第116話 それからのこと その⑧
紙夜里がこの町を去って数日が経つと、小学校はもう三学期になっていた。
そして未だ学校にその姿を見せない美紗子とは反対に、姿を消した紙夜里からはこの頃にはみっちゃん宛てに手紙が届いていた。
内容は極めて簡潔で、ただスマートフォンの電話番号とメールのアドレスだけ。
決してみっちゃんを喜ばせないそのやり口は、それでも今のみっちゃんならばただの照れ隠しなのだろうと、ニヤリとする事も出来た。
あの日。
最後の日にみっちゃんは、自分達の関係がそれまでよりもワンランク上に上った様な気がしたからだ。
だから三学期に入って直ぐにみっちゃんが向かった先は、昼休みの五年四組だった。
今回は中を覗き込む事もなくスタスタと正面を向いたまま教室へと入って行く。
理由は二つある。
一つはこれから話しかける相手が、みっちゃんにとって最も苦手とするタイプであり、気を張ってそこを見据えて進まないと思わず寄り道をして逃げ出してしまいそうだったからだ。
だからみっちゃんが教室に入って来たのに気付いた幸一が、一人机で本を読んでいたのを頭を上げてそちらを見た事も、後ろの方の席から突然その姿に立ち上がった悠那の事も、はたまたその出来事に美智子が慌てて悠那の側に駆け寄ると、その腕を掴みみっちゃんの方へと行かせない様にした事も、全て今のみっちゃんには見えていなかった。ちなみに完全にクラスに居場所を失くしていた根本かおりは、この時教室にはいなかった。
そしてもう一つの理由は、紙夜里だ。
みっちゃんは四組の教室に入る前から今日はもうずっと、紙夜里からの手紙の事を考えていた。
何も文章の書かれていないメールアドレスと電話番号だけの手紙。
それが物語る事は一つ。
つまり紙夜里はスマホを手に入れたのだ。
そしてみっちゃんは、まだそれを手に入れる事が出来ないでいた。
親には何度となくお願いをし、紙夜里の言う様になんなら親が預かっている筈の自分のお年玉貯金から出して貰っても構わないとまで言ったのだが、多分みっちゃんの親は普通の良識ある親なのだろう。
「小学生がスマホなんて必要ないでしょ。せめてあと一年、中学に入学したら持たせてあげるから」
と、軽くあしらわれる始末。
しかしみっちゃんも、なかなか親には言えない理由でどうしてもスマホが必要だった訳で、そこは必死に説得をする。
「だけどさ、万が一小学校に不審者が侵入したら? 登下校時に不審者が現れたら? 交通事故に遭ったら? 誘拐されたら? 子供を取り巻く環境って危険なものが一杯だよ。お母さんは私が行方不明になったり何処かで殺されたりしてもいいの?」
「あなたちょっと刑事ドラマの見過ぎなんじゃないの? それにスマホを持っていても行方不明になる人は大勢いるし…まあいいや。じゃあお父さんが帰って来てから相談しましょ。お父さんがみっちゃんとお母さんと、どっちを好きかで決まるわね~」
そしてこの決着はドローだった。
みっちゃんのお父さんは間を取って小六になったら持たせてくれると約束してくれたのだ。
しかしこの結果をきっと当たり前の様に待っているであろう紙夜里に、簡単に伝える事はみっちゃん的にはなかなか難しいものがある。
だからみっちゃんは今回重い腰を上げて、最も面倒な紙夜里との約束を果たす為にこの教室にやって来たのだ。
最初の紙夜里との電話連絡で、スマホが小六まで無理だという悪いニュースと、倉橋さんの事で動き出した事があるという良いニュースの二つを語れる様に。
つまりは、スマホが直ぐには無理だとなったら、多分紙夜里は音信不通になるだろう。それを繋ぎとめる為の手土産を作りに。
さて、教室を中心に向かって真っ直ぐ進んで来たみっちゃんは、下を向き教科書に目を通している一人の女子の机の前で立ち止まる。そこが目的地、四組の副委員長・水口の席だったからだ。
水口は自分の前に人が立っている事に気付かないのか、顔を上げる気配はない。
(どうせとっくに気付いていても、わざと顔を上げないんだろう)
「ちょっといいかな」
だからみっちゃんはそんな事を思いながら、小声で話しかけた。
「駄目。あなたは違うクラスでしょ。話す事もない」
(やっぱりだ。こいつ私が来たのを気付いていたんだ)
顔も上げず下を向いたままそう言う水口に、みっちゃんは早くもイライラを募らせる。
しかしここは紙夜里との約束の為にも我慢しなければいけない。
(紙夜里は、きっと水口さんなら倉橋さんを学校に連れ戻せるかも知れないと言っていた…本当か? こんな意地悪女に)
そうは思っても、ここは機嫌を損ねて出て行く訳にはいかない。
だからみっちゃんは再度、周りには聞こえない小さな声で話かけた。
「倉橋さんの事なんだ…」
「ああ、美紗子の事ならもう関らないって、以前本人に言ったわよ」
「へっ!?」
またも顔を上げず教科書を見たまま平然とそう話す水口。みっちゃんは驚いて思わず声を上げた。
(紙夜里~! 倉橋さんの名前を出したのに、話が違うよ~!)
つづく