第119話 それからのこと その⑪
平日の午後三時半。
自分と同じ小学生達が授業を終えて帰宅へと向かう頃。
リビングのテレビの前で一人、クリームを基調とした中にイチゴのイラストをあちらこちらに散ばめた子供用のパジャマのまま体育座りをしている自分を、美紗子は自分でも普通ではないと感じていた。
不登校、所謂ひきこもりとなって数ヶ月。
今となってはその後どうなっているのかも分からない見知らぬ学校へと行こうという気力は欠片も残ってはいなかった。
しかしこのままこの様な日々が続いた先を考えるのも、やはり怖い。
(自分はもう、他の子達の様には生きられないんだ。このまま小学校に行かないで、中学高校も行かなかったら、私はどんどん皆から取り残されて行くんだ。私だけが一人で他の人達とは違う特殊な人生を生きなくちゃ行けないんだ…)
だから毎日の様にそんな事を考えては、今日もまた目の前のテレビの画面が映り込むその瞳からは、静かに一筋の涙が流れていた。
このままではいけないと、痛い程感じていたのだ。
そして人生とは殆どの場合固い意志とタイミングだ。
タイミングが良ければ一度は狂った人生も持ち直せる事が出来るし、タイミングが悪ければ、そういうチャンスも巡っては来ない。
ピンポーン♪
そんな中、この玄関の呼び出し鈴が押されて鳴ったチャイムこそ、美紗子にとって最大のチャンスだった。
チャイムの音に慌ててテレビの電源をリモコンで消した美紗子は、いつもの様に足音を立てない様につま先立ちで玄関モニターも見ずに二階の自分の部屋へと戻ろうと、階段を一度は途中まで上る。
しかしこの日は人への恐怖よりも、僅かばかり将来への不安の方が打ち勝っていたのだ。
珍しく階段中程で足を止める美紗子。
それから彼女は静かにゆっくりと階段を下りると、先程いたリビングの方へと戻った。
リビングにはキッチンの対面式カウンターと、その上に玄関用モニター。
画面には水口の姿。
彼女は直立不動、無表情に画面を直視して立っていた。
それを見た美紗子は暫くうろたえた。
クラスの人だったからだ。
(どうしようか…)
そう思いながらも、しなければならない事は分かっていた。
相手は副委員長の水口である。
かつては頬を叩かれた事もあったが、しかしそれもクラス全体の事を思い、美紗子の事を心配しての事だと今やその後の行動からも美紗子は理解しているつもりの人だ。
(このチャンスを逃したら、私はまた逃げ続けるだろう。それに以前の私ならモニターを覗き、どうしようか等と考える事もなかった。自分でももうこんな生活が限界なのは気づいているんだ。何かに…藁にでもすがらないと…とりあえず少しずつでも前に進まないと。家族以外の人と会って話くらい出来る様にならないと…)
答えは分かっていたのだ。
だから美紗子は自分がパジャマのままだという事も忘れて、クラスの人と会うという不安に震えながらも無言で玄関の方へと歩き出した。
水口は、みっちゃんとの話が着いたその日に、美紗子の家にやって来ていた。
「何もそんな急がなくても」
それは話し合いの後、放課後水口と待ち合わせていたみっちゃんの一言。
「鉄は熱い内に打てって言うでしょ。話が着いたんだから、さっさと学校に連れ戻した方が、当人の為でしょ」
「そうだけれど。もし会ってくれなかったら? ほら、何か作戦とか立ててから行った方が良いんじゃない。駄目だったらこれから毎日通う事になるかも知れないんだし」
しかしそんなみっちゃんの心配など他所に、ケロッと答える水口。
「毎日なんか行かないよ。私そんな暇人じゃないから」
「へっ?」
「ほらー、毎日なんて行っていたら、私の有難味が減るでしょ。こーゆーのは一回毎のチャンスに賭ける意気込みが大事なのよ。彼女、美紗子もそろそろこのままじゃいけないって、不安がってる頃じゃないの。丁度」
「そんな風に思うかな。それで今日行って失敗したら次はいつ行くのさ」
「一ヵ月後かな」
「一ヶ月~!」
それにはみっちゃんは驚いた。
「だから~、有難味が減るでしょ。美紗子にとっていつでも自分が助け出されるなんてイメージはロクなもんじゃない。一回毎のチャンスに必死にしがみ付こうと自分自身が思わなければ、不登校からの脱出なんて出来やしないんだから」
「そういう…ものなのか」
「そういうもの♪ そういもの♪」
腑に落ちない顔のみっちゃんと、今まさにこれから美紗子の家に向かおうとしているのに随分と軽くご機嫌な水口。
これが美紗子の家の玄関の前に立つほんの数十分前の対話。
そして玄関まで来た美紗子は、無言のまま軽く下唇を噛み締めると、ゆっくりとその扉を開けて、そんな水口と目を合わせた。
「あ…あ、あの…」
しかし何を話せば良いのか、頭には何も浮かばず、言葉の出ない美紗子。
そんな美紗子をニヤリと一瞬眺めると、水口は大層派手に口元を緩めては満面の笑みを見せた。
そして口を開く。
「おめでとう! ついに天の岩戸が開いたわね!」
「えっ、えっ?」
突然のそんな言葉にとまどう美紗子。
美紗子の開けた扉の影では、そんな美紗子を思わず笑って声を出してしまうみっちゃん。
「プッ、プププ」
(倉橋さんは変わってないな~)
失礼だと思い口を閉じようとするも漏れる音。
そしてその音に気付いた美紗子は、水口の隣、扉の影にみっちゃんがいる事に気付いた。
途端に険しい表情を見せる美紗子。
しかしそんな事はお構いなしに次の一手を打つ様に動き出した水口は、先ずは玄関が閉められない様に片足を玄関の中に入れると、またもいつもでは有り得ない様なご機嫌な声で口を開いた。
「じゃあ、私達中に入れて貰うわよ。いいよね。これからあなたの復学計画を立てなくちゃいけないんだから」
つづく