第23話
紙夜里が図書室を出て来ると、廊下の直ぐ側の壁に背中を当てて、しゃがみ込んでいるみっちゃんが見えた。待ち飽きたのだろうか、顔を自分の膝に当てて、うつ伏している。
紙夜里はゆっくりと静かに、そんなみっちゃんのつま先の前まで歩いて、止まった。
「みっちゃん…」
甘える様な、寂しい様な声色で小さく呟く。
「ん、紙夜里。終ったの?」
眠っていた訳ではなかったらしく、みっちゃんは紙夜里の声に直ぐに反応すると、顔を上げて少し寂しそうな笑顔で言った。
「うん、ありがとう。待っていてくれて」
首を横にして、紙夜里は自分が可愛く見える様に笑った。
みっちゃんの前では弱々しい、助けを必要とする様な紙夜里でなければいけない。
守られる紙夜里と、守るみっちゃんで、二人の関係はもう半年以上も上手く続いて来たのだ。
立ち上がるとみっちゃんはデニムのショートパンツのお尻の所を手でパタパタと埃を落とした。
「それでどうだったの? 上手く話せた? 駄目だったんなら、私がそいつにもう一度代わりに言ってやろうか?」
立ち上がるとみっちゃんは紙夜里より十センチ以上背が高いので、見下ろす様になって言った。
(みっちゃんは148センチ。紙夜里は135センチだった)
その言葉に紙夜里は愛くるしい大きな目を更に大きくして、みっちゃんの顔を仰ぎ見る様に答えた。
「ありがとう、みっちゃん。心配してくれて。でも、大丈夫だったよ。自分で出来た」
上手く出来た事を誰かに誇らし気に伝えたいかの様に、少し頬を赤く染めて言う。
それが、その笑顔が自分にだけ向けられていると思うと、みっちゃんは紙夜里の為に何でもしてあげようという気持ちになるのだ。
「そう。じゃあ良かった。帰ろう」
紙夜里の表情に釣られる様にみっちゃんも笑顔でそう言うと、床に置いていた赤いランドセルと手提げバッグに手を掛けた。
その時だった。
「ごめん。それがね…」
紙夜里の口からその言葉が出た時、丁度みっちゃんはランドセルやらを取る為に、前屈みになり、目線を紙夜里から外していた時だった。
だから思わず何の事かと、「えっ?」と声を漏らしてから、ゆっくりと前屈みのままみっちゃんは顔を紙夜里の方に向けた。
「ごめんなさい。今日は一緒に帰れないの」
紙夜里はみっちゃんが振り向くのに合わせてそう言うと、目線を合わせないまま頭を下げた。
「えっ? 何で? 待っていたのに」
「だから…待っていないで、先に帰っていいよって言ったでしょ。山崎君との話が上手く行ったから、今度は美紗ちゃんに会わなくちゃいけないの。美紗ちゃんきっと心配して待っていると思うから。みっちゃんにはいつも色々面倒を見て貰って、とても有り難いんだけど、今日は、ごめんね」
「そんな~だったら私も行くよ!」
頭を下げたまま話す紙夜里に納得の行かないみっちゃんが少し声を荒げて言う。
「ごめんなさい」
相変わらず頭を下げたまま言う紙夜里。
「そんな…」
頭を下げたまま目線を合わせない様にする紙夜里に、みっちゃんはどうする事も出来ず、ただ立ち尽くしているしかなかった。
諦めと絶望と、嫉妬を抱えながら。
階段の直ぐ側、校舎の突き当たりの図書室の前の廊下は、日が直接には当たらない。
だから、薄暗くて静かな時間が、二人を包み込んで暫く続いた。
午後四時二十分。
みっちゃんは一人で校庭の脇の側道を、校門へと向かって歩いていた。
足元からは影が斜めに長く延びる。
空はもうオレンジ色で、校舎も校庭の木々も、隅にあるジャングルジム等の遊具も、皆んな長く影を延ばしていた。
前の方を歩く下校中の生徒の顔も、陰影で良く見えない。
