2-19.
セラは鏡台からブラシを取り出すと、切なく息を吐いた。
スーラが最後に訪れてからもう七日。今か今かとスーラを待っているセラにとっては、それは長すぎた。
ブラシを指でなでる。いつだったか、店頭で二時間かけて厳選したブタ毛のブラシ。いつになったらこれでスーラの毛を梳くことができるのだろう。毛を洗って、梳いて、ついでに耳かきとか爪とぎとか膝枕とかもしたいのだが。たっぷりと。一晩かけて。
セラはブラシを手にうっとりし、はっとした。
む、まさか。この私欲に満ちた邪念がいけないのだろうか。これがスーラを遠ざける遠因になっているのだろうか。
よし、無心だ。無心無心無心無心無心。無我の境地を会得するのだ。さすればスーラにブラッシングの道が――!
セラに無念無想は千年経っても無理そうだった。
「セラ~? 入るよ」
猫なで声で、クイルが部屋を訪ねてきた。セラは身構える。布につつまれた四角い物体が父親の片手にあることを認知すると、徹底抗戦の体勢を取った。
セラの予想は的中し、麻布の奥からは三十半ばの男の絵があらわれる。
「セラ、この人をどう思う?」
「男」
「いや、そういうことじゃなくって」
「ヒゲ」
「そうじゃなくて」
「人間」
「それは当たり前だよ!」
クイルは地団太を踏み、つんと澄ましている娘にげっそりと肩を落とした。
「まあ……ここまできたら父さんも無理強いする気はないんだよ。でも、やっぱり心配で。おまえは身分ある身だし、変な体質もあるし、どんな輩に目をつけられるかわからない。
今は頼りないながらも父さんがいるけど、父さんの死んだあとが心配なんだ。おまえにはいざというとき頼れる人が必要だと思うんだよ」
セラは父親のことをちょっぴり見直した。娘の行く末を、死んだあとまで心配しているのと聞くと、やはりこの人は自分の親なのだなあと思う。
嫌々ながらちゃんと肖像画を見る。三秒で目をそらした。やっぱり、嫌なものは嫌なのである。
女王と大神殿からの雇用書は机の引き出しにしまってある。セラは引き出しの取っ手に手をかけたが、結局それらを出さなかった。スーラのことが頭に引っかかっていた。
「ハンター稼業は楽しくやっているのかい?」
クイルは机の上におかれたハンター証をおっかなびっくり手にとった。セラはぎこちなくうなずく。
「おまえは本当にハンターになったんだねえ。最初は反対していたけど、人間、やりたいことをできることが一番の幸せだし、おまえが魔物と戦うことを選んだのは、父さんにとっては誇るべきことだ。もう……好きにしなさい」
トンビがタカを生むっていうのは、こういうことをいうんだなあとクイルは頭をかいた。ハンター証をおくその手つきは慎重で、賜り物を扱うようだった。セラは引き出しの取っ手に指先で触れ、口内にスーラのことを溜め、黙っていた。
「ところでセラ、そろそろクリスト君と出かける時間じゃないのかい?」
セラは肯定し、椅子から立った。町を案内する約束をしていたのだ。
鏡にうつるのは、いつもどおりの黒いドレス。最近は濃い色ならばいいかと妥協の気持ちも生まれてきたが、やはりなかなか着られない。習慣は強固な壁だった。
「つかぬことをきくけど……クリスト君とは、その、どうなんだい?」
点検を終えて出て行こうとすると、クイルがもじもじと指をこねくり回しながら、上目遣いにたずねてきた。セラは冷たくそれを無視した。
だが、扉を閉める寸前に、ぽつりと一言残した。
「……ちゃんと本命、いる」
クイルは肖像画を取り落とし、踏み抜き、踊り騒いでいるのかと思うほどあわてた。
* * * * *
階下に降りていくと、クリストはすでに出かける準備をととのえていた。セラがさっそくどこに行きたいか質問すると、クリストは首をひねった。
「悩みますね。実は貴女が体調をくずされているときに、主要なところはだいたい回ってしまって」
それならば止めようかと提案すると、クリストは首をふった。
「せっかくですから、どこか案内していただきます。そうですね……では、貴女がお勧めする場所に案内してくださいますか?」
承諾がのどに詰まった。お勧めの場所なぞ、あるわけがない。
セラはどこに、誰が、何人で住んでいるということまで、町のことなら隅々まで把握している。何か見たいとか、欲しいとかいわれれば、即座に案内できる用意があった。しかし、これは予想していなかった。
「一ヶ所だけでも結構ですよ」
セラは腕組みをした。
「よく行かれる所はどこですか?」
瞑目して脳みそをこねくりまわしたが、思いついたところは、おもしろおかしくないところだった。セラは困り果てる。
「何を悩んでいらっしゃるんですか?」
「既知」
「構いませんよ。どこもかるくしか見ていませんから」
どうあっても案内しなければならないようだ。セラは観念して足を動かしはじめたが、行き先はいわなかった。クリストは不思議そうにしたものの、すぐにおもしろそうな顔になってついてきた。
道中、町の人々の視線がからみついた。もともと二人の容貌は人目を引くが、セラに対する視線は悲喜こもごもだ。
つとめて視線を無視し、先を急ぐ。この分だと、クリストはすでに自分に関する噂を色々と聞いていることだろう。気が重い。
「ここ、ですか?」
ついた先は神殿だった。セラの薬をもらいに、クリストも何度か往復している。
セラは勝手知ったる神殿内を突き進み、図書室の前に立った。頻繁に出入りする場所というと、ここと森ぐらいしかない。
「その席、推奨」
