第120話 それからのこと その⑫
「えっ、でも」
突然の水口の申し出に、当然の事だが美紗子は躊躇った。
このままではいけないという気持ちもあって、確かに扉は開けたが、まだその先の事までは心も体も追いついてはいないのだ。
とりあえず今日は誰か人と会う。そして少し話をする。
次の日はもう少し長く家族以外の誰かと話をする。調子が良ければ玄関の外、家の前位までは外に出ても良い。
きっとそうやって少しずつ、社会復帰というものはなされていくものなのだろうと美紗子は何となく頭の中で理解していたのだ。そしてそれは多分、もっとも正統的な遣り方なのだろう。
しかし水口の考え方は違っていた。
彼女は不登校は開き直りと気持ちの持ちよう、それから万全のアフターケアさえ出来ていれば造作もない問題だと捉えていたからだ。
「何か問題? これはあなたにとって最後のチャンスかも知れないんだけれど」
だから水口は美紗子の気持ち等はお構いなしでグイグイと詰め寄る。
そこで美紗子は咄嗟に水口の隣でニヤけているみっちゃんの姿を見た。
そしてその時みっちゃんは、はじめて見る美紗子のパジャマ姿に萌えていたのだ。
(ああ、こういうのが女の子っていうんだろうなあ。なんかいい香りがして来る様だよ♪)
そんなだからみっちゃんは、二人の話をちゃんとは聞いてもおらず、自分が紙夜里の友達で、それが美紗子にとってどんなトラウマの一端であるかという事も、この瞬間は気付いてもいなかった。
「ああ、彼女か」
しかし水口は瞬時に全てを理解する。
例えその時の美紗子の行動がそんなトラウマから来るものではなく、単に水口の話から目を背けただけの結果だったとしても、それでも事前に全てを聞いていた水口は、それを美紗子の指し示す問題だと捉えては即座に解決へと乗り出すのだ。
「そうね、彼女はまだあなたには早すぎたかもね。でも私を此処へ連れて来たのは彼女なの。それに、あなた自身みっちゃんには幾度となく助けられてもいるのでしょ。例えば上履きの事とか」
「えっ?」
ここで初めてみっちゃんは我に帰った。
(上履き…助けた…そうか、やっぱりそうだよな。私はいつも紙夜里の側で倉橋さんを見ていたんだ。紙夜里が根本にチクったという事を知っている今、私の事だってやはり良くは思ってはいないよな)
そう思うとみっちゃんは、目を細めて少し疑う様にこちらを見ている美紗子の顔に寂しさを感じた。
(もうあの頃の様な顔は見せてくれないんだ…)
しかし水口は、そんな美紗子の目を覚ますかの様に話を続ける。
「今日のところは、私だけ入れて貰えればいいわ。それで良しとしましょう。でもね、彼女への変な疑いは今日限り止めて。確かに紙夜里という子は何を考えているのか、彼女から一通り話を聞いた今でも理解には苦しむのだけれど、このみっちゃんって子に関してはかなり単純だから。安心して信用して良いよ。彼女があなたに見せて来た姿はそのまんま素の彼女。まー、紙夜里さんの事では相当困ってはいたみたいだけれど、彼女はね、その紙夜里さんとの関係を保ちつつ、あなたの事も守ろうと頑張っていたみたいよ。だから、ね、そんな顔しないであげて」
それは全て計算だった。
こうやって水口はみっちゃんと美紗子の仲を取り持っては、恩を着せ、自分のグループへと引き込むつもりだったのだ。
(ちっ)
そしてみっちゃんは心の中で舌打ちをした。
元々水口を信用してはいないみっちゃんには、その援護射撃が決して素直な気持ちから発せられたものではない事はお見通しだったからだ。
その証拠に美紗子と共に今やみっちゃんの方を向いている水口の表情は、微かに薄ら笑いさえ浮かべている。
(やられた。こいつはまんまと罠に嵌められた気分だ)
この時にはみっちゃんにも、昼間水口が言っていた契約の意味がはっきりと分かった。
確かにこんな事をされたのでは、その後水口の前で知らん顔は出来ない。
頼まれ事があれば、大抵の事は引き受けなければならないだろう。
しかしそんな悔しい気持ちがみっちゃんの中で膨らんでいくのを、止める出来事が起こる。
それはまだ少し引き攣った感じはあるものの、一所懸命に微笑んで見せようとする美紗子の笑顔と言葉だった。
「そうだよね。色々助けて貰ったんだよね。あの時だって…私お礼言ってなかった。その…変な話聞かされちゃって、他にも色々あって…だからみっちゃん、あの時は助けてくれてありがとう」
美紗子はやはり純粋なのだ。
純粋だから水口の言葉を素直に受け入れる。
「い、いや、お礼なんていいさ。アイツは、私達にとっての問題でもあったんだ。それに紙夜里が根本かおりに変な事を吹き込んだのも事実だし、その場に居て私止められなかったし…」
微笑む美紗子にみっちゃんは恥ずかしそうに下を向いてそう言いながら、裏では別の事を考えていた。
(倉橋さんは素直で純粋な心の持ち主だ。こんなにも簡単に正しいと思えば水口さんの言葉を信じる。きっと水口さんはそんな倉橋さんの心を利用して学校へも行かせる様にするのだろう。しかしその後は? その後はどうなる? 倉橋さんは今まで通りの彼女でいる事が出来るのか? 水口さんによって固められた彼女になったりはしないのか? くそー、やっぱりアイツの思う壺だ。彼女の事が心配なら、私も水口さんの側に居ざるを得ないじゃないか)
倉橋家の玄関の前。
佇む三人の少女達の間には一瞬の間が出来る。
しかしそれも直ぐに打ち消す様に水口が口を開いた。
「じゃあ、みっちゃんには悪いけど、今日のところはもう帰って。今日は私だけが話をする。私としては上手く話をまとめて、明日にも復学してもらうつもりではいるのだけれど。まー、話してみてからね。それじゃあ美紗子、中に入りましょう。見た所、今は家族も誰もいないみたいだけれど、あなただって誰か帰って来る前に私の事は帰したいでしょ」
つづく





