1-14.
父親の机の上には、ハンター試験の案内状が一枚。
それは、本来ならばセラの引き出しにしまってあるはずのものだった。
クイルの机を前にして、セラは固唾を呑んだ。案内状は引き出しの奥深くに入れておいた。きちんと探さなければ見つからないように隠したはずだ。この紙を探すという確たる意思をもって探さなければ気づかないように。
だというのに、紙はここにある。セラは最近犯した失態を思い出して冷や汗をかいた。メルレル神官からもらった試験内容の紙。どこかに落としてしまった。あれから知られてしまったか。
「セラ、これはいったいどういうことだい」
クイルの態度には憤りよりも狼狽の色合いが濃かった。品性方向でなんの問題もなかった娘がハンターになりたいなどといい出している。それがにわかには信じ難いようだった。
「冗談だろう、セラ。そうなんだろう?」
そうだといってくれ、という嘆願に近い問いかけ。
セラは考える。そうだと答えて、この件については誤解だとシラを切るか。それともこのまま徹底抗戦を試みるべきか。
「お姉さま……」
部屋の隅で不安げに立っているのはマリーだ。マリーも冗談でしょう、と捨てられた子犬のような目で哀願している。
さてはて、困ったぞ。セラはどう回答したものかと考えあぐねた。
「セラ、魔物の退治ならこの家にいたってできるだろう? ハンター試験なんか受ける必要はないじゃないか」
「では、この家に残るなら、ハンター試験を受けても」
抗論すると、クイルはのけぞった。
「なんだって? 受けるつもりなのか!? ダメだダメだダメだ! 絶対にダメだ! 皆反対する。少なくとも父さんは反対する。一人になっても……たぶん反対する」
「……」
こんな時でも強硬な態度がとれないのがクイルだった。
「受けるだけ。なぜいけない」
「いけないに決まっているだろう。そんな危ないこと」
「本職にするつもりはない。副業。今までどおり。ハンターの資格があれば褒賞がもらえる場合も」
「褒賞なんかどうでもいい。とにかくハンターはやめてくれ」
「なぜ」
「資格なんか取ったら、おまえはこれ幸いともっと狩りに参加するようになるだろう? 今は基本的に囮しかやっていないが、ハンターになんてなったら、おまえは狩りのリーダーになりかねない」
「ちゃんと囮でいる」
「父さんはおまえが囮をやることだって反対なんだ。やめてくれ」
クイルは今にも泣き出しそうだった。これではどっちが頭を下げる側なのか分からない。
「しかし、褒賞が」
「お金なんてどうでもいいんだ。おまえまで死んでしまったら、父さんにはマリーしかいなくなるじゃないか……」
もう死ぬとまで決めつけられているセラだった。話が飛躍しすぎだ。
「おまえが魔物に殺されてしまったら、首を吊って天国の母さんに謝るしかないよ……」
クイルは背を丸め、濡れネズミのようにしょんぼりとした。顔は血の気がなくなり、うなだれたさまはしおれた花のよう。部屋の隅でひざを抱える前兆だった。これでは話し合いもできそうにない。
仕方がないので慰めようとすると、クイルの代わりに書記官が進み出た。
肩書きは書記だが、この家では領主の補佐役も務めている。この書記官がいなければ、この家はとっくに潰れているといっても過言ではない。
「お嬢さま、どうかお考え直しください。ハンターになる試験は難しいと聞きます。王立騎士団の入団試験ほどだと」
「私には無理だと」
「お嬢さまが賢いことはよく存じ上げております。しかし、恐れながら、それはこの地でのことです」
「失敗は覚悟の上」
「受かれば一年の研修が待っているのでしょう? 一年研修をした後、お嬢さまはここにもどって来て下さいますか?」
「もどってくる。必ず」
セラは強く主張したが、書記官の厳しい面持ちは変わらなかった。
「人の心はうつろいやすいもの。分かりません」
「なぜ信じない」
