第2話
幸一は担任が、頼み事を席順の並びで言ってくる事があまり好きではなかった。
「じゃあ今日は、山崎幸一と倉橋美紗子だな。次の理科の授業で使うから、休み時間の内に体育館の用具室に行って、ソフトボールの球を、えーと、班の数以上だから、八個程持って来てくれ。用具室に金バケツもある筈だから、それに入れて」
三時限目が終了して直ぐに先生はそれだけ伝えて教室を出て行った。
「「はい!」」
二人とも元気良く答える。
しかし最近では、冷やかされる頻度も増えて来ていたので、幸一の心は口程には元気ではなかった。
「いこう」
そう言って美紗子は立ったままの幸一の手を取ろうと手を差し伸べた。
「ああ」
しかし幸一はそう言って、伸ばした手を無視する様に一人歩き出した。
美紗子との距離を取る様に。
慌てて後ろを歩き出す美紗子。
口に出してこそ言わないが、ニヤニヤした顔で二人を見ている何人かのクラスメイト達。
幸一は教室を出て廊下を歩いている間も、美紗子の前を一人で歩いた。
縦に並んで歩き、階段を降りて行く。
校舎一階の体育館とを繋ぐ渡り廊下辺りまで来ると、もう先生も生徒も周りにはいなかった。
「幸一君、最近ちょっと変わったよね」
突然、美紗子が言った。
「ん?」
その言葉に思わず幸一は立ち止まって振り返り、周りに人がいない事を確認しながら、美紗子の方を見た。
美紗子は頬を膨らませ、あからさまに怒っていた。
「最近幸一君。あんまり話し掛けてくれないよね。話し掛けても上の空だったり。避けてる様に見える時もある。前はあんなに、本の話とかしてたのに。何か悪い事した? 幸一君怒ってる?」
「いや、何も。前と変わらないよ。寧ろ…」
怒っているのはそっちじゃないか? と、美紗子の顔を見ながらそう言いそうになったのを、幸一は呑み込んだ。
「じゃあ。、やっぱり冷やかされるから?」
怒っていた表情から、今度は一転して心配そうな顔をして美紗子は言った。
「それは…ある。僕だけじゃなくて、美紗ちゃんだって迷惑だろう? だから、教室とか、皆んなのいる所では、あんまり話さない方がいいかと思った」
「そう…」
幸一の言葉に美紗子は寂しそうに答えた。
その言葉を聞くと幸一は再び前を向き歩き始め、辿り着いた体育館の扉を横に引いて、開けた。
中には誰もいない。
ガラガラガラッ
と、幸一が扉を開けた時の音だけが残響で体育館内にまだ響いていた。
幸一はスタスタと館内に上がり歩き始める。
美紗子もそれからは一言も話さず、黙々と後ろをついて歩く。
そしてそのまま、二人とも黙ったまま用具室の前まで辿り着き、その扉を開く時、取っ手に手を掛けて、幸一は一度後ろの美紗子の方を振り返った。
美紗子は下を向いて、詰まらなそうにしていた。
その時感じた感情が、愛情なのか? 哀れみなのか? 幸一には判らなかったけれど。
また前を向き、美紗子に背を向ける様にしてから幸一はポツリと言った。
「でも、図書室とかあまりクラスの人達がいないような所でなら、また本の話とか出来るかも知れないね」
美紗子は顔を上げた。
「そう! 私、今読んでる本の話したかったんだ~ 幸一君しかそういう話出来る人いないし」
幸一の言葉に顔を上げた美紗子は、目を爛々と輝かせてそう言った。
「はは、女子にはいないの? 本の話とか出来る人? それに、毎日は駄目だよ。僕も昼休みはドッヂボールやサッカーにも混ざりたいし」
「そうだよね…」
美紗子はまた少し寂しそうな顔に戻りながらそう言った。
幸一は美紗子のそんな表情を少し気にしながらも、用具室の扉を開き、中へと入って行った。
