第113話 それからのこと その⑤
「ちょっとだけでいいの。ちょっとだけでいいから話を聞いて。お願い美紗ちゃん!」
幾ら玄関を叩きながら紙夜里がそう叫ぼうが、一向にその扉は開く気配はなかった。
何故ならば既に美紗子は最初の頃のインターホンのチャイムがなった段階で、それまでのパジャマの格好のまま急いで階段を上ると、いつも通り自室のベッドの布団の中に潜り込んでしまっていたからだ。
だから当然、下に来ているのが誰なのかという事も知らない。
しかしもし知っていたとしても、決して会おうとはしなかっただろう。
紙夜里こそが美紗子にとっては人間不信を招いた元凶の、幸一と並ぶもう一人なのだから。
それまでの流れでお互いに好き合っている。付き合っていると信じていた美紗子の心を、幸一がみんなの前でそれを独りよがりだったと思わせたのと同じ様に、紙夜里は、それまで本気で人を疑うという事を考えた事もなかった美紗子に、人間の裏表を見せたのだ。
布団を頭まで被り、その中で丸くなる美紗子。
彼女には外で玄関を叩く音も、紙夜里の叫び声も、届いてはいなかった。
代わりに目を閉じて怯えながら浮かぶのは恐ろしい形相の根本かおりと、引っぱり倒され、いつまでも掴まれていた三つ網と、みんなの前でこれ見よがしに捲くられたスカート。それは今以て消える事無くフラッシュバックする地獄絵図。虐めとはそういうものなのだ。
「ねえ、お願い美紗ちゃん…」
そんな事とは露知らず懸命に玄関の扉を叩き大声で叫んでいた紙夜里も、流石に疲れが見え始め、勢いが衰えを見せ始めた頃、紙夜里は突然後ろから、 ガシッ! と羽交い絞めにされた。
みっちゃんである。
「いい加減もうやめろよ。そんなドアまで叩いて、近所迷惑だし、何より倉橋さんに迷惑だろ!」
「うるさい…」
それに対して力なく言う紙夜里。
こうなってしまった今、みっちゃんはもはや紙夜里の側に居る為に、謙る必要はなかった。
だから半ば力の抜けた紙夜里の体を後ろから押さえ込んでは、ゆっくりと美紗子の家の玄関から引き離す。
もしかするとそんなみっちゃんを、紙夜里は待っていたのかも知れない。
彼女の方もそれに抵抗する事もなく美紗子の家から離れて行く。
「本当はもう、紙夜里だって諦めているんだろ。倉橋さんの事は」
家から離れ、前の通りまで出た時、みっちゃんは紙夜里の体からゆっくりと手を離すと、優しくそう尋ねた。
それに対して紙夜里は下を向き、自分の足元を見るようにしながら口を開くと、ゆっくりとその通りを歩き出した。
「今日の夜、お父さんが来るんだ」
「あ、今日なのか…」
紙夜里の言葉にみっちゃんは立ち止まったままちょっと驚いて、それから静かにそう言うと、今度は慌てて追い付く様に歩き出した。そして横並びになると再度口を開く。
「随分急だね」
「お正月の頃からもう大騒ぎだったの。いつ連れに来るかとか。慰謝料がどうとか…お母さんなんか電話口で手首カッターで切るんだもん。驚いちゃった。お父さんには見えないのに」
「へ、へ~」
言いながらその話にはみっちゃんは引いていた。有り得ないくらい面倒臭そうな話だったからだ。
「それで、急いで紙夜里が手当てをしたの」
「まさか。お母さん。自分でやってた。リアリティでも求めてたんじゃないの。どうせ死ぬ気もない癖に。まー、あの時は深夜で、まだ瑞穂が寝ていたから良かったけど」
「瑞穂ちゃん…妹さんだよね」
「そう」
「やっぱり妹さんはお母さんと残るのかい。紙夜里がお父さんと行って」
言いながら、不思議とみっちゃんには紙夜里との別れを激しく悲しむ気持ちは湧かなかった。
それは多分紙夜里が泣きながら『行きたくない!』と言ったあの日から、随分と経っていたからかも知れない。とうにお別れはお互いに済んでいる様な気さえしていたのだ。
そして紙夜里もそれは同じなのだろう。だからこそ以前の様な倉橋さんに見せる激しさは今は鳴りを潜めていられるのだ。一か八かの紙夜里の荒唐無稽な、まるで多重人格の如き行動も、全てはあの日、倉橋さんに平手打ちをされた瞬間にきっと泡と消えたのだ。
世の中にはどうしようもない事。どんなに謝っても許しては貰えない事がごまんと転がっている。
(きっと本当は紙夜里だって、倉橋さんの事や引越しの事をもう半ば諦めてはいるんだ)
先程のみっちゃんの質問には答えずに、目の前の通りを、大きく弧を描く方向へと歩き続ける紙夜里。
だからまた、みっちゃんが口を開く。
「じゃあさあ、妹さんの事は安心してよ。私が学校では面倒みるから」
「駄目。それは約束が違う」
これには直ぐに反応して答える紙夜里。
「約束って」
「約束したじゃない。みっちゃんは美紗ちゃんを守るって。そして美紗ちゃんには瑞穂の面倒を見てもらうって」
「でもそれはもう!」
紙夜里のその言葉に思わずみっちゃんは立ち止まって声を荒げた。
そんな事はもう無理だと分かっていたからだ。
つづく