「先ほどからお嬢さまが試験を受けるといってきかないからです」
書記官は断言した。
「お嬢さまは褒賞がもらえるようになるから受けたいとおっしゃいますが、もしもこの家にお金の心配がなかったら、お嬢さまは受けませんか?」
「……」
「お嬢さまが受けたいのは、褒賞のためだけではないでしょう。研修のためにこの地を旅立ったが最後、お嬢さまはこの地に帰って来たくなくなりますよ」
セラは書記官の言葉に反論できなかった。実に本心を突いていたからだ。
部屋の空気が停滞した。静けさが澱となって沈殿する。誰も動けず、誰も話し出せない。
クイルも、マリーも、書記官も、セラも、この危うい均衡をどう扱えばいいのか分からないでいた。こんなことは、この家で初めてだった。
「……少し時間を」
静寂で息が詰まりそうになる頃、セラが均衡をくずした。
「考える」
「考える、というのは……?」
あの聞き分けのいい娘がすぐに承諾をしないとは。クイルは初めて見るような目でセラを凝視した。
「お姉さま……」
マリーは震える声でセラを呼び止めた。いつも自分に甘い姉が、自分に対して一瞥もくれずに部屋を出て行こうとしている。マリーには信じがたいことだったのだ。
「お姉さま」
マリーはもう一度呼びかけたが、一言の返事もなかった。
それが、セラの意思の固さを示していた。
* * * * *
森に築かれた防壁に背を預け、セラは空を仰いだ。
采は投げられた。自分が折れるか、周りが折れるか。どちらに転がるかは予測がつかない。自分の心すらまだ定まっていないのだから。
ただ分かっているのは、自分が圧倒的に不利だということだ。クイルもマリーも召使も乳母も、そしておそらく伯母のソフィアも反対するだろう。
それに比べて、セラの背中を押してくれるのはメルレルとスーラぐらいだった。後はセラ自身。
セラは太陽にむかって手を伸ばす。宙に伸ばされた手。自分で考えて動かなければ、何一つ掴めないで終わってしまうだろう。空を掴むだけで終わってしまう。
「セラさん?」
木立の合間からスーラがひょっこり姿を現した。見た限りいつもと変わらない様子のセラに、ほっと肩の力を抜く。
「よくわかった」
「セラさんが風上にいてくれたから」
スーラの後ろ髪が風になびいた。匂いをたどって来たらしい。
「隣、いい?」
「いい」
「じゃ、お邪魔します」
隣に腰を下ろすと、スーラはズボンのポケットから何やら取り出した。紐だ。銀と黒の糸で組まれた紐。目がきっちりと揃っていてうつくしい。売り物にしたいくらいだ。
「前にいってたやつ。できたから」
スーラはやや気恥ずかしそうに、セラのしなやかな手にそれを載せた。契約の証代わりだ。どうやればいいのか結局分からずじまいだったが、要はお互いの気持ちの問題だということで、こういう形に収まったのだ。
「スーラのは」
「ああ、これ」
スーラのものは金と赤の糸で作られていた。セラのものとスーラのもの、互いに互いの髪を編みこんである。
「スーラの紐、長い」
「セラさんと同じで手首に巻こうかと思ったんだけど、それだと獣にもどった時に取れるから、首にかけることにしたんだ。――どうかした?」
セラは紐を見つめて停止していていた。
迷っていた。これを受け取ろうかどうしようか。自分が本当にハンターになるのか、なれるのか、その自信がない。
「そんなに悩まないで。取りあえず受け取ってもらえる?」
「そういうわけには」
「ハンターになる、ならないに関わらず、俺はセラさんの使役獣に下るつもり。だから受け取って」
「……」
セラはしばし紐を黙視し、それから紐を手首に結びはじめた。しかし、片手で結ぶのが難しい。難渋していると、スーラが頬を緩めながら申し出た。
「やろうか?」
「お願いする」
「ん。じゃ、ちょっと貸して」
セラは結びやすいように袖を少しまくった。
むきだしにされた手首に手際