第14話
その頃まだ、屋上に続くフロアにいた美紗子に、階段を上って来る音が聞こえた。
タン タン タン …
ゴム底の上履きをワザと音を立てて、聞こえさせる様に上って来る音。
(幸一君?)
一瞬美紗子は、自分が水口と連れ立って教室を出て行くのを幸一が見ていて、心配して追い掛けて来たのかと思ったが、その思いは直ぐに打ち消された。
声がしたのだ。
「誰か、いるの?」
その声は女子の声だった。
そして程なく廻り階段の部分を廻り、踊り場に姿を見せたのは、二組の橋本紙夜里だった。
美紗子の方からは下の紙夜里が見えたが、紙夜里からはまだ誰かは居るみたいだが、誰が居るのかまでは見えないので、
「誰?」
と、再度声を出した。
「紙夜里ちゃん」
先程まで泣いていた所為か、か細い声で美紗子は言った。
「美紗ちゃん?」
その声に聞き覚えがあったのか紙夜里はそう言うと残りの階段を駆け上がった。
一番上の段を踏んでフロア面に辿り着いた先には、一人で不安気な表情で、力を抜けば今にも崩れ落ちそうな、弱々し気に立っている美紗子がいた。
「どうしたの? 美紗ちゃん」
紙夜里は急いで美紗子の側に駆け寄ると、肩に手を置き、そう言った。
「紙夜里ちゃん…」
美紗子は先程まで泣いていた顔を見せるのが恥ずかしいのか、紙夜里の顔から視線を外し、何を話せばいいのか分らずに、名前だけを呟いた。
視線を外された紙夜里は、美紗子の普段とは違う異変を感じると、微笑んで、斜め下を向いたままの美紗子の顔に向かって話し始めた。
「本当はね。下で、四組の水口さんが怒こった顔で階段を降りて来たのを見たの。そしたらね、急に胸騒ぎ。美紗ちゃんの顔が浮かんで、心配になって来て。もしかしたらと思って、階段を上がって来たの。フフ、やっぱり美紗ちゃんいた~」
紙夜里の話を聞きながら、美紗子は小刻みに体が震え始めた。そしてまた、涙が零れた。
「どうしたの美紗ちゃん! なんで泣いてるの? どうしたの?」
急に泣き出した美紗子に紙夜里は笑顔から曇った顔に表情を変えて、困った様に声を上げる。
美紗子はまだ斜め下を向いて目線を合わせないまま、しかし、ゆっくりと震えた唇で話し始めた。
「ごめんね。私が紙夜里ちゃんから教科書を借りて、ちゃんと直ぐ返さないから、なんか…変な事になって来ちゃった。だから、紙夜里ちゃんは関係ないのに…紙夜里ちゃんの前で泣いちゃった…ごめんね」
美紗子の蒼白の顔に、線の細かい朱色の様な目元から溢れ出た透明な液体が、筋を付ける。
それは普段見る美紗子以上に、綺麗だと紙夜里は思い、思わず少し見惚れていた。
それからまた美紗子に声を掛けた。
「私こそごめんなさい。みっちゃんでしょ? みっちゃんと水口さんが美紗ちゃんの事で言い争いみたいになったから。私は返して貰えたし。美紗ちゃんがその時何処に行ってたとか関係ないのに。私は気にしていないのに。あの二人が勝手に揉めて。それで美紗ちゃん水口さんに怒られたのね。ごめんなさい。私こそごめんなさい」
そう言いながら紙夜里は、肩に置いていた手を、美紗子の胴に回し、自分より少し背の高い美紗子の胸に顔を埋める様に抱きしめた。
横を向き泣いていた美紗子が、驚いて一瞬紙夜里を眺める。
「紙夜里ちゃん…」
紙夜里の行動に少し驚いた後、美紗子は少し心が落ち着いたのか、穏やかな口調で話し始めた。
「ううん。やっぱり私が悪いんだよ。最初に誤魔化さないで、ちゃんと言えばこんな風に怒られたりもしなかったし、変に疑われて、不安な気持ちになる事もなかった。あのね紙夜里ちゃん、私あの日、紙夜里ちゃんに教科書返すの忘れて、ずっと図書室に居たの」
