第106話 美紗子が泣いた日その㊲ 罰
ガタンッ!
不意に横っ腹を殴られた根本は、それがあまりにも突然な事だったのでそのまま殴られた拍子に横に崩れると、体は側にあった机に当たり、それを斜めに動かした。
「きゃあ!」
驚いたのはその席の女子で、声を上げると立ち上がり、その場から数歩後退る。
それからは「きゃあ!」「キャア!」とその他の女子達も伝染したかの様に悲鳴を上げ始めて、クラスは騒然とした空気に包まれた。
「誰?」
「知らない」
「知ってる。二組の奴だ」
それは女子だけではなく、いつの間にか男子のヒソヒソ声も混ざる様になると、それまでの根本に支配されていたかの様な異様な緊張感も幾らかは和らぎ、先程までとは少し違ったまた別の意味での好奇の目が今度はそこには注がれ始めていた。
だから根本が倒れたあたりの生徒達は、みんな静かに立ち上がると後退り、少し距離を取る様にしながら、円形にその場を囲む様に立ち尽くす。
この時の主役はもう美紗子ではなかった。
みんなの視線は今まさにみっちゃんに馬乗りにされ、殴られている根本へと注がれていたのだ。
ほんの数秒前、教室の扉から中を覗いていたみっちゃんには、根本が顔を美紗子に近づけて話し始めた瞬間は、その声が小さくて何を言っているのか理解出来なかった。
しかしその口が、「は・し・も・と・こ・よ・り」と動いた瞬間、みっちゃんは頭で考えるよりも先に、体が動いていたのだ。
もうこうなってしまっては、タイミングも自分の中の虐めに対する自論も、ましてや紙夜里との約束も、全て関係なかった。
ただその口を塞ぐ様にサッと飛び出しては、根本の腹を殴り、更には倒れた根本の上に馬乗りになって、両腕の上に膝を乗せ使えなくして、これまた数発腹を狙って両拳で交互に殴った。
そしてそこまで来てやっと、みっちゃんは我に返ったのだった。
(こいつは言ってはいけない事を言ったんだ。それだけは絶対言ってはいけないのに)
根本が紙夜里の名を呟いた瞬間、みっちゃんには直感的にそれが何か、全て理解出来ていた。
(誰にだって間違いはある筈だ。紙夜里だってあの時はおかしかったんだ。今はきっと、何であんな事をこの根本に教えたんだろうって、後悔している筈なんだ。それなのに…こんな事をしたらおしまいじゃないか! この口か? この口が悪いのか!)
そう思うとみっちゃんは、その両膝で押さえられながらも懸命に腹を押さえて、無防備になっている根本の頬を、今度は激しく二度、平手打ちにした。
ビシッ! バシッ!
「ひっ」
それには痛みもあってか、根本は思わず声を漏らす。
そしてそれは傍から見ればこれもまた虐めだったのかも知れない。
しかしこの時のみっちゃんにはそんな気はなかったし、そこまで考える余裕もなかった。
ただみっちゃんの中で絶対に許せない事を根本がしたという事だけが全てだった。
だから感情のままに根本を殴るみっちゃんの中には、美紗子や紙夜里への仕返し等という想いは欠片もなかったのだ。
馬乗りにされた根本は、得意の足が上手く使えず、ジタバタしていた。
どうにも上手く、みっちゃんの背を蹴る事が出来ないのだ。
そんな事だから、一方的に殴られる続けるうちに少しずつ湧いて来る敗北感と悔しさ。
そしてついに口からは、言葉が溢れ出した。
「私だって優しくされたい! 構われたい! なんでいつも同じ奴らばっかチヤホヤされてるの! こんなのおかしいじゃないか!」
「おかしいのはお前の頭だ!」
しかしその根本の言葉は、みっちゃんの言葉とついでに腹をもう一発殴るという行為で一蹴される。
(そんな事を口に出して言うから引かれるし、友達も出来ないんだ)
心の中でそう呟くみっちゃんは、少しだけ憐れみの目で顔を赤くして、今にも泣き出しそうな、しかし睨み続ける根本の顔をジッと眺めた。
根本の中に溜まっていた感情が、沸々と湧き上がって来るのが感じ取れたからだ。
そして思っていた通り、根本はみっちゃんに押さえ付けられていても尚、叫び始めた。
「何がいけないんだ! 私はいつだって本当の事を言っているだけじゃないか! それなのに私はいつもひとりぼちで、が、学校に来ても、ち、ち、ちっとも楽しい事なんかない! い、い、いつも同じひ、人ばかりあ、あ、集まっていて、私は、私は、ど、ど、何処にも、な、な、何にも、良い事なんてない!」
そこまで話すと、根本は大きく目を見開いた。
みっちゃんも途中から気付いていた事なのだが、自分が吃っている事に根本自身も気付いたからだ。
「わ、わ、私は、わ、わたしは…」
だから今度は普通の声の大きさで試す様に話しては、やはり吃る自分にショックを受けたのか、根本はみっちゃんの膝に押さえられた両腕の手を自分の口に当てると、それを隠した。
(感情的になり過ぎて、吃り癖でも出たのか。それにしてもみんなの前でこんな風に吃ったら、こいつ更に孤立するだろ。全く運の悪い奴だ)
そう思うとみっちゃんは、もう何も出来ないであろう根本の上からゆっくりと体を起こすと、その馬乗りの体勢から立ち上がり、横へと退けた。
そして気持ちを落ち着かせると、今度は突然それまで気付かなかった視線に気付いて、自分の入って来た教室の扉の方を振り返ったのだった。
「紙夜里…」
そして気付く。
そこには壁に片手を当てて、もう片方の手はお腹のあたりを押さえた、弱々しそうな紙夜里が立っている事に。
つづく
いつも読んで下さる皆様、有難うございます。