第27話
「あーーー!!」
四メートル後ろで紙夜里が発した叫び声は、車道を走る車の音に掻き消される事もなく、前でピッタリくっ付いている二人の耳にも届いた。
「えっ?」
幸一は慌てて自分の顔を少し後ろに下げて、美紗子の唇と自分の頬の間に隙間を作ると、声のした方を振り返った。
紙夜里が物凄い形相でこちらに向かって走って来ていた。
なるほど、紙夜里は時間も場所も知っている。
美紗子の事が気になって後を付けて来ていてもおかしくはない。
しかし、姿を現して大丈夫なのか? 僕には本性をある程度見せていたみたいだけれども、美紗子の前に現れて、どう言い訳をするつもりだ?
そんな事を思いながら、幸一は少し意地悪に、
「橋本さん?」
と呟いた。
まるで時が止まった様に目を大きく見開き、顔全体を真っ赤にしながら放心状態でいた美紗子も、幸一のその言葉に瞳だけはキョロっと幸一の後ろの歩道に向けた。
「ハァ ハァ 美紗ちゃ~ん!」
紙夜里が美紗子の名を呼びながら近付いて来る。
「紙夜里ちゃん…」
思わず美紗子は小さな声で呟いた。
何故此処に紙夜里が居るのか、分らなかった。
それから徐々に自分の顔の直ぐ側にある幸一の横顔と、自分の体を締め付ける幸一の腕に気付いた。
(抱きしめられて、頬にキスをした…)
「きゃっ!」
起こった出来事を全て理解した瞬間に、美紗子は幸一の体を手で撥ね退け、数歩後退りした所で顔を手で覆い、しゃがみ込んだ。
誰の顔も見れないくらい恥ずかしかった。
そして気付いてしまうと途端に、唇の先の方がジンジンと痺れた様な、特殊な感じがし始めた。
突然幸一の体を撥ね退け、腕からすり抜けて行った美紗子に、幸一は驚いて、紙夜里から前でしゃがみ込んでいる美紗子へと視線を移した。
「美紗ちゃん…」
名前を呼ぶ以外、言葉が出なかった。
何故だか自分でも分らないが、美紗子を傷つけてしまった様な気がした。
心に重い罪悪感を感じた。
(僕はいつも調子に乗るとこうだ…誰かに、美紗ちゃんに優しくしてあげようとか、思い上がるから…)
幸一は美紗子がショックでしゃがみ込んで泣いていると思った。
そして現に泣いていた。
びっくりして、自分でも自分の感情がコントロール出来なくなり、訳もなく美紗子は涙が溢れて来ていた。
しかしそれは決して、幸一を責める涙である筈がなかった。
「だ、大丈夫。美紗ちゃん…」
程なくして心配そうに駆け寄って来た紙夜里が、美紗子に声を掛ける。
それからきつく、幸一を睨んだ。
睨みつけられた幸一は直感で、これは猫を被っているなと感じた。
「紙夜里ちゃん…」
側で聞こえた紙夜里の声に、まだ涙を流したままで美紗子は顔を上げた。
「ん、大丈夫。何でもないの。ちょっと驚く事があっただけ」
紙夜里を安心させる様に涙を手で拭きながら、笑顔で美紗子はそう言った。
「本当に? 何か、抱き付かれた様に見えたけど…」
言いながら紙夜里は幸一の方を訝しげに眺めた。
「ア、アクシデントだよ。美紗ちゃんが変な方向に歩いたから、ちょっと絡まったみたいになって」
紙夜里の言葉に慌てて説明するも、どうにも歯切れの悪さを幸一自身感じた。それは自分が調子に乗ったからだという気持ちがあったからかも知れなかった。
しかし、紙夜里については、
(これでは信じて貰えないかな? そもそも紙夜里ちゃんは本性を隠すくらい美紗ちゃんの事が好きな訳だし。ま、僕的にはこの子には冷やかされる可能性はない訳だから、勘違いされたままでも構わないけれど)