ゆっくりと色々な事を考えるには充分な程の肌寒さと、孤独感・寂しさを募らせるには充分な程の情景が、一人歩くみっちゃんを包んでいた。
だからみっちゃんは、歯茎に力を入れて、グッと何かを堪える様に、黙々と歩いた。
その直ぐ十メートル程後ろを、幸一はみっちゃんには気付かず、歩いていた。
頭を下げ、自分の足元を見ながら、考え事をしながら歩く。
家に帰り、ランドセルを置いて、午後六時にはもう一度此処に来る。
美紗子に会う為だ。
(会ったら本を返さなくちゃ)
忘れない様に、先程から何度も反芻している言葉。
学校では毎日会っているのに、顔もちゃんと会わさず、話ももう数日していない。
だから今夜ちゃんと会って話せる事は、とても嬉しい筈なのだけれど、心の何処かで複雑に絡み合うしがらみの様なものがあって、何故か気持ちは重かった。
少し、面倒臭い。
そんな気持ちがあった。
幸一は今日一日、色々あった事を思い出した。
『俺は好きなんだ。美紗子の事が』
『仲の良い友達だと思っているのなら美紗子の為だ。幸一、お前これから美紗子と関るな。美紗子と話すな』
太一が言った言葉だ。
そして、
『なんで美紗ちゃんは、幸一君が冷やかされない様に、そんな自分がクラスの女子に嫌われるかも知れない様な嘘を付いたんだと思う』
『美紗ちゃんは幸一君の事が好きだから、迷惑を掛けたくなくて嘘を付いたの。あなたの事を好きなのよ』
『可愛かったり、綺麗だったりする人とは、やっぱり友達になりたくなるでしょ。それだけで』
先程まで会って話していた紙夜里こよりの言葉。
(この二人は美紗ちゃんの事が好きで、美紗ちゃんの為に僕に離れて貰いたがっている。僕もその方が良いのなら、それで構わないと思う。六年でクラス替えになって、例えば違うクラスになれば、かえって会った時なんかは、周りに冷やかされず、仲の良い友達として話が出来るんじゃないだろうか。美紗ちゃんは今は僕の事を好きみたいだけれど、まだ小学五年だ。中学・高校と進むうちに心変わりするかも知れない。僕だってその頃には、本当に美紗ちゃんの事が好きで堪らないくらいの気持ちになっているかも知れない。でもそれは、まだまだ先の話で、今考える事じゃない…)
トボトボと、下を向きそんな事を考えながら歩いて、幸一は校門を潜った。
校舎の屋上へと続く階段の途中の踊り場で、紙夜里は窓を開けて外を覗いていた。
校庭の脇を通り、校門を出て行く幸一らしきランドセルを背負った姿が見える。
紙夜里はそれを確認すると、窓を閉めた。
それから隣に立つ美紗子の方に顔を向けて微笑みながら言った。
「だからね、きっと幸一君も美紗ちゃんの事が好きなんだと思うの。美紗ちゃんの名前が出て、幸一君、顔を紅くしていたし」
「そんなぁ」
紙夜里の言葉に美紗子は俯いて、頬を紅くして、恥ずかしそうに呟いた。
「だからきっと上手く行くよ。今日二人で話して、相談して、明日からは何も不安に感じる事がなくなるよ。大丈夫だよ美紗ちゃん。だから、そろそろ私達も帰ろう」
紙夜里はそう言うと恥ずかしそうにまだ俯いている美紗子の手を取ると、引っ張り、階下へと降りて行こうとした。
「あ、紙夜里ちゃん」
慌てて足を出す美紗子。
屋上へと続く階段の所で二人は会っていた。
紙夜里は幸一との事を美紗子に伝え、今日の午後六時の密会に幸一が来る事も伝えた。
紙夜里の考えの中で。
そして二人は一緒に帰り、いつしか学校には生徒の姿がなくなっていた。
オレンジ色の夕焼けも徐々に闇に呑み込まれて行く。
もうすぐ午後六時。
つづく
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