとしているのだけれど、なかなか上手くは行かなかった。
つづく
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