1-5.
セラは数日間、寝台での生活を余儀なくされた。
落馬し、木から落下したものの、奇跡的に骨折はしなかった。全身打撲と、右足の踵にひびが入る程度で済んだ。
見舞いには多数の人が訪れた。親類や友人、顔見知りの兵士など。実際には会えなかったが、話を聞いて見舞いの品を送ってくれた者もいた。
神官のオルガも来た。といっても、個人的にではなく、代表としてだ。セラは法術を学びにたびたび神殿に行っているので、神殿にも知己の者がいる。その代表だ。
「お元気そうで」
「本当に?」
オルガの皮肉な口ぶりを気にも留めず、セラは嬉々として聞き返した。
召使があわてた様子で会話に割って入る。
「オルガさま、お願いですからお嬢さまにそういうことを言わないで下さいまし。お嬢さまは早くベッドから離れたくてしょうがないのです」
「……なるほど」
オルガは納得し、鞄から本を一冊取り出した。
「暇ならこれをやってみてはいかがでしょうか。メルレル神官からの差し入れですよ」
差し出されたのは、数学の問題集だった。
「……計算、苦手」
「まあ、女の方というのは、たいてい数学が苦手なものですからね」
軽侮した物言いだった。セラは少しむっとして本を受け取る。見事、解いて見せようではないか。
「今度の講義は、私が講師です。数式と術式についての講義を行う予定ですので、しっかり予習をなさった方がよろしいですよ」
「今度の講義、いつ」
「五日後です。場所はいつものところで」
五日後。完全に治らなくとも、動ける程度には回復するだろう。
「しかしね。法術などよりも、裁縫や礼儀作法の勉強をなさったらどうです。将来、そっちのほうがとても役に立つと思いますよ。女の方には」
「忠告、感謝」
言葉の端々に厭まれている感を受けたが、セラは動じず、いつも通りの態度で返した。いつものことだ。
オルガがセラを疎む原因の一つに、法術のことがある。
セラは十二歳の時から法術を学びはじめたが、領地内で一番の法術使いと呼ばれるオルガに迫る勢いで成長していた。それが、オルガには妬ましいのだ。こんな小娘に、という思い常にある。
「お姉さま、入ってもいい?」
オルガが帰ると、マリーが遠慮がちにノックしてきた。疲れていないかと気遣ってくれているのだろう。確かにセラは疲れていたが、気が置けないマリーと話したかったので、部屋に招きいれた。
「お茶、お飲みになる?」
「飲む」
「お見舞いで頂いた紅茶の葉っぱを使ってもいい? このオレンジの香りがする」
「いい」
マリーはうきうきと、楽しげに白磁のティーポットを取った。セラは伯母のソフィアから贈られた箱を開ける。伯母お手製の、ドライフルーツたっぷりのケーキが入っていた。
「おいしそう」
ケーキを見て、マリーは顔をほころばせる。セラは黙って、マリーの皿にケーキを二切れ盛った。
準備完了。後は食すのみ。セラとマリーはフォークを取った。
すると、その時。
「よお、セラ。落馬して木から落ちたって?」
たくましい腕で扉を乱暴に開け放ち、従兄のルイが入ってきた。ボタンがはじけそうなほど筋肉のついた身体。扉がいつもより小さく見えた。
「猿も木から落ちるってか。女のくせにでしゃばるからそういう目に会うんだよ」
割れたアゴをしゃくって、ルイはにやにやと笑う。見舞いに来たようだが、とてもそんな殊勝な態度には見えなかった。
「こいつらも来たがってたもんで、連れて来た。邪魔するぜ」
ルイの後につづいて入ってきた大勢の男友達に、乳母が顔をしかめる。
「ルイ坊ちゃま、女性の寝室にノックもせずに入るのはおやめください。しかも、大勢お友達をつれて。セラお嬢様は今、休養中なんですよ」
乳母が追い返そうとしたが、ルイは気にせずそのまま居座りつづけた。
「いいじゃないか。どうせ、俺はその内この家の主人になるんだから。なあ」
ルイがベッドの傍まで近づいてくると、麝香がベースの香水が強く匂った。つけすぎているせいで、鼻が曲がりそうだ。隣でマリーが顔を斜め下にそむけ、香水の芳香から逃れようとしている。
「ほら、セラ。少しは嬉しそうな顔をしたらどうなんだ? こうして見舞いの品も持ってきてやったってのに」
「ありがとう」
花束を受け取りながらセラは礼を言ったが、いつもと変わらぬ無表情だった。ルイはこれみよがしに「あーあ」と天を仰ぐ。
「こんな氷のように冷たい女が俺の女だなんて、俺は世界一不幸な男だ」
芝居がかった口調としぐさでいうと、ルイを取り巻いている友人たちがそれに賛同する。
「まったく、運のない男だよ、ルイ」
「同情するぜ。これじゃあ、ベッドの上でも楽しめそうにない」
げらげらと下卑た笑いが木霊する。
「な――っ! 貴方たち、出てお行きなさい! 今すぐ。こんな――こんな! ルイお坊ちゃま、見損ないましたよ!」
乳母は真っ赤な顔をして怒鳴り、男たちを戸口へと追い立てる。
そこに騒ぎを聞きつけた父親のクイルが、ひょっこり顔をだした。
「なんの騒ぎだい? ――ああ、ルイ君。こんにちは」
「こんにちは、クイルおじさん」
「わざわざお見舞いに来てくれたのかい?」
自分と違って逞しい体つきのルイと、あまりガラのよくなさそうなルイの友人たちを、クイルは上目遣いに見上げる。
「ええ、そうなんですよ。お邪魔みたいだから、もう帰ろうかと思っているんですが」
「いやいや、とんでもない! せっかく来てくれたんだ。ゆっくりしていくといい」
部屋を出て行こうとするルイを、父親は必死で引きとめた。我が家の大事な救世主である。粗末な扱いは許されない。
「そうですか? じゃあ」
最高の許可証を手に入れたルイは勝ち誇った顔をして、近くにあった椅子を引き寄せた。足を組んで大仰に座る。
「マリー、お茶をお淹れしなさい」
父親に命じられれば、娘のマリーに拒否権はない。ティーカップの追加を召使に頼み、嫌々ティーポットを手に取って、お茶を用意しはじめた。
ルイの連れて来た男たちは、この小さく愛らしく、甘い香りを漂わせる領主の娘を無遠慮にながめまわした。ともすれば不快感をもよおすほど、品のない目つきで。
どうしてくれよう。
セラは穏やかならぬ気持ちになった。
とにかく、マリーをこの部屋から逃さなければ。こんな品のない男どもと妹を同じ部屋において、同じ空気を吸わせることも腹立たしい。話をさせるなど言語道断。情操教育にも悪い影響を及ぼすにちがいない。
「マリー」
「なあに、お姉さま?」
「神官、忘れ物。届ける」
セラは枕もとの聖書を指さした。
「え、でも」
「あ。待つ」
それはお姉さまのじゃ、といいかけるマリーを制し、セラはナイトボードにおいてある紙の切れ端を引き寄せた。『このまま部屋を出る。命令』、とすばやく書きつけると、それを二つ折りにし、マリーに手渡す。
「それ、伝える。頼んだ」
メモを開けたマリーはきょとんとしたが、セラの意を察してうなずいた。
「セラ、そんなもの、べつに今じゃなくてもいいだろ? 召使に行かせろよ。マリーがいなくなると、華がない」
「それもそう。マリー、メリッサに頼む。すぐ戻ってくる」
セラはあっさり肯定した。メモを読ませることに成功したし、部屋を出るきっかけも作った。出てしまえば、後はどうにでもなる。
「頼んだ」
セラは手をふって、マリーを見送った。
その後のことは、語るほどのこともない。
部屋はルイの独壇場になった。ルイは首尾よく小鹿を狩った時のことを滔々と語り、ついこの間手に入れた馬について自慢し、仕入れた武器のすばらしさについてうるさく解説しだした。
くどい自慢話。
セラは聞いていられなくなって、自分の中から外界の情報を締め出した。代わりに意識を内にむかって働かせ、あの呪獣のことを考えた。
(スーラは……)
狩りは得意そうだ。きっと、鹿だろうか猪だろうが虎だろうが象だろうがドラゴンだろうが狩れるだろう。
あの地面を蹴る力強い四肢。どれだけ毛に被われていようとも、その下にあるしなやかに発達した筋肉のうつくしさは隠しきれない。後ろ足のふとももの部分と、肩の線は特に魅力的だ。
自分を襲ったスケルトンの骨を噛み砕いた、強い顎。地面に深い爪跡を残した鉤状の爪。最初に助けてもらった時に聞いた低いうなり声は、今もしっかり頭に焼きつけてある。
そうだ。今度、礼代わりに毛をブラッシングしようか。そうすれば、礼にかこつけて何の遠慮もなく触れるではないか。ベタベタと、気の済むまで。気を許した相手にしか触らせてくれなさそうだが、提案してみる価値はある。
ついでに湯浴みにも誘ってみよう。承諾が得られたら、あの毛をごしごしと素手で洗うのだ。
想像しただけでも胸が熱くなる――と、セラは冷静そのものの顔でそんなことを夢想した。
「おい、セラ。マリーはまだ戻ってこないのか?」
「さあ」
思索に耽っているセラはそっけなく返す。ルイはふん、と鼻を鳴らした。
「ったく、愛想のない女だぜ。どうせヤるならマリーの方が……」
セラの頭が、一気に現実の色に染まった。
今、なんと言った。この身のほど知らずの筋肉馬鹿は。
「なんだよ、セラ。睨むなって。冗談だよ、冗談」
冗談で済むなら、裁判もギロチンも墓穴も不要である。
セラは冴え冴えとした矢車菊色の目で、相手を見据えた。
「もしかしてお前、怒ってんのか? ――なんだ、いつも澄ました顔してお高くとまってるかと思ったら、そういうことか」
何がどういうことでそうなるのかセラにはさっぱり理解できないが、ルイは肩に手を回してきた。悪臭に慣れたはずの鼻が、また不快感を訴えてきた。
「お前、いつも古臭いかっこうしてるけど、けっこういいんだよな……」
毛穴が確認できるくらい間近に寄られる。最初は顔に留まった視線が、そのあと胸から腰へと滑っていったのは、気のせいではあるまい。
さすがのセラも嫌悪感がこらえ切れなくなって、ルイの身体を軽く押し返した。
だが、ルイはそれに逆らってくる。ヒュー、と男たちの冷やしが飛んだ。
「さすが、血を分け合ってるだけあるよな……」
セラの怒りが、静かに頂点に達した。
大事な妹がそんな目で見られているのかと思うと、虫唾が走る。
「ルイ――」
一言言ってやろうと口を開け、セラは動きを止めた。ルイの目の下のあたりに、うっすら青アザが残っている。はじめて気がついた。
「喧嘩」
アザを指しながら尋ねると、ルイは弱みを突かれたようにうろたえた。
察しのいいセラは、すぐに事情を把握する。
「負けた」
「あんだと!」
腹の底からの怒声。ベッド脇でおろおろと右往左往していたクイルが腰を抜かす。
しかし、セラの方は涼しい顔で恫喝を流した。それが、ルイの怒りを煽る。
「このアマ! いっぺん調教しなおしてやる!」
ルイがセラの胸倉をつかみ、拳を握りしめたその時。
「お姉さま、お見舞いの方ですわ!」
マリーがスーラを連れてもどってきた。