などと思うと、幸一は少し肩の荷が降りた様な気分で、紙夜里の方に向かって、笑顔を見せる余裕さえも出来た。
それを見て紙夜里は、
「何笑ってるの? 気持ち悪い」
と、美紗子には聞こえない様に、幸一の耳元でヒソヒソと言い、幸一は口をへの字に曲げたのだった。
「本当! 幸一君の言ったのは本当の事なの。私がボーッとして変な方向に歩いたから。だから、幸一君は何も悪くないの」
紙夜里が幸一に何かを言い、幸一の表情が詰まらなさそうになったのを見かけて、美紗子は慌てて紙夜里の方に向かってそう叫んだ。
「そうなんだ」
顔は笑顔で美紗子の方を向きそう言いながらも、内心紙夜里は、美紗子が幸一は悪くないと庇った事が面白くなかった。
「ま、いいんだけどね。美紗ちゃんを迎えに来たんだ。もうお話しは終ったんでしょ? 一緒に帰ろ♪」
だから紙夜里はそう言った。
「え? …うん」
一瞬戸惑いながらも、拒む理由も思いつかず頷く美紗子。
「ああ、丁度良かった。美紗ちゃん家ちはそこから右に曲がるんだよね。橋本さん家ちもそっちの方なの? ウチは国道を真っ直ぐだからどうしようかと思っていたんだ」
幸一は紙夜里が出て来た事で、段々面倒臭くなりそうだと思い、本当に丁度良いと思いそんな事を言うと、紙夜里の顔を見た。
すると、心なしか自分の方を見て、薄ら笑いを浮かべた様に見えた。
だからその瞬間、幸一は紙夜里が、自分の住むマンションを事前に調べていて、この辺りで美紗子と自分の帰り道が分かれることも知っていたに違いないと感じた。
(どっちにしてもやっぱり女子は少し面倒臭いな。何かと裏で動いている様な、男同士ならもっとストレートで楽なんだけど…)
幸一の中での今日一日の総括は、結局の所そんな感じだった。
紙夜里が現れた事もあってか、その後の分かれ道でのバイバイは、あっさりしたものだった。
「また明日」
「じゃーね」
明日からはまた、二人は顔を合わせない、話さない筈なのに、何とも普通な別れの言葉になってしまった。
幸一と別れて、国道を住宅地の方に入る道は、緩やかな登り坂で、山を崩して造成した土地なので、両脇が斜面になっており、百メートル程は疎らに立つ街灯だけが唯一の明かりだった。
大人の女性でもこんな場所を一人で歩くのは寂しいだろう。
だから、美紗子も紙夜里も、身構えて押し黙って歩いていたのだが、不意に、紙夜里が口を開いて、ある提案をした。
「ねぇ、手を繋がない?」
「えっ」
その提案に美紗子は一瞬躊躇いの声を漏らすと、先程までの幸一と手を繋いで歩いていた道を思い出して、急激に体温が上り、鼓動が早くなるのを感じた。
紙夜里は、二人が手を繋いで歩いて帰るのを後ろから見ていた。
そしてそれがとても、羨ましかったのだ。
美紗子は暫くの沈黙の後、「いいよ」と、優しく紙夜里に言った。
男子と手を繋いでいたのに、同性の女子と手を繋がないというのは、おかしいと自分でも思ったからだ。
美紗子は幸一と繋いだ手とは逆の方の手を、紙夜里の前に差し出した。
ギュッ♪
嬉しそうにその手を優しく握る紙夜里。
「あ、美紗ちゃんの手、温かい♪」
少しはしゃいだ様な声で言う紙夜里。
「そお? ところで紙夜里ちゃん。本当は何時から私達を見ていたの?」
「えっ?」
ニヤリと笑いながら尋ねる美紗子に、紙夜里は一瞬驚いた。
この後暗い夜道を手を繋いで帰る間中、紙夜里は化けの皮が剥がれないか、ヒヤヒヤする事になる。
そして翌日にはまた、学校が始まる。
つづく
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