まぼろしのキッチン
これはどうしたことだ?
私は……
いったい何をしているのだろう。
目の前の修復しきれない光景に、ただ途方に暮れていた。
キッチンにはぐちゃぐちゃになった料理が、あたり一面に飛び散っている。
そうだ。だめだ。できなかったんだ。
失敗したのは一目瞭然。
私には無理だ。料理を作るなんて。
リビングルームには妻がいる。呑気にテレビを見ながら、私の料理を待っているはずだ。
妻は料理がうまい。一般的にはどの水準にあるのか知らないが、私より断然うまい物を作る。というより私はそもそも料理ができない。
ああ、何故こんな事に手を出してしまったのだろう。
長年にわたり抜群の料理を作ってくれる妻に、一度は恩返しをしてみたかった。ただ、それだけなのだ。インターネット動画で料理の作り方を見て、その通りに作ったはずなのに。
結果は残酷きわまりない。
私は、妻の聖域を飛び散った食材で汚してしまった。
「……?!」
ふと視線を感じて、私は振り返る。
私より低い位置から小さな目がこっちを見ていた。三歳の娘だ。しかし三歳でも何が起きたかは分かるのだろう。目がまん丸になっていた。そして彼女は私を見て、顔をくしゃくしゃにして母の元へ駆けだした。
「待ちなさいリサ。これは何でもないんだから。ママに言っちゃダメだ」
運の悪いことに、私の右手には包丁がそのまま握られていた。
よく分からない衝動が私を突き動かす。
右手の刃物が愛娘の背中に突き立てられるか、その瞬間。
小さなリサの影はすっと消えた。
「あなた、しっかりして。大丈夫だから」
気がつくと、妻が私の右手を捕らえていた。強い力が右手から包丁を奪い取った。妻は包丁を床に置くと、私を抱きしめる。
「ごめんなさいね。あなたを一人にしてしまって。やっぱり私がずっとついていて上げるべきだったわ」
結局私は何もできず、呆然としてリビングルームのソファに座っていた。テレビ番組の内容がよく分からない。
妻は私の失敗の後片付けをして、更に料理を作り直した。
「さあできたわよ。こっちへいらっしゃい」
なんだか子供に言い聞かせるような言葉で妻は私を呼んだ。
きれいなチキンライスと野菜サラダが私を待っていた。
その横には水の入ったコップと、錠剤が置いてある。
この錠剤はなんだろうか。いつも飲んでいるようだが、私にはよくわからなかった。
今度、リサが孫を連れて遊びに来るみたいよ。妻の声が遠くで聞こえていたが、すでに私の気持ちはチキンライスを食べることに夢中だった。