1-2.
好きになったきっかけ。
それは、ありきたりだが、助けてもらったからだった。
セラは生まれつき、魔物をひきつける体質だった。いい匂いがするのだという。ヒトには分からないが、夜に香るという晩香玉のように甘い香りが漂ってくるらしい。
魔物はふらふらとその匂いに引き寄せられ、やってくる。やってはくるが、魔物はその匂いをかぐと腰砕けになって、セラを襲うことができない。
だから、人々は安心して、セラを魔物の囮にすることができた。セラを囮にすれば、わざわざ森の中に分け入って、魔物を退治しなくてすむ。
八歳のときから、セラはずっと囮役をやっていた。森の入口近くの開けたところに、大きな石がある。厄介な魔物が住み着くと、セラは兵士とともにそこに一日中腰かけ、魔物が来るのを待っている。
呪獣の姿を見かけるようになったのは、去年からだった。ずっと座っているのも暇なので、散歩がてら歩き回っていた時に、見つけたのだ。それから、たびたび見かける。
呪獣が森にいることを、まだ誰も知らない。呪獣は群れで行動するというが、よほど森の奥で行動しているのだろう。
今のところ被害もないから、セラは黙っていた。呪獣は人が敵う相手ではない。言ったところで、いたずらに不安をかきたてるだけだ。
最初のうちは怖く思ったが、呪獣は一定の距離以上は近づいてこなかった。セラの香りを警戒しているのだろう。
その荒々しく力強い四肢と、濃い灰色の毛並みに手を伸ばせば触れられるほど近づいたのは、ただ一度きり。嗅覚がないためセラの香りが効かない人骨の魔物、スケルトンに襲われた時だけだった。
「セラ姉さま、ひょっとして、ごきげん?」
部屋でベッドに寝そべり、本を開いていると、妹のマリーがやってきた。
セラと同じ金髪碧眼だが、髪はウェーブがかかっている。年は十五。くりくりとした大きな目に、はれぼったい唇がかわいらしい。まだ幼さを残した円やかな肢体は、覆いかくされるようにベビーピンクのドレスに包まれている。
「何かいいことがあったの?」
マリーがベッドに腰かけると、ふわりと甘い香りがただよった。マリーも、セラと同じように芳しい香りを持つのだ。ただし、マリーはヒトにしかわからない香りだが。
「――呪獣?」
セラの開いている本の紙面を見て、マリーがいった。
「魔物の勉強中なの?」
のぞきこむように顔を見られ、セラはうなずいた。それ以上はしゃべらない。セラは無口なたちなのだ。
「『毛は黒く、毛先が赤い。血のように赤い目をしている。知能が高く、魔術を使う。魔力が並外れて高いため、もとは聖獣との説もある。群れをなして行動し、森の奥深くに住むことが多い。理由なく人を襲うことはない。知能があるので、襲われた時は話し合うとよい』。
……昔、呪獣が仲間を傷つけられて国を一つ滅ぼしたって聞いたわ。本当に話し合いなんてできるのかしら?」
マリーのほっそりとした指が文字を追う。
セラはというと、文に添えられた絵に魅入っていた。
白黒のため、絵の呪獣の毛並みは真っ黒だ。文にも黒いと書かれているが、セラを助けてくれた呪獣の毛は黒ではなく、濃灰色。あの呪獣の親兄弟もそうなのだろうか。
毛は、どんな感じなのだろう。やわらかいのだろうか、硬いのだろうか。話せるのだとしたら、どんな声だろう。何を食べるのだろう。何が好きなのだろう。嫌いな物はなんなのだろう。
頭の中を、つらつらと取りとめのない考えが流れていく。
「お姉さま?」
マリーの声に、絵をぼうっと見つめていたセラは我に返った。
「どうしたの? 最近、なんか変。落ち込んでるかと思えば、すごく機嫌がよさそうに見える日があるし」
セラは首をふる。なんでもない。
「嘘。お姉さまは表情が乏しいけど、長年付き合っていれば、そのくらい分かるわ」
さすが肉親。よく見抜いている。セラは無表情で感心した。
「今、すごいと思ったんでしょう」
的中皆中だ。自分でも自覚していない顔面の動きを、この妹は察知しているのだろうか。
まずい。このままいくと、問いつめられてしまう。ここは話の矛先を変えねば。何かいい話題はないだろうか。
セラは頭を回転させた。今日、何かいいことはあっただろうか。いいや、ない。他から話題を見つけなければ。
しかし、自分のことで話題になりそうなことはない。
とすると、あとは。
「……マリー、何か用」
矛先を妹に向けてみると、果たしてマリーは言い出しにくそうな顔をした。予感的中だ。万歳。
マリーは両手をこねくり回しながら、ぽつりと言う。
「お姉さま、従兄のルイお兄さまと結婚するって本当?」
「……少なくとも、私は知らない。誰が」
「お父さまが言っていたの。お姉さまはそろそろ結婚してもいいお年だから、婚約だけでもって」
たしかに、そういう話が身辺に湧いてもおかしくないとセラは考えてはいた。しかし、まさか本気で実行する気だとは。
「……おうち、あまりうまくいっていないのでしょう?」
マリーは口にするのをはばかって、小声で言った。
そう、うまくいっていない。赤字だ。
「ルイお兄さまのお家はご商売をなさっていて、お金持ちなんでしょう? だから、姉さまは……」
「マリー、心配ない。なんとかする」
「なんとかって?」
「信じる」
セラは無表情で言い切った。
「ルイお兄さまと結婚しない?」
「しない」
根拠も対処案もないが、セラは断言した。
マリーは大きな目でじっと姉の顔を見て、それからこっくりうなずく。セラのポーカーフェイスは、時として自信に満ちあふれて見えるからふしぎである。
「よかった。実をいえば、私、ルイお兄さまのことはあんまり……」
ルイは遊び好きの放蕩息子として巷でも有名だ。言動には、セラも時々眉をひそめる。もちろん、見た目にはまったく分からないひそめぐあいだが。
「それからね」
マリーは打って変わって、明るい顔になる。
「ソフィア伯母さまがお茶会を開くから、こないかって誘われたの。お姉さまも行かない?」
「行かない」
即答だった。マリーは少し意気消沈したが、あきらめない。
「伯母さまは、お姉さまもぜひって誘ってくださったの。だから、一緒に行きましょう、姉さま」
「マリー、一人で行く」
そっけなく言うと、マリーはしょぼんとした。姉にべったりのマリーは、何をするにもどこへ行くにもセラが一緒でないと気後れするのだった。
「人と話す、苦手」
はっきりと拒絶の意を表すと、マリーはしぶしぶそれ以上の言葉をひっこめた。細い肩をちぢめ、小さな頭をうなだらせるさまは、捨てられた子犬に似ている。セラは良心が痛んだが、気づかないフリをした。
「ねえ、お姉さま。お茶会には何を着ていけばいいと思う?」
「服」
「……そういうことじゃなくって」
正論だがずれている答えに、マリーはがっくり肩を落とす。
「セラ様! セラお嬢さま!」
唐突に、乳母が恰幅のよい身体をゆらして部屋にかけこんできた。
「何かあった」
「小鬼ですよ。小鬼が町でうろちょろと暴れまわっていて! なかなか捕まえらないんです。セラお嬢さまに来て欲しいって」
セラは本を閉じ、ベッドから身を起こした。
ふだん激情とは無縁な瞳に、静かな闘志がひらめいた。