「図書室?」
思わず紙夜里は美紗子の胸に埋めていた顔を起こすとそう呟いた。
「そう」
顔を上げた紙夜里の顔をちゃんと見ながら、美紗子は穏やかに答えた。
「でも、四組の人が図書室も探しに行ったって言ってたよ。それで居なかったって」
言いながら紙夜里は不思議そうな顔で美紗子を見た。
その紙夜里のあどけない表情に美紗子は思わず顔を綻ばせながら、続きを話した。
「図書室に入って来ても、奥くまで行かないと見えないテーブルがあるの。本棚の陰になっていて、私そこに居たの。きっと私を探しに来たのは斉藤さんで。私からはそれも見えてた。見えて、暫くして、忘れていた事がある事に気付いたの。それから慌てて教室に戻って、教科書を返しに、紙夜里ちゃんに…ごめんね」
「そんな~、そんな事なら言えば良かったのに。全然問題ないじゃない。いっそその斉藤さんが探しに来た時に顔でも出して、見つかっていれば」
「駄目なの。隠れていたの」
「えっ?」
紙夜里の言葉を慌てて制して美紗子が言った言葉は、紙夜里を驚かせた。
「何で?」
直ぐに質問する。
「男子と一緒だったの。同じクラスの山崎幸一君。本とか映画とか詳しくて。教室で話していると冷やかされるから、図書室でこっそり会って一緒に本を読んだり、話しをしたりしていたの。だからそれを言うとまた冷やかされると思って」
美紗子の話を聞く紙夜里の表情は少し曇っていた。
「知ってるその人。美紗ちゃんと噂になってる人だよね。ウチのクラスでも聞いたことある」
「そう」
紙夜里の話に美紗子も表情が曇り始めた。
やはり噂として広まっているという事は、男子と二人で仲良くしているのは、傍目にはあまり良くない事なのか。と、美紗子は思った。
「でも、私は美紗ちゃんが男子といても全然問題ないと思う。隠す事ないと思う。別に悪い事をしている訳じゃないじゃない。寧ろそういう風に冷やかす人達って、妬みとか嫉妬があるんじゃない?美紗ちゃんの事を好きな男子とか。その幸一君の事を好きな女子とか。そういう人達なんじゃないの? それで邪魔をしようとして。ねー、きっとそうだよ」
「紙夜里ちゃん」
美紗子の体に抱きついたまま、必死にそう言う紙夜里の姿に感情を揺さぶられたのか、美紗子はジーンと腕に鳥肌が立ち、何とも言えない不思議な温かな気持ちになって、思わずそう呟いた。
「ありがとう、紙夜里ちゃん。そういう風に言って貰えたのは、はじめてだよ」
その言葉に嬉しそうに紙夜里は微笑んだ。
「じゃあさー、皆んなに正直に言っちゃおうよ。冷やかされても最初のうちだけだよ。どうせもう、水口さんには怒られたんだし。美紗ちゃんが言えないなら、私が言ってあげようか?」
「駄目!」
紙夜里の言葉に突然美紗子は、抱き付いていた紙夜里を突き放し、そう叫んだ。
「それは駄目。やっぱりこの事は内緒にして」
美紗子は幸一の事を考えていた。
自分だけなら冷やかされてもそれ程苦にはならないが、幸一は非常に嫌がっていた。
そんな幸一を美紗子は、苦しめたくないと思っていたのだ。
突き放された紙夜里は目を白黒させながらも、美紗子の表情を追った。
(また悲しそうな表情に戻ってしまった)
そう思うと紙夜里も悲しい気持ちになって来た。
だから、
「どうして貰いたい? 教えて。美紗ちゃんの為なら何でもするから」
と、紙夜里は言った。
つづく
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