1-20.
呪獣の群れが近くに住み着いてから、ゾグディグの森は平穏だった。
呪獣の群れがいるのは確かに物騒だが、呪獣に恐れをなして他の魔物が近寄ってこない。その点だけ見ればおおむね安泰といえた。
「お嬢さま、これも持っていった方がいいですわ。ああ、これも。それからこれも」
荷支度を整えたセラに、ハンカチやらボタンやらハサミやらが押し付けられた。それだけではなく、乳母は他にも鞄に物を詰めこんでいく。
「ああ、あれもあった方が……」
新たに追加するものを探しに乳母がでて行くと、その間にセラは追加されたものを荷物から取り出した。
心配してくれるのは嬉しいが、長旅になるのだから余計な物は持っていけない。
「セラ、できるだけ手紙を書くんだよ」
何をしていいのか分からず部屋の中を右往左往していたクイルが、はたと思いついてセラに詰め寄る。
「短くてもいいから書くんだよ。約束だ」
「了解」
娘の回答に安心すると、クイルは手紙用の紙を荷物にねじこんだ。ご丁寧に封蝋までつけて。
ひとまず満足してクイルが去っていくと、セラはやっぱりそれを取り除いた。
「セラ!」
やれやれと思っていると、勢いよくドアが開き、今度は伯母のソフィアが飛び込んできた。
「これを持っていきなさい!」
渡されたのは封書だった。
「何か困ったことがあったらこの人に頼るのよ」
「この人は」
「会えば分かるわ」
親切心に罠の匂い。この封書を持ってその人物のところへ訪ねていったら、待っているのはきっと王宮勤めか縁談だろう。
「あ、あとこれ。淋しいだろうから旅のお供に」
『美男子百選!』とかかれた分厚い版画集をソフィアは無理矢理荷物に詰めこむ。
セラは伯母がよそ見をしている隙にそれを荷から排除すると、ベッドの下に蹴りいれた。
「しかし、セラ。本気なの? ハンターになるなんて」
「本気」
呪獣たちの恨みを一身に買ったセラは、もはやこの町にいられない。
半壊した町の復興のことは気がかりだったが、呪獣たちを刺激したくはない。早く別の町に移らなくては。
「玉の輿狙った方が確実よー」
ソフィアは唇をとがらせるが、セラは聞いていなかった。
ソフィアは腰に手を当て、ため息をつく。
「まあ、昔からこうなる気がしてたわ。せいぜいがんばってきなさい。身体を大事にね」
優しくセラを抱きしめ、ソフィアはその頬にキスをした。
「ソフィア、マリーのことを」
「分かってる。任せておきなさい」
「頼んだ」
「安心して。ちゃんとマリーにふさわしい男性を探してあげるから」
「……やっぱり任せない」
セラは荷物を担ぎ、見慣れた部屋を一眺めした。
今度はいつもどって来られるだろう。出かける前から郷愁にかられた。
思いを断ち切って部屋をでると、今度は廊下にメルレルが立っていた。腕に色々抱えている。
「やあ、セラ=グレイス。間に合ってよかった。これを」
渡されたのは薬草の入った紙包みや小瓶、呪符、魔法道具だった。
奇妙なことに、見覚えのある物がいくつかあった。セラが呪符をまじまじと見つめていると、メルレルがいいにくそうに口を開いた。
「それはオルガ神官のものだよ。部屋を整理していたら出てきたんだが、あまりにいい出来だから捨てるのももったいなくてね」
「……受け取る」
受け取るのには若干抵抗があったが、セラは結局それを荷物にいれこんだ。
「ルイ君の具合はどうだい?」
セラが首をふると、メルレルは重いため息を吐いた。
「そうか……。でも、彼だけでも助かって幸いだったね」
「……」
ルイの右半身は麻痺した。果たして生き残ったことはルイにとって幸いだったのか、セラには判断が付かなかった。
「そろそろ出発する時間だろう? 見送らせてくれ」
メルレルと一緒に階段を降りながら、セラは家の中を見回した。
だが、探す姿はない。代わりに家の景色を目に焼き付けておいたが、やはり心残りだ。
「セラお嬢さま、荷物はこれで全部ですよね?」
御者が馬車に乗るようセラをせつく。それでもセラはぐずぐずしていたが、そのうちあきらめて馬車に乗りこんだ。
「――」
馬車の戸を開け、セラはそのまま動きを止める。
座席にそっと置かれた首飾り。
それは、マリーが大事にしているものだ。
「いってらっしゃい」
朝からずっと姿を見かけなかった妹が馬車の外に立って、セラに手をふっていた。
「行ってくる」
セラの心がようやく晴れた。首飾りを胸元に飾ると潔く馬車に乗りこみ、見送りに来てくれた人々に手をふった。
馬車がゆっくりと動き出す。
クイルもメルレルもマリーも乳母もソフィアも召使たちも遠ざかり、門も玄関も館も森も遠ざかっていく。
長年親しんだ魔の森、ゾグディグ。
あそこには今、新しい長を迎えた呪獣たちが住んでいる。
セラは右手首の火傷の痕に触れ、スーラを突き飛ばした左手を見つめた。
仕方なかったとは分かっている。スーラも自分と同様、後悔したくなかったのだ。自分と同じく、守りたかっただけ。ただ、それだけ。
しかし、それは一片でもスーラを憎む心を生むには十分だった。
セラは憂鬱な気分で遠ざかる森を見つめいたが、驚きに薄く唇を開いた。
木々の間に、以前よりも幾分か黒の濃くなった濃灰色の呪獣が立っていたのだ。
「――」
声を張り上げれば届いたかもしれない。
だが、セラは発しているのかいないのか分からないほど微かな声で、その名を呼んだ。精一杯愛しさをこめて。
きりりと心が軋む音がした。
第一部・了