図書室は図書室である。本を読むところである。とくに説明もアピールすることがなかったので、苦し紛れに自分のお気に入りの席に案内し、セラは踵を返した。
だが、クリストの方はセラのすすめた席に腰を下ろすと、悠然と図書室を見回した。
「三方を本棚と壁に囲まれて、一番人目につかない場所ですね。子供の頃からずっとこの席で?」
セラは肯定するように、慣れた動作でクリストの前に座った。
「噂によると、貴女はこの図書館の蔵書をすべて読破しているそうですが、何かおもしろい本は?」
「好きな分野は」
「特にありません。貴女にお任せします」
セラはヤケクソ気味に紋章学の分野に足をむけた。おもしろいというか、自分が一番興味をもっていた分野だ。何冊か選び出し、クリストの前に積みあげ、やはりヤケクソ気味にどこがどうおもしろかったかを説明した。
「読ませていただきます――その前に」
クリストもやはり何冊か選び出し、セラの前に積みあげた。
「もう読まれていると思いますが、その本同士を関連させて読むとおもしろいですよ」
セラはパラパラとページをめくりはじめた。クリストの方も読みはじめる。なにとはなしに、読書の時間になった。
読んだことがあったが、こうして読むとたしかにおもしろい。事実と事実の間に新しいつながりが見えてきて、セラは夢中になった。
「おや、いらっしゃっていたんですね」
あらかた読み終わって満足した頃、メルレルがやってきた。
「そろそろ閉めますよ。いいですか?」
セラは名残惜しそうに紙面から目をはなし、窓を見上げ、本を閉じた。思った以上に外は暗かった。
「どうでした? そのご様子だと、気に入っていただけたようですが」
セラはひぃと縮こまった。時間もクリストのこともすっかり忘れていた。
「気にしないで下さい。自分の好きな本が気に入ってもらえると嬉しいですから。これもおもしろかったですよ。また、連れてきてください」
申し訳なく思いつつ、セラは快く承諾した。ここなら会話を求められることもない。
それに、クリストとならばかまわない気がした。必要最低限のことしか口にしないセラを、無愛想とも、苦手とも思っていないようだからだ。
帰り道、セラは本の感想を簡素かつ熱く語りながら、月を仰いだ。
空にうっすらかかる下弦の月。夜が近い。セラはもう一人、自分の無口さを気にしない人物を思い浮かべた。今日は来るだろうか。来たとき、今と同じように緊張せず話せればいいのだが。
「――近頃、訪ねていらっしゃいませんね」
よすぎるタイミングにセラはぎくりとしたが、平然と首をかしげた。クリストは口だけで笑む。
「『彼』の耳はとてもいいんです」
白梟のことだろう。セラは早鐘を打つ心臓をなだめようと、呼吸を深くする。
「呪獣ですか? 契約していた」
セラは動作できっぱり否定した。
「夜に人目を忍んで会いにくるのは、それ以外に考えられない。なぜ否定するんです? 体質のおかげで呪獣を使役獣にできたのだとしても、恥じることはありません。貴女は天与の能力を誇っていい。その分、リスクも背負っているのだから」
「ちがう。会いに来るは、恋人」
個人的な話題に突っこむようなことはしないだろう。頑固に否定しそう答えると、予想どおり、クリストは一歩引いた。
「一つだけ。――良心のとがめることをしていないのなら、他人にどういわれようと、貴女はもっと堂々とするべきだ」
「……皆、認めない」
「ええ、そうでしょう。たとえ真実正しいことをしても、他人がそれを受け入れられるかどうかは別です。しかし、良心に恥じることをしていないのなら、良心を裏切るようなことをしないで下さい。それは貴女も、貴女を信じてくれる人も裏切る行為です」
「……」
セラに反論の言葉はなかった。二人は靴音を響かせながら、薄暗い道を無言で歩いた。だが、しだいにセラの靴音は弱く遅くなっていった。三十歩ほど進んだところでついに足音は止んだ。セラは自分の靴の先に目を落とし、クリストにいう。
「……ハンターを、やめようかと」
すぐに返事はなかった。うつむいているため、クリストがどんな表情でいるかセラにはわからない。
「なぜ、ですか?」
「一緒に、暮らしたい人が」
「……恋人と?」
セラは小さくうなずいた。わきのしげみで虫が鳴いている。靴先を凝視しながら、手首のやけどをにぎりしめ、返答を待った。
クリストは気づくだろうか。恋人がスーラだということに。夜に会いにくる契約獣だということに。魔物だということに。
手に汗がにじんだ。気づいて欲しくないような、欲しいような、妙な心持だった。反応を見るのは怖い。しかし、聞かずにはいられなかった。
七つ数えた後、クリストの足が、ざり、とセラの方へ一歩踏み出された。
「――まさか」
セラは一歩退いたが、肩をつかまれ動けなくなった。痛みを感じるほど、握ってくる力は強い。
セラは恐る恐る顔を上げかけ、首を右に回した。蹄の音がこちらに近づいてきていたのだ。
「そこの二人、領主殿の家へは、この道をまっすぐ行けばよかろうか?」
汗だくの騎手は、泡を吹きそうな様子の馬を止めた。セラは首を前に折る。服装からして、乗り手は身分ある家に使える従者のようだ。何の用だろうと考えると、不安な気持ちが首をもたげた。
「領主の娘。何用か」
「領主の娘? セラ=グレイス殿か? ちょうどよかった。私はバートリー家に仕える者。一大事だ、落ち着いて聞いてくだされ」
騎手は懐から手紙を取り出した。マリーの筆跡だ。セラは急いで封を開け、手紙に眼をとおし、絶句した。
騎手は重い口調で言伝を吐く。
「エラン様が行方知れずになってしまわれた」




