第28話
次の日の朝はここ数日では久し振りに寒い朝だった。
前日の事もあり、あまり眠れず寝不足気味な美紗子は、なかなかベッドから出られないでいた。
布団を頭の上まで被り、枕の上にちょこんと顎を乗せて、眠い眼を擦りながら開く。
枕の上には美紗子の長い髪の毛がフワリと垂れ下がり落ちて、広がっていた。
それから正面の勉強机の上の、こちらに向けた目覚まし時計を眺めた。
午前六時五十五分。
今起きて急いで着替えても、いつも楽しみにしているテレビの占いのコーナーには間に合わない時間だった。
「幸一くん…」
ポツリとまだ夢見心地の中、独り言を呟くと、顔の筋肉が緩んで腑抜けた顔になる。
昨日の夜眠れなかった原因を、美紗子はまた今思い返していた。
幸一と手を繋いで一緒に帰った事。
想像は現実を美化して、美紗子の中の思い出はより一層美しいものへと変わって行った。
それはまるで、普段街中で偶に見かける高校生くらいの制服のカップルとか、テレビドラマの爽やかな男女のカップルとか。
普段から自分より大人びていると感じている幸一の事は更に大人なイメージで。
自分も、少し背伸びして中学生くらいのイメージで。
優しく握り合うお互いの手の内側、掌が密着して重なりあう時間。
そして間違ってしてしまった頬へのキス。
思い出しては自分の指で、薄くゆっくりと、唇を端から端へとなぞった。
ボーッとした時間を暫く過ごす。
それから身震いが起こって我に返り、美紗子は、自分の中の想いの激しさが増している事に気付いた。
(もっとはっきりと、ちゃんと好きだと伝えたい。そしてもっとちゃんと好きだと聞きたい。ああ、今日からまた目も合わせず、話も出来ないなんて嫌だ。毎日だって、好きだと言って貰いたい)
何時しかそんな事を想っていた美紗子の顔は、真剣な表情になっていた。
「よし!」
何かを決意したのか、美紗子はそう一人呟くと、うつ伏せの背中に掛かっていた布団を大きく跳ね飛ばして、寝ていた格好から四つん這いになり、そしてベッドの下に足を下ろすと立ち上がった。
そしてオレンジと赤の格子模様の上下のパジャマ姿のまま、とりあえずトイレに向かう。
これ以上寝ていると間違いなく母親が起こしに来るだろうう。
集団登校では班の副班長として列の一番後ろを歩かなければいけないのに、集まりに遅刻する訳にはいかない。
母親が起こしに来る前に、着替えていつも通り下に下りなくては。
二階の廊下の隅のトイレから出ると、美紗子は通路沿いの自分の部屋へと戻った。
そしてパジャマの上のボタンを胸元から順番に、下へと外し始める。
遮光カーテンは、着替えるまでは閉めているので、日差しは薄暗い部屋の中に、隙間から線状に幾らか入ってくるだけだった。
パジャマを脱ぐと、美紗子はその下に着ていた肩紐から首・腕周りにかけてピンクのラインの入った白のキャミソールの、そのまだ小さな胸の所に手を置いて、目を閉じて、一度深く深呼吸をした。
一階に降りて親や妹に会う前に、平常心に戻る為だ。
幸一への想いが溢れ出そうだから。
幸一の朝の登校班はいつも比較的早く集まるので、学校に着くのもいつも早い方だった。
今日も自分のクラスに着いた時にはまだ、男子は太一一人。女子は三人程しか来ていなかった。
そして教室に入ると直ぐに、幸一は今日がいつもの日とは少し違う事に気付いた。
誰とも話さず、ランドセルと手提げバッグを自分の席の机の上に置くと直ぐに、幸一は教壇の方へと走った。
黒板に書かれている字を消す為だ。
ここ数日はなかった悪戯が、今日は復活していた。
黒板の中心に大きな相合傘が書かれていた。
そこに並んで書かれていた名前は、山崎幸一、倉橋美紗子だった。
