第114話 それからのこと その⑥
弧を描くように大きく曲がるその道は、まだ売れていないのか住宅の建っていない区画された分譲地の方へと、大きく外側へと向かっていた。
だからそう言って立ち止まったみっちゃんは、紙夜里が何処へ向かっているのかに気付くと、その意思が固いものだという事も、自ずと感じとれた。
そうそれは、あの時行ったこの小山を切り開いた新興住宅地の外れ、道路の下に学校や通学路が見える場所へと通じる道だったのだ。
(あの紙夜里が、行きたくないと引っ越したくないと泣きじゃくった場所だ…そして美紗ちゃんを守ってとも、そこで言われたんだ…)
立ち止まり、そんな事を考えていたみっちゃんを他所に、紙夜里はゆっくりと、しかし確実にその歩を見晴らしの良いその場所へと向かって進めて行く。間では一度後ろを振り返り、微笑んでみせる程の余裕も持って。
だから慌ててみっちゃんは踵を上げると、紙夜里の方へと駆け寄った。
「覚えてるよ! 約束したのは覚えてる。忘れちゃいない。でも秋だったあの頃から季節が冬に変わったように、お正月を迎えて去年から今年に変わったように、色々な事があの頃とはもう変わってしまったんだよ。倉橋さんを取り囲む環境や状況も、それから本人自身も。だからもうそんな煩わしい事からは開放されて、紙夜里はもっと自分の事や、私達の事を考えたっていいんだよ!」
だってもう、今日の夜にはいなくなってしまうんじゃないか。
続けてそう言いそうになるのをみっちゃんは飲み込むと、言いたい事を言った気恥ずかしさか、横並びになった紙夜里の顔は見ずに下を向いて、更にボソッと呟いた。
「本当に、そう思うんだ」
果たしてその頃、紙夜里はみっちゃんのそんな呟きまでも耳に入っていたかどうかは定かではないが、顔は横のガードレールの方を向いて、眼下に見える町並みを見下ろしながら足を止めた。
それからみっちゃんの話に答える様に口を開く。
「でもどんなに時間が経とうが、やっぱりあそこに小学校はあるし、通学路も変わらずにあるよ。つまり根本的には何も変わってはいないという事でしょ。もうすぐ冬休みが終るとまたみんな学校へとあの道を歩くんだよ。だから約束通り美紗ちゃんを助けて。また学校に通える様に、また優しい笑顔で笑える様に、そんな風にしてあげて」
「そんなの無理だよ! わかってるだろ! 倉橋さんはきっともう紙夜里の事を信用してはいないよ。私も含めて警戒している筈さ。そんな触る事はおろか話す事も出来ない人を助けるなんて出来る訳ないだろ! いい加減意地を張るのはやめろよ! もう紙夜里とこうやって一緒にいたり話したりするのも今日が最後なんだろ。それなのに…」
堰を切って出る言葉と感情は、それはまるでいつかの紙夜里の様で、みっちゃんの頬はいつの間にか濡れていた。
「私はともかく、みっちゃんなら信用もなくしてはいないでしょ。根本を倒したのもあなただし。でもそうね、美紗ちゃんが扉を唯一開けてくれそうな人なら、別にいるかもね。みっちゃんが本気で頼めばやってくれそうな人で」
紙夜里はそう言いながら、視線を眼下の町並みから隣のみっちゃんの方へと移すと、軽く微笑んだ。
その瞬間感じる嫌な気分。
「えー! あんな奴に頼むの? 死んでも嫌なんだけど」
みっちゃんは直ぐに察しがついたのだ。
「あら、案外ちゃんと話せばイイ友達になるかもよ。それからね、私は引っ越すかわりにお父さんにスマホを買って貰うつもりなの。だからみっちゃんも、私と繋がっていたいならこの冬休み中に親におねだりしなさい。お年玉でスマホ本体代は自分で出すとか言って。あはっ」
みっちゃんに答える紙夜里はいつになく楽しそうだった。それはこれがこれから引っ越していなくなる子なのかとみっちゃんに疑わせる程で、かえってみっちゃんを慌てふためかせた。
「そんなぁ、急にそんなこと言われても買って貰えるか。持たせて貰えるか」
「あら、買うのは自分で買ったらって言ったじゃない。まあ駄目ならこれでおしまいね。みっちゃんとの仲もこれまで、グッドバイ」
どこまでも楽しそうに話す紙夜里。
それはかつて一度も見た事のない表情で、みっちゃんは驚きから少しずつ紙夜里の中の”希望”に気付き始めた。
(確かにスマホがあれば、いつでも連絡は取れるし。お互いの近況を画像で送り合う事も出来る。離れていても、繋がってはいられるのかも知れない)
だからみっちゃんも今度は顔を綻ばせながら答えた。
「そんな~聞いてはみるけど、買って貰えるかどうかは分からないよ。一所懸命粘ってはみるけれど」
「ううん、きっと買って貰える。だってみっちゃんの家は標準的な中層階級のサラリーマンの家っぽいもん」
「そんなの関係ある~」
「あるよ。ウチみたいな状態だと、どうしても何かとの取引になっちゃうから。無償の愛とは無縁というか、家族みんながお互い自分の事を一番愛しているというか…あはははっ」
言いながら笑う紙夜里は、まだ壊れてはいない、正常だと感じると、みっちゃんは更に楽しい気分になって来た。
果たしてこんな風に紙夜里と話した事があっただろうか。
以前の大人しくいつも側にいた時も、最近の美紗子に執着していた時も、こんな風に笑って自分の事を話す紙夜里は、みっちゃんにとっては初めての事だったかも知れない。
「だからね、そうなれば毎日LINEで美紗ちゃんの近況を尋ねる事も可能でしょ。その為にもみっちゃんには何がなんでもスマホを手に入れて貰って、そして美紗ちゃんを学校に行く様に、元の生活に戻る様に仕向けて貰いたいの」
「えっ?」
みっちゃんの心、紙夜里知らず。
この瞬間、みっちゃんの中の楽しい気持ちは一遍につまらないものへと化したのだ。
(結局は倉橋さんか…)
つづく