第115話 それからのこと その⑦
(結局は倉橋さんか…)
そう思うとそれまでの楽しい気分が急につまらなくなったみっちゃんは、まだ濡れていた頬を掌で両方交互に縦に拭い取る。
そんな姿に紙夜里も感じるものがあったのだろう。
それまでの笑顔を崩す事なく続けて話始める紙夜里。
「まぁ美紗ちゃんの事は、お互いスマホを手に入れればいつでも相談出来る訳だし。そうね、今までの事、みっちゃんにもお礼はしなくちゃいけないかもね。それにね、妹の事はどのみちみっちゃんには無理なのよ」
「無理って?」
その言葉にまだ頬に片方の掌を残したままみっちゃんは尋ねた。
「だって妹が小学校に上る頃には、みっちゃんはもう中学生なんだもん。私も美紗ちゃんも中学一年生」
「それじゃあ」
「そう、土台無理なの。でもね、美紗ちゃんには瑞穂より一つ上の妹がいるの。だからね、分かるでしょ」
(なるほど。そういう事か)
みっちゃんはその意味を理解すると、少しだけ気分が良くなった。
(つまりは紙夜里は、倉橋さんの事も利用するつもりでいたのだ。確かに中学生では通学路の方向も違う。面倒を見るなんて私には無理だ。だから紙夜里は頑なに倉橋さんに妹の事を見て貰おうとしていたのか。だとしたら紙夜里が私の申し出を鼻にもかけないのも頷ける。別に私に意地悪をしていた訳でも何でもなかったんだ…)
「どうしたの? 急に微笑んで」
考えながら思わず頬が緩んだみっちゃんを、紙夜里は見逃さなかった。
「うん、いや、ただ納得出来ただけ」
「そう、その割には嬉しそうだけど」
こういうところが紙夜里だ。
ちょっと気分を良くしたと思ったら、すかさず意地悪を言って釘を刺す。
親しくなったと思ったら、境界線を引いて距離感を保とうとする。
それはもうここ三ヶ月程、みっちゃんは嫌という程味あわされて来た事だった。
だからかも知れない。
だから最後くらいはと、みっちゃんも今回は言い返した。
「紙夜里さ、あっちに行っても今の性格のままでいなよ。その方が紙夜里らしいよ。それなら絶対に友達なんて出来ないから」
歯茎を見せるくらい、口を大きく開いて笑いながら言うみっちゃん。
しかしそれに対する紙夜里の返答は、みっちゃんには想像も出来なかったものだった。
みっちゃんは、紙夜里の機嫌の悪そうな苦虫を噛み潰したような顔を想像していたのだが、目の前の彼女は欠片もそんな事はなく、むしろある意味今のみっちゃんがもっともゾッとする程の満面の笑顔を見せたのだ。
そして一言。
「ありがとう、みっちゃん。うん、そうするね♪」
みっちゃんは怖かった。その瞬間ただただ怖かった。
あの紙夜里が、倉橋美紗子ではなく自分に向かってまるで天使の様な屈託のない笑みを見せているのだ。
それはかつてのおどおどとして、不安気な、守って貰おうとしていた頃の紙夜里では見せた事のなかった表情だった。
だからきっとこれも紙夜里の顔の一つなんだと。心では分かっていてもみっちゃんは、つい自分に向けられた嬉しさに目を輝かせては呆然としてしまった。こうやって紙夜里にいい様に使われて来た事を分かっていてもだ。
それから更に紙夜里は、そんな呆然としているみっちゃんの手へと、自分の手を差し伸べると優しくそれを掴む。
「ひゃっ! なになに!?」
触れて来た紙夜里の指に気恥ずかしさからか、思わず声を上げるみっちゃん。
「何って。これで最後だから、手を繋いで帰ろうかなと思ったんだけど。いけなかった?」
背の低い紙夜里が、更に背を丸めて下から覗き込む様にしながらみっちゃんに尋ねる。
それは如何にも紙夜里が得意そうな小動物系の可愛さを漂わせながら。
「手っ! あっ、ああ、いいさ。いいいよ、繋いで帰えろうよ」
どうにもこの紙夜里はやりづらい。
紙夜里に優しくされるなんて、雲にも昇るほど嬉しい筈なのだが、真意が分からずペースが掴めないのだ。しかし体は正直で、紙夜里の指が自分の指と絡まると、それはもう体中放電したかの様で、みっちゃんの腕には鳥肌が立った。人は何も寒さや恐怖以外でも鳥肌は立つのだ。例えば今回の様にその優しさが嬉しかった時など。
(もしかして、これがお礼なのかな? 最後に今だけ私に優しくしてくれる…だとしたら、紙夜里らしいと言えばらしいのか…)
そんな事をみっちゃんが考えている間にも、紙夜里はまるでスキップでもするかの様に、絡めた指を引っ張りながら歩き始める。
「ゆっくり帰ろう。四時くらいにはもう最近は暗くなっちゃうけど、五時くらいまでは構わないから。私、公園とかこの町の色々な所見て回りたいし。なんかね、此処数ヶ月の間に、色々諦めたんだ。だって、子供は一人では生きていけないでしょ。それに子供では解決出来ない問題も色々ある。だったら、私に出来る事は今は諦める事しかないんだなぁって。色々なものを失って、諦めて、でもみっちゃんは残った」
そこまで話すと紙夜里は、振り返った。
「そうでしょ」
「あ、ああ、うん」
言いながら、相変わらず天使の様な微笑みを投げかけて来る紙夜里に、みっちゃんはのぼせたのか顔が熱くなるのを感じると、シドロモドロに返事をするのが精一杯になった。
それから慌てて付け足す。
「でもいいのかい。早く帰って持っていく荷物の整理とかしなくて」
「いいのいいの。親の都合で無理矢理連れて行かれるんだから、何も持たずに行って、せいぜい買って貰うの。お父さん、浮気とかするけど、私達子供にはずっと優しいの。いっそ最初から単身赴任先に私でもいたら、浮気もしなかったかもね」
「あはははは」
みっちゃんは、笑うしかなかった。
それから二人は手を繋ぎ、ゆっくりと自分達の生活圏内を歩いて見て回った。
その間は、話もいつもよりも全然多く出来た様にみっちゃんには思えた。
そして最後の紙夜里の家の前。
「じゃあまたね」
「ばいばい」
二人は涙を流す事もなく、笑顔で別れた。
もしかするとそれは、お互いにスマホさえ手に入ればという気持ちがあったからかも知れない。
とにかくその日の夜、妹の瑞穂はとうに寝ている時間に、紙夜里の父親が車でやって来ると、その晩紙夜里の姿はこの町から消えてなくなったのだ。
ちょっと前に買った、『赤毛のアン』の文庫本と共に…
つづく
~「本当にありがとう。紙夜里ちゃんはまるで私のダイアナね」
「ダイアナ?」
「ああ、『赤毛のアン』に出てくる主人公アンの大親友の事」
「大親友かぁ。アンはなんとなく知っているけど、私その本は読んでなかったや、今度読んでみよう。さすがは美紗ちゃんね」~