幸一は教壇に上ると直ぐに、黒板消しを手に大きく書かれた相合傘を消しに掛かった。
幸一の名前は青、美紗子の名前は赤のチョークで書かれていた。
大きく腕を伸ばし、一気にドンドン消して行く。
その間も幸一の心臓の高鳴りは、一向に落ち着く様子はなかった。
顔を恥かしさで真っ赤にしながら、頭の中はパニックで、何も考えられなかった。
ただ、黒板に書かれたその相合傘の二人の名前だけは、なるべくクラスに生徒が来ないうちに消し去ってしまいたかった。特に美紗子が来ないうちに。
ガタッ
黒板を消し終えると幸一は、黒板消しを黒板の下に備え付けてある粉受けに置いた。
それから「フーッ」と、一度息を吐くと、少し恐々しながら後ろを振り返った。生徒が集まり出して、また冷やかされるのではないかと恐れた為だ。
しかし幸一の予想とは反して、クラスの生徒の数は疎らで、男子が二人、女子が二人程度増えただけだった。
ホッとしながら幸一は、教壇からクラス全体を眺めた。そしてある事に気付いた。
遠野太一が既に教室に居たという事実だ。
今現在クラスにいた生徒達が、相合傘に気付いているのか、いないのかは分らなかったが、現状その事を話題にした話し声が聞こえて来なかったので、幸一は少し安堵して教壇を下りると、太一の席の方へと向かった。
(昨日のトイレでの話がある。太一は何か知っているかも知れない)
そんな事を考えながら、少し鋭い目付きで幸一は、席に座ってランドセルから教科書等を机に入れ替えている太一の側まで来た。
「よお、おはよう」
片手を挙げて、先に声を発して挨拶をしたのは、太一の方だった。
思わず幸一は面食らった。
「何だ? 怖い顔して。黒板の事か?」
太一の口から黒板という言葉が出た事で、幸一はより目を細め、慎重になり、とりあえず小さく頷いた。
その様子を見た太一は、「フーン」と唸り、それから手招きをして、幸一が屈んで顔を下げて、太一の顔の近くに来てから、周りに聞こえない様に小さな声で話し始めた。
「俺じゃないよ。そもそも俺がお前と美紗子の相合傘なんか書くと思うか? 俺が来た時には書かれていた」
「そうか…」
幸一もその点は太一の言う通りだろうとは思っていた。
「昨日俺が言っていた事、覚えてるか? やっぱりクラスの空気がおかしい。美紗子の事を女子が何やら噂している。それに黒板の相合傘を見ても、女子が誰もその事を話し出さない。気楽に話せる冷やかしや冗談ではないという事なのか…」
「なるほど」
どうやら太一は美紗子の事を本気で心配している様だという事が分り、幸一は太一の話を素直に受け取る事にした。
「じゃあ、女子にそれとなく尋ねれば分るかな? 噂の事も相合傘の事も」
「当事者のお前じゃあ無理だろう。俺が調べてやる。丁度俺は、お前みたいに女子と気さくに話せる様になる必要がある。練習にもってこいだ。いいか、幸一、お前の為じゃない。美紗子の為だ。美紗子の為に俺はお前を助けてやる。冷やかされたくないんだろ? フフ」
「……」
終わりの方は笑いながら話す、太一のその言い方が気に入らず、幸一は太一の言葉に何も答えず、黙って太一の顔を睨んで見ていた。
「フン、気に入らないのか? ま、俺も美紗子に好かれているお前が気に入らないさ。しかしその美紗子の為だ。今は協力しようぜ」
そう言うと太一は不敵な笑みを浮かべ、手を机の上、幸一の方に差し出した。
握手を求めている様だった。
幸一はそれを見て、自分も手を、太一の手と平行に並べる様に差し出した。
それは、自分から握手はしない決意の様だった。
それから思い出した様に今更、「おはよう」と、言った。
つづく
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