2-14.
車外には爽快な青空と緑野が展開されていた。月は緑塗月に入っており、それだけで緑が昨日よりもみずみずしく映る。
馬車の中にはセラ一人だけだった。クリストは御者と一緒に御者台に座っている。車内にいることを勧めたのだが、護衛だからと遠慮して聞かなかったのだ。
白梟はいない。本来夜行性だ。昼間は眠り、夜にセラたちが移動した分移動して追いつくという。
ガタガタと揺れる空間で、セラはぎゅっと右の手首を握った。何事もなくまた王都に帰れますように。そう祈って、心の片隅に淡い期待をいだく自分を発見した。すぐに会ってもどうしようもないと期待を打ち消す。
旅は順調で、しかも快適だった。宿は鍵つきの個室に泊まれ、食事も不自由しなかった。マリーの香りの虜になったバートリー家の人々は、マリーの姉であるセラにも資金を惜しまなかったのだ。
『暇ではないか?』
五日目のこと、白梟が飛んできた。追いつくのがはやいのでびっくりしたが、前の晩に多く飛びすぎていたらしい。
寝起きなのか少し眠たげだった。緩慢な動作で、口ばしにくわえていた花をセラに差し出す。
『土産だ。ずっと狭苦しいところに閉じこめられていて辛かろう』
セラは聖鳥さまの贈り物をありがたく押しいただいた。紫色のニオイスミレだ。せっかくなので髪に飾ると、白梟は近くの枝に止まって満足げに身体を膨らませた。
「先を越されてしまいましたね。うっかりしていました」
セラはいやいや、お気になさらず! と必死で首をふった。だが、クリストは馬耳東風だ。町に入ると、さっそく肉桂入りの揚げ菓子をプレゼントされた。
「子供と女性に優しく、というのがオヌの掟です」
『法律にも書いてあるぞ』
まさか、と思ったが、本当らしい。気候のきびしいオヌでは、子供を残すということは切実な問題だ。女性は次代に血を伝える存在であるため、大切にされ、尊ばれるという。
御者が宿で宿泊の手続きをしている間、セラは揚げ菓子をかじりながら通りを観察した。そろそろ日が暮れようとしているため、客引きの声でにぎわっている。
ずっと通りをながめていると、前を大きな石柱を積んだ荷車が通りかかった。表面にびっしりと彫られているのは古代文字で、頂点に魔石がはめこまれている。荷車を引く人夫につきそっているのは神官だ。
興味が湧いたセラは、御者に一言いって宿を出た。すると、クリストがついてきた。ただ、セラと同じく興味を引かれたわけではない。
「私にも一言かけてから見に行ってください。一応、護衛ですから」
『そうそう、一人では危ないぞ。いいか、知らない人に声をかけられてもついていかぬようにな』
セラは憮然とした。何歳だと思われているのだろう。
『そなたも妹御に対して似たようなものではないか』
「……」
反論できなかった。
ううむ、どうにも落ち着かない。
セラはつねに人の前に立ち、人を守る立場にあった。今のように人の後ろに回るという経験はないに等しい。
貴重な状況だが、セラは自分には合わないと感じた。自分がとても弱く思える。
石柱は町の東の入口まではこばれた。門前にはすでに石柱を立てるための穴が掘られており、そのそばでは三人の神官たちが図面をひろげて話し合っていた。
『ふむ。どうも魔人を警戒して結界を張るようだな。呪文の対象に魔人の特徴が彫られておる』
柱を立てるための穴をのぞきこみ、セラはびっくりした。深い。柱が埋まってしまいそうなほど深い。埋めこむ気らしい。
「トラップ系の結界ですね。対象が結界に入りこむと、すぐさまそれを術者に伝達し、ある程度行動も制限してくれます」
ほうほう、とうなずくセラの横で、白梟が空を見あげていた。頭に冷たいものがあたる。雨だ。
「もどりましょうか」
クリストは宿に足をむけかけたが、途中で動きを止めた。訝しげに周囲に視線をめぐらせる。
『どうかしたか?』
「いえ……だれかに見られていた気がして」
それは無理ないのでは、とセラは思った。なにせ白い梟を連れているし、クリストは人目を集める容姿だ。
「たぶん、気のせいでしょう。行きましょうか」
往来にいた人々も、雨に気づいて早足に四方へ散って行っていた。
* * * * *
雨はよく降っていた。
暖かくなってきてはいたが、雨が降るとさすがに肌寒い。いつもは野外で過ごす白梟も今日は室内にいた。椅子の背に止まり、物憂げに雨音を聞いている。
セラは鞄をあけ、外套を取りだした。薄手のシャツでは手先が冷えた。
