1-4.
呪獣が、こちらに近づいてくる。
ああ、なんて美しいのだろう。
セラは霞む意識をなんとか保ちながら、千載一遇のチャンスをたんのうすべく、獣を観察した。なめまわすように見た。
ゆったりとした動作でこちらへ歩み寄ってくる呪獣。一歩進むそのたびに、右肩と左肩が交互に隆起し、毛皮の下のしなやかな筋肉の動きがあらわになった。
短い毛におおわれた足は太いが、野暮ったい感じは受けない。無駄な肉が一切見当たらないせいだろう。力強く地を踏む姿は、生命力に満ちあふれている。
月の光に照らされて、左半身は淡く発光しているように見えた。三角形の耳は、時々、あたりをうかがうように外へとむけられる。そうすると、先までぴんと耳が立ってきれいな三角形になった。
頭から肩へと、流れるように生えそろった毛。あの辺りを撫でてみたい――そんなことを思っていると、呪獣がセラと五歩の距離を空けて立ちどまった。
ぬ。まずい。私のこの変態じみた視線に違和感を覚えたのであろうか。
あわよくば毛に触りたいと考えているセラは、頭を働かせた。すこし身を起こしてわずかに這い、力尽きたように倒れたのだ。
すると、獣は狙い通り五歩の距離をつめた。どうすればいいのだろう、ととまどった感じで、セラの匂いをかぎはじめる。
呪獣の毛が頬に触れる。幸せすぎる。湿った温かい吐息が耳にかかると、セラは頭の中が真っ白になった。
(神よ、今日という日を貴方に感謝)
この時の心情の効果音としては、大聖堂の鐘の音である。リーンゴーン。
万歳。ケガ万歳。魔物万歳。無表情万歳。もし普通の人のように顔面の筋肉が働くならば、自分は今、スケベオヤジよりも鼻の下をのばし、だらしのない顔になっているはずだ。口は横たわる三日月のようにゆがみ、変態じみた顔つきになっていることまちがいなしである。
今日はずいぶんと酷い目にあった。ちょっとくらいいい思いをしてもバチは当るまい。
セラはそう考えて気絶したフリをつづけたが、呪獣のざらざらした舌に頬を舐められると、これ幸いと起きた。間近で観察できるチャンスだ。
紅玉のように、透明感のある赤い目。恐ろしいとは思わなかった。そこには知性があった。親しみを感じた。
意識が朦朧としているせいで、少し大胆になっていたのだろう。セラは呪獣の顔に手をのばした。逃げられる可能性に脅えはしたが、二度とないかもしれない機会だ。
指先に触れたのは、硬い毛。逃げないで欲しいと願いつつ、セラは指をさらに深くうずめる。やわらかい毛の感触があった。
「ありがとう」
満足感が心を満たす。ああ、なんだかもう、思い残すことがないくらい幸せだ。
名残惜しく思いつつも、それ以上腕を上げていられなくて、セラは呪獣から手を引いた。
行ってしまうだろうか?
そう考えると心にぽっかり穴が空くように淋しくなったが、呪獣はそこに居てくれた。セラの顔をじっと見ている。照れる。
「セラ様! セラお嬢様!」
遠くで人の声がした。援軍が来てくれたらしい。
「行く」
ふっと目を閉じて、セラは呪獣に言った。
「人、来る。私、誰にも言わない。貴方のこと」
ずっと見ていたいのはやまやまだが、この呪獣が捕まるのは嫌だ。
「約束する。誓って」
重いまぶたをうっすら開けて、セラは呪獣の姿を目に焼き付けようとした。
「行って」
セラは完全に双眸を閉ざし、意識を闇に落ちるに任せた。
* * * * *
病人の枕元で言い争うのはどうかと思う。
セラはぼやけた意識の中でそう思った。
「だから、お父さまがついていかなかったから悪いのよ! お父さまの意気地なし!」
「マリー、落ち着きなさい。セラが起きてしまうだろう」
「お父さまのバカ! バカ! 大っ嫌いだわ! お姉さまに危ないことばっかりさせて! どうして一緒に戦わないの!」
「マ、マリー……」
気弱で弱虫なクイルは、困り果てていた。自分でも情けないと自覚しているだけに、反論の言葉もない。
「お父さまの弱虫!」
マリーのソプラノが頭に響く。不明瞭な意識がすこし晴れた。
セラは、さて、どう起きようと考えた。ここは一つ、「私のために争わないで!」とか悲劇的な口調で叫びながら起き上がり、その場の雰囲気を和ませるべきであろうか。
だが、これには大きな問題点がある。自分にそんな芝居がかったことができないという問題である。
自分のことをよくわかっているセラは、結局いつもどおり、なんのひねりもなく、のそりと起き上がった。
「お姉さま!」
かわいい妹が顔をかがやかせ、セラをふりかえった。
ぬ。まずい。両手を広げている。抱きつく気満々だ。身体の節々が痛むというのに、マリーの激しい抱擁を受けたら傷は悪化するに違いない。
マリーには悪いが、ここはやはり避けるべきだろう。
だが、しかし、でも――
「よかった、お目覚めになられたのね!」
ぐは。
セラは百のダメージを受けた。
「マリー」
「なあに、お姉さま」
うう。くりくりとした青い目が、青い目が……
「かわいい」
ぎゅうと抱きしめると、甘い香り。うむ、我が家に生還したという実感が――ではない。何をやっているのだ。かわいそうだが、ここは心を悪魔にして離れるように言うべきだというのに。
いや、しかし。
一度自分が納得して抱きつかせたのなら、マリーが満足するまで抱きつかせるのが道理というものではあるまいか。むやみな前言撤回は不信感をまねく。
「思う存分、抱きつく」
「お、お姉さま……? どうなさったの?」
起き上がったと同時にかわいいといって抱きしめ、思う存分抱きつくがよいと手招きする姉に、マリーは不審感を覚えずにいられなかった。頭を打って思考が混乱しているのだろうかと心配した。悲しいことに、セラは普通の人に理解されない言動の持ち主なのだった。
「お嬢さま、お体の調子はどうです? どこかひどく痛むところはございませんか?」
乳母が包帯や湿布を手にして心配そうにしている。
「節々痛む。しかし、大事ない」
上掛けをめくって、床に足をつく。
ところが、ベッドの支柱の助けを借りて立ち上がろうとして、バランスをくずした。忘れていた。右足の踵が痛むのだった。
慌てて支柱につかまろうとするが、手にうまく力が入らない。無理に入れようと思うと腕に激痛が走る。それでも支柱にすがろうとすると、背中や肩の骨がきしむ音がした。思ったよりも損傷が激しい。立っていられない。
「無理だよ。落馬した上に、木から落ちたんだから」
不意に後ろから脇に手をいれられて、身体をすくいあげられる。
聞き覚えのない声だ。誰。
「みんなに心配かけたくないのは分かるけど、無理は禁物」
ベッドの上に引き上げられる。セラは身体をねじって、声の主を見た。
赤い目。
意識を失う前に目にした、赤い目。その目を持った青年が、そこにいた。
「……」
「ひょっとして、驚いてる? 無表情だけど」
青年の唇から、常人よりややするどい犬歯がのぞいている。毛先の赤い濃灰色の髪は、後ろに細く長く、自然に残してある。すっきりとした顔の輪郭。引き締まった身体は野性味にあふれていた。
「じゅ――」
思わず呪獣と呼びかけて、セラは口をつぐんだ。
青年はやわらかな笑みを浮かべる。
「こんばんは。スーラっていうんだけど、君の名前は?」
「セラ。セラ=グレイス。会った」
「うん、今日会ったよね。俺も覚えてるよ」
「十五」
「それが最初だった。あれが一年前だから、今、君は十六歳かな」
「年」
「十八歳」
「驚いた」
「俺も驚いてる」
魔物とは思えないほど邪気なくスーラは笑った。
とんとん拍子で自己紹介を進める二人に、まわりは目を白黒させる。
「スーラ」
「何?」
ぎゅっと手を握って、セラは大真面目に言った。
「ラブ・ユー」
「ありがとう」
笑顔のままさらっと流された。不思議そうな顔もしなければ、奇襲にとまどいもしない。これは手強そうだ。
「ベッドに入って。しばらくはゆっくり休養した方がいい」
セラに上掛けをかけると、スーラはベッドを離れた。
「どこ行く」
「家に帰るんだよ」
「礼」
「いいよ、べつに。話せただけで楽しかったから」
スーラはまるで、それ以上興味がないようだった。
「スーラ」
「早く治るといいね」
「スーラ」
セラにしてはめずらしく、語気を強めた。
しかし、スーラはそのまま部屋を出て行ってしまう。身体が思うように動かないので、セラは追うこともできない。
「さあさ、お嬢さま。あの青年の言うとおりですわ。ゆっくり養生なさってくださいまし。お嬢さまが気を失って運ばれてきたとき、わたくしは気が遠くなりましたよ」
乳母が起き上がりかけるセラの肩を押し、ベッドに横たわらせた。
「お礼はまた後日、すっかり元気になってからすればよろしいじゃありませんか」
セラは枕に頭を落ち着けたが、眠けが襲ってくるけはいは微塵もない。
会った。話した。触った。
興奮しすぎて、セラは六時間経っても眠ることができなかった。