奥の壁際にソフトボールの球が入った籠が見える。
幸一は入り口付近に重ねて置いてある金バケツを一つ取ると、その籠の方に向かって歩き出した。
その時、後ろを付いて歩く美紗子が静かに話し始めた。
「クラスで幸一君程、本や映画に詳しい人、いないよ。仲の良い子もいるけど、皆んな本の話とかしないし、ドラマとか芸能人の話ばかり。今ね、『風と共に去りぬ』読んでるの。お母さんのなんだけど、お母さん、その話が大好きだったんだって。何冊も巻数あって、ちょっとカタカナの地名や、名前がこんがらがっちゃうんだけど。時々、凄く面白く感じる所があって。幸一君、知ってる?」
幸一は美紗子の話を黙って聞きながら、ソフトボールの入った籠の前まで来ると、それを一つ一つ数えながら、持って来たバケツへと放り込んで行った。
それから、八個の球をバケツに入れ終ると、それを持って美紗子の方を振り返った。
「お父さんがDVD持ってて、前に一緒に映画を観たよ。主人公のスカーレット・オハラが凄い美人なんだけど、ちょっとおかしな人で。結構周りの人に嫌われてたりするんだけど、自分の意志を曲げずに生きて行く話で。ああ、人生って、生きて行くって、大変なんだな。色々あるんだなって、確か思った」
話しながら幸一は歩き出し、美紗子の前を通り過ぎて、用具室を出ようとした。
目の前を通り過ぎる幸一を目で追いながら、美紗子も直ぐに後ろを向き、幸一の側へ、並ぶ様に歩き出した。
幸一が用具室の扉を閉めると、手に持っていたバケツが幾らか軽くなったのを感じた。
美紗子がバケツの取っ手に手を掛け、一緒に持っていたのだ。
思わず不思議そうな顔で幸一は美紗子の顔を見た。
美紗子は微笑んでいた。
「フフフ、やっぱり幸一君は大人だし、優しいね。他の男子とは違う。でもね、これは二人で取りに行くようにって、先生言ったから」
「そう…」
幸一は言いながらも本心では、二人でバケツを持ってクラスに戻る事がとても嫌だった。また冷やかされるかも知れない。意地悪な事を言われるかも知れない。そんな事が脳裏を掠めた。
しかし美紗子は、幸一と一緒にバケツを持って並んで歩く事を、とても楽しそうにしていた。だから幸一は『いいよ、一人で持つよ』とは、言えなかった。
体育館を出て、渡り廊下を歩き、校舎一階に入り、階段を上り始めると、徐々に他の生徒とすれ違う様になって来た。
クスクスッ
すれ違う生徒達が、自分達を見て笑っている様な気がして来て、幸一は、バケツを挟んで美紗子と並んで歩くのが、段々恥ずかしくなって来ていた。
五年の階に着いて、自分達のクラスへの廊下を歩く。
廊下のあちらこちらに立っている女子が、自分達の方を見て笑っている様な気がして来て、幸一は徐々に下を向いて歩き出した。
そのうち、廊下に出ていたクラスの男子の声か、
「幸一~ ラブラブだな~」
「ひゅー ひゅー」
「山崎夫妻が、キター!」
「あはははは」
と、言う声が聞こえて来た。
幸一の恥ずかしさはもう限界だった。
「あっ」
だから、美紗子が軽く声を上げた時には、幸一はバケツから手を離して、走って教室の中に一人で入る所だった。
一人になった美紗子は、バケツの重さに背中を丸くして、一人耐えながら、なかなか足を前へと出せないでそこに止まっていた。
「んっ」
重さに負けない様に力を入れると、思わず声が出た。
「あらららら、恥ずかしくなって幸一逃げちゃたよ~」
「そりゃないでしょ~」
「あはははは」
周りの男子達の笑い声が聞こえた。
その時だった。
急にバケツが軽くなり、見ると、誰かがバケツの取っ手を持ているのが美紗子には分った。
慌てて顔を上げて声を出す。
「ありが…とう」
美紗子はその顔を見て、少し驚いた。隣に並んでバケツを持っていたのは、遠野太一だったからだ。
「いいよ」
太一はそう言うと、バケツを引っ張るように歩き始めた。
引っ張られて慌てて美紗子も歩き出す。
美紗子はどうにも太一には怖そうなイメージがあり、苦手だった。
「なんだよ、太一じゃ冷やかしてもつまんねーや」
「ホントホント」
周りの男子達の言葉が聞こえて来る。
「なんだよそれ~」
太一はニヤニヤしながらそう言った。
教室に一人戻った幸一は、そのまま早足で自分の席に座り、机の上に両腕を投げ出すと、うつ伏せになり、その中に顔を埋めた。
(あ~、何やってんだ僕は…)
直ぐに美紗子を置いて来た事への自責の念に駆られ、冷やかされた時とは別の恥ずかしさが全身を襲った。
冷やかされてドキドキして来ると、恥ずかしさに我を忘れて、金バケツから手を離して駆け出してしまった。残された美紗子はどんな気持ちだっただろう。一人で持つには、バケツは重くはなかったか? 顔を埋めて、目を閉じて、暗い世界の中でそんな事を幸一は考えていた。
幸一が教室に戻ってから二~三分の差で、美紗子は太一と二人でバケツの取っ手を掴み、教室へと入って来た。
教壇の前へと向かい、二人でバケツを置く。
「あ、ありがとう」
どうにも太一に慣れない美紗子は、そわそわしながら言った。
「いいよ、これくらい」
太一は少し嬉しそうに、頬を緩めながら答えた。
その言葉を聞くと、美紗子は直ぐに自分の机の方を向き、早足で歩き出した。
太一はそんな美紗子の後姿を、少し物足りなさそうに、眺めていた。
スタスタと自分の席に戻り、椅子に座ると、美紗子は隣の席で机にうつ伏せて顔を隠している幸一の方を振り向いて、話しかけた。
「ちゃんと持ってよね」
「へ?」
その声に幸一は顔を上げた。
美紗子が隣でクスクスと笑いながら、幸一を見ていた。
「美紗ちゃん…」
「幸一君が行った後、太一君が一緒に運んでくれた。そんなに冷やかされるの嫌? 恥ずかしい?」
美紗子は今度は真顔で尋ねた。
「ごめん。駄目なんだ、冷やかされると。頭の中が真っ白になっちゃって、自分でも後で考えると後悔する様な行動をとっちゃう。二人きりで話している分なら大丈夫なんだけど。それにそもそも仲が良い友達なだけなのに、なんでこんな事されなくちゃいけないんだって思うと、頭に来ちゃう」
「そうだね…」
幸一の話しにそう答える美紗子は少し寂しそうだった。
「美紗ちゃんだって嫌だろ? 冷やかされるの」
美紗子の表情から、同じ様に困っているのだと思った幸一は、そう尋ねた。
「私は…そんなに気にならないよ」
少し考えてから笑ってそう答える美紗子。
「そうかな~」
「でも、幸一君が嫌なら、やっぱりクラスではあんまり休み時間中一杯話したりとかは、しないようにするよ。図書室もあるし。フフ」
幸一の言葉に微笑みながら続けて美紗子が言った。
その時の表情に一瞬幸一はドキッとして、
(やっぱり可愛いな~)
と、頬を緩めて思った。
それから二人は、どちらから共なく昼休みや放課後に図書室へと行くようになった。
勿論毎回約束して来ている訳ではないので、お互いに会えない時もある。
しかしそれはそれで、本を読んで過ごすだけの事なので、お互いにとって、それ程苦痛な時間ではなかった。
最初の、ほんの些細なある出来事が起こるまでは…
つづく