第108話 美紗子が泣いた日その㊴ 終幕その②
手を引かれ、廊下の方へと向かって机と机の間を言われるがままに歩くみっちゃんは、これは自分的には好都合な事だったし、もしかしたら水口の計らいでもあるのかも知れないなと思うと、それ程こういう形で追い出される事も、嫌な事とは感じられないでいられた。
だから先程から何を考えているのか、目を大きく見開いたまま、黙ってこちらも五十嵐に手を引かれ歩いている紙夜里の事を気に掛けては先程からチラチラと見ながらも、みっちゃんは、今このクラスの状態というものを眺める余裕もあったのだった。
ぐるりと見回す視界には、見た事のある顔や、知った顔知らない顔が、みんな何処か暗そうな顔で今は教室から出て行く自分や紙夜里を黙って眺めているのがみっちゃんには上からなので手に取るように見て取れた。
その中にはまだ自分の席の前で突っ立っている悠那の姿も。
きっとみっちゃんに助けられたのがあまり嬉しくはないのだろう。
到底感謝しているという様には見えない顔つきで、悠那は暫くみっちゃんの姿を追っていた。
出来る事と出来ない事。
それでも何とかしたいという気持ちと、言葉だけではどうしようもない壁と自分の無力さ。そして決着を見た今も、それでもまだ暴力には批判的なその目。
それは副委員長の水口の目付きとも似ていて、かえって過程なんか二の次、結果が全てだろっと、今は半分開き直っているみっちゃんからすると少しばかり面白く思えて、ついそんな顔を見せられては笑顔すら浮かべてしまうのだった。
そして二人が五十嵐に手を引かれ教室から出る瞬間、悠那はきっとそのタイミングを待っていたのだろう。
「美紗ちゃーん!」
そう声を上げると後ろから一目散にまだしゃがんでいる美紗子の元へと駆け寄った。
それには思わずその声に足を止めると、そちらの方に目を向ける紙夜里とみっちゃん。
しかし美沙子は顔を俯かせたまま、ゆっくりと立ち上がると、近付いて来た悠那がその肩に乗せた手にも関心がないようにフラフラと自分の席へと向かって行く。
「美沙ちゃん…」
肩に乗せた手は簡単にその居場所を失いずり落ちると、その場に立ち尽くした悠那は、一人そう呟いた。
そこへ後から遅れて来た中嶋美智子が声をかける。
「悠那ちゃん、こんな事の後だから、少し一人にさせてあげた方が良いよ」
「でも…」
美智子の言葉は重々理解出来たが、それでも悠那は何かしら自分に出来る事はないかと探していた。
それは多分、みっちゃんの存在が大きかったのだろう。
友達である自分が美紗子に出来る事。
しかしそれは、美智子も同じだった。
美智子は美紗子だけではなく、悠那も失うのではないかと心配していたのだ。
だからこの後どうなって行くのかまだ分からない美紗子とはあまり関らせたくないという気持ちが、この時はそんなさも美紗子の事を思った様な言葉を言わせたのかも知れない。
とにかく悠那はそんな美智子の言葉を素直に受け取ると、自分の席に着いて今はもう座っている美紗子の方を眺め続けていた。
そしてみっちゃんはその姿を今は少し面倒臭そうな気持ちで見ると続けて隣の紙夜里の顔を見た。
紙夜里は相当美紗子に叩かれたのがショックだたのだろう。今も呆然として何も考えられない様な顔をしている。
(こちらも暫く一人にさせた方が良さそうか…)
みっちゃんはそんな事を思うと、紙夜里の体を体で小突く様にして、教室から廊下へと出た。
「じゃあ、助けてくれて有難う」
そう言う五十嵐の手は、もう二人の手を掴んではいない。
「うん」
だからみっちゃんは、まだ口のきけそうにない紙夜里の分も含めてそう答えると、今度は自分が紙夜里の手を掴んで、もう五年四組の教室を見る事もなく二組を目指して廊下を歩き始めた。
その頃美紗子は席に座ると相変わらず俯いてその髪を垂らしては表情を見せない様にして、次々と机の中から荷物を出してはその上に上げ始めた。
そして一通り出し終えると、今度は机の脇のフックに掛けてある手提げバッグを取って、その中へと入れ始める。
全て入れ終わると次はその手提げバッグを持って立ち上がり、悠那達の前を無言のまま通り過ぎると、後ろのランドセルの置いてある棚へと向かった。
そう美紗子は帰る気だった。
幸一に拒絶され、根本かおりに虐められ、しかもクラス全員にパンツまで見られ、その後の追い討ちは橋本紙夜里の告げ口だ。
もう救い様がなかった。
こんな状況でもう二度と学校になんか来れる訳がないし、友達も誰も、人を信用するなんて事も出来なかった。
それにこの虐めが今日だけの事とは断言も出来ない。
明日も明後日も、また根本に虐められるかも知れないし、今度は今日の美紗子の姿を見た別な誰かに虐められる可能性だってある。
だから美紗子は怖かった。
今は学校が死ぬ程怖かったのだ。
そしてそんな美紗子を、誰も止める事は出来なかった。
「美紗ちゃん…」
ランドセルを持ち、後ろの出入り口からトボトボと教室を出ようとする美紗子を見ながらそう呟く悠那の腕には、何かを引き止めようとする美智子の手が繋がっていた。
廊下でみっちゃんと紙夜里が無事にクラスに入るのを見届けていた五十嵐も、教室から出て行く美紗子には、何もかける言葉がなかった。ただ今はそっとして置いてあげようという気持ちだけだった。
そしてそんな美紗子や五十嵐の様子を見ていた太一は、完全にタイミングを逸していた。
ここで突然それ程親しくもない自分が美紗子の元へ走り、「行くな!」と叫ぶのは、ドラマや漫画ならアリかも知れないが、現実的には有り得ない展開だ。
(五十嵐が黙って見送るのなら、俺もここは何もしない方が良いのかも知れない。この街にさえいれば、チャンスはまだ幾らでもあるからな)
そう思うと太一は当初からの考え通り、中学でチャンスがあるまで、今はやはりまだ大人しくしていようと、美紗子の教室から出て行く後姿を見ながら思うのだった。
こうして教室を黙って出て行った美紗子が、階段を下りて昇降口で靴を履き替え、校門へと向かい校庭を歩いている頃だった。やっと幸一が先生を見つけて、連れて教室へと戻って来たのは。
教室で幸一と担任の先生が見たのは、床の上で大の字に仰向けで倒れた根本かおりの姿だった。
彼女はまだ、手で口元を押さえながら泣いていた。
それを見て慌てて彼女に駆け寄る先生。
「どうしたの? 何があったの?」
しかしその問いにすぐに答える者は、このクラスには誰一人としていなかった。
みんながみんな、これ程大事になってしまっては、心の何処かで自分も加害者の一人なのではなかろうかと、気まずい気持ちを持ってしまっていたからだ。
とにかく、こうして長かった一日は終った。
次の日から、倉橋美紗子が学校に来なくなるという結末を残して…
つづく