『まだ眠らぬのか?』
セラは首を縦にふった。故郷は確実に近づいている。夜になるとあれこれ考えてしまって眠れなかった。今夜は荷物の整理でもしようと、ベッドに鞄をおく。
ベッドの上に中身をすっかりひろげると、白梟が古びた本に目を留めた。道すがら手に入れた本だ。古今東西さまざまなおそろしい魔物を列挙した『異種列叙』、それと神から魔に転じたものたちを考察する『零落記』。どちらも魔人に関する情報が載っていたので買ったものだ。
『異種列叙』によると、魔人についている魔物の名はシェザールというらしい。一般的に知られてはいないが、英雄譚にも出てくる魔物だ。もとは北方をおさめていた聖獣で、翼をもつ白い狼の姿をしており、冷気を操るという。
『シェザールの毛はまだ白かったか?』
セラはうなずいた。純白だった。
『そうか。ならば、まだ本格的に魔物にはなっていないということか……』
『零落記』によると、神族が魔物になるには三つの原因があるという。
一つは神族への謀反、一つは悪しき快楽、一つは絶望。
シェザールは神族への謀反で魔物になった。しかし、これが原因でなったものは厳密に魔物になったといいがたい。魔物と呼ばれるだけで、本質にほとんど変化が見られず、属性が変化しない。神族の証ともいえる白い毛並みはそのままに魔物となる。シェザールはまだ魔物になりきってはいないのだ。
だが、シェザールはセラの香りに反応している。時間の問題だろう。
「もどすは」
『残念ながらむりだ。魔物になれば封印するか、殺すか。そのどちらかしかない』
白梟は上体を低くして、足に頭をのせた。ひどく疲れている様子だ。
鎧戸のしめられた部屋は暗く、頼りなく揺れるろうそくの光だけが頼りだった。夜も更けた。階下の食堂からはもう声がせず、あっても雨音にかき消される。静かだ。
セラは黙々と荷物を詰めなおし、白梟はじっと瞑目していた。眠っているわけではなく、何か瞑想しているようだった。
『――動いた』
閉じた鞄にベルトを巻いていたセラは、首をかしげた。白梟は金色の目を開いて虚空を凝視している。ここではないどこかを見るように。
近くで馬蹄が地面を打った。セラは鎧戸を開け放ったが、暗くて何も見えない。みるみる遠ざかる音だけがわかった。
『魔人かもしれぬな』
遠慮がちなノックがあった。白梟にうながされてドアを開けると、クリストが立っていた。すでに剣を腰に帯びている。首からかけた水晶の首飾りが動くたびに擦れ合って、音を立てていた。
「結界が?」
『作動したらしい。驚きのタイミングだ』
セラはブーツの靴ひもを締め、外套の前を合わせた。枕元においていた短剣をベルトに挟み、銀の護符を首からかける。
『手伝うのか?』
「いざとなれば。とりあえず、様子を見に行きます」
クリストはあとにつづこうとするセラを一瞥したが、反対はしなかった。深入りはしないように、とだけ注意する。セラもそのつもりだ。今日は雨。匂いが消える。
外に出ると、たちまち濡れねずみになった。髪が肌にまとわりついてわずらわしい。先行する梟の白い姿を頼りに道を右に曲がり、まっすぐ進み、左に折れ、また右に曲がる。舗装されていない道はぬかるんで走りにくかった。
「……たぞ! こ……じょ…ぶだ」
息が切れてきたころ、雨音に人の声が混じった。法術で作り出された白い灯りが狭い路地の先にあった。黒い法衣が曲がり角のきわに揺れている。
曲がり角まで来ると、セラたちは一度立ちどまって、様子をうかがった。白梟も木陰に隠れて偵察する。
「よし……これで、もう動けないぞ」
四辻で神官たちが十人、何かを取り囲んでいた。物見高い人々が遠巻きに様子をうかがっている。
神官たちのせいですべては見えないが、白い毛におおわれた足、それと翼が見えた。獣の姿で捕らえられたようだ。路地には白い羽根がちらばっており、水溜りがいくつか凍っていた。
『骨折り損だったな』
白梟が梢から降り、クリストの肩に止まった。神官たちは魔力をこめた鉄の鎖をとりだし、魔人を拘束しにかかっていた。
セラはもっとよく見ようと角から身をのりだし、前につんのめった。ぎょっとして足元を見ると、ブーツを踏み入れている水溜りが氷に変わっていた。
緊張に胸を上下させる。吐息が白い。水を含んだズボンが音を立てて凍っていく。染みこむように冷気が下から這いあがってくる。
『この前のお礼だよ』
くつくつと笑う声。
――魔人だ。




