第124話 それからのこと その⑯
結局のところ水口は、小一時間ばかり美紗子の家にいた。
そしてその間に彼女は、美紗子に大いに可能性という事について語ったのだ。
決して一人では脱出不可能な現状から、自分ならばあらゆる可能性へと飛び立たせる事が出来ると。
だから水口の帰る頃の美紗子の目は輝いていた。
「今日はありがとう」
言いながら頭を深く下げる美紗子の表情は明るかった。
「ううん、大した事じゃない。じゃあ明日迎えに来るからね。あ、それと多分みっちゃんも一緒に来ると思うけれど、あまり無下にはしないであげてね」
「そう」
玄関の框を境に立つ二人、その言葉に一瞬美紗子の顔が曇るのを、下の低い方に立つ水口は見逃さない。
「まあ、急には無理かも知れないけれど、当人はよっぽどあなたの事を心配しているみたいだから、なるべくそんな顔は見せないであげて。それじゃあ遅くなっちゃうから、私は行くから。あ、それからもう一つ」
言いながら玄関の扉を半分開けた水口は、一度は背を向けた美紗子の方を、そこで再度見やった。
なんだろうと小首を傾げる美紗子。
「久し振りの登校だから一応言っておくけど、明日は寝坊はしないでね。それからあなた、パジャマのままだけど、明日はちゃんと着替えて来てね」
美紗子は水口のその言葉にハッとした。
そして顔だけではなく耳の先まで赤くなる程の恥ずかしさ。
今のいままで、美紗子は自分がパジャマのままであった事を忘れていたのだ。
だから内腿をすり合わせる様にもぞもぞとすると、小声で「はい…」と答えるのが精一杯だった。
「じゃあ、行くから」
水口はちょっと前までの美紗子の曇った顔が、今は恥ずかしそうに照れているの見て安心すると共に、確かにこの子は可愛いんだなと再確認しては、扉を跨ぎ外へ出た。
後ろから「本当にありがとう」と美紗子が再度感謝の言葉を呟くのが聞こえる。
しかしそれには答えずに、水口は今度は背を向けたままその扉を閉めた。
外はまだしとしとと小雨が降っていた。
だから準備の良い水口は、手提げバッグから折り畳みの水色の傘を出す。
ピンクや赤、黄色などといった如何に女の子が好む色は、水口は好きではなかったからだ。
本当は、黒が良かった。
しかし流石にそれは両親の猛反対を受け、諦めて水色にしたのだ。
そんな傘をさしながら、水口は美紗子の家の玄関先で一人ニンマリとほくそ笑んだ。
全てが計算通り、上手く行ったからだ。
水口からすればこれは最良の手だった。
美紗子にとって復学への道しるべを示したのだから、彼女にとってこの話に損はない。
みっちゃんにとっても、美紗子の復学は望んでいた事な訳だから、単純に喜ぶ筈だ。それにあの紙夜里という子に良い報告が出来る事は彼女にとって何よりの喜びだろう。その為に美紗子が幾分以前とは違う行動をとったり、性格が変わっても、きっと私を咎めたりはしない筈だ。
そして水口も、これで決して自分から逃げる事の出来ない有望な仲間を二人得た事になる。
これは大きい。
(この先日本人初の女性総理大臣を目指す私としては、なかなか幸先の良いスタートを中学では迎えられそうね)
しかし水口は頭の回転の早い子供だ。
そんな事を考えて悦に入るのは一瞬だけ。
玄関先から道路へと向かう為に足を一歩踏み出す頃には、もう表情はいつもの冷静な顔へと戻っていた。
そして倉橋家と道路を隔てる境界線である煉瓦つくりの小さな門を通る所まで来ると、そこで一度立ち止まり、声を出した。
「どうせいるんでしょ。ずぶ濡れネズミになって」
それはきっと待っているに違いないと思われたみっちゃんへの言葉だった。
そしてそれに呼応するかの様にジャリジャリと濡れた庭の玉石を踏みしめて近づいて来る音。
「だって、どうなったか気になったから」
後ろからそう聞こえた声に、水口はそちらを振り返った。
そして少しばかり驚いた。
みっちゃんの髪がびしょびしょに濡れていたからだ。着ているトレーナーも滲んで濃い色になっている。
「びしょ濡れじゃない」
「大丈夫、そんなに濡れてないよ。軒下にいたから」
水口の言葉にそういうみっちゃんは、しかし軒下から体半分くらいはきっと出ていたのだろう。左半身は特に濡れている様に水口には見えた。
「傘は?」
「持ってない」
そう答えるみっちゃんは少し水口から顔を背ける。
女の子としての差を見せつけられている様な気がしたからだ。
「全く…とにかく入りなさい。風邪ひかれると困るから」
「うん」。
その言葉には素直に応じて、みっちゃんは水口の方へと駆け寄って行った。
傘の下、水口の隣に入ったみっちゃんに、今日は気分も良かったので水口は自分よりもみっちゃんの方へと傘を傾ける。
そうして二人は美紗子の家を出た。
それからある程度遠ざかるのを待っていたのか、暫くは沈黙を守っていたみっちゃんが、突然大きな声を出した。
「それで、それでどうなった?」
至近距離は耳に障る。
「ちょっと声大きい!」
こちらも大きな声で水口は言い返すと、思わず傘を持ったままみっちゃんから離れたので、またもみっちゃんは濡れネズミの状態に。
しかしこれはわざとではないので、水口は直ぐに「ああ、ごめんなさい」と言うとみっちゃんの傍へと戻った。
「頼むから大きな声は出さないで。ちゃんと説明するから」
「ごめん…つい」
きっとみっちゃんは美紗子の事が気になって、直ぐにでも聞きたかったのをある程度離れるまで我慢していたのだろう。
そんな事は見ていれば水口にも分る。
(なるほど、この子もなかなか面白い)
だから水口はそんな風に感じると、半分悪戯でもする様に話し始めた。
「明日から学校に来るって」
「嘘? 明日から? なんでなんで? どうして? どんな魔法使ったの!」
「だから声が大きいって!」
水口の話にその腕を掴み叫び出すみっちゃん。
それに大声で対抗して、振り払い逃げようとする水口。
雨はまだしとしとと降ってはいるけれど、二人の気持ちはこれからの事でワクワクで、きっと青空も覗いていたのだろう。
そしてみっちゃんは帰り道、水口からいきさつについて聞かされる事となった。
水口に都合の良い説明で。
つづく
ついに次回、小学生編最終回となります。m(__)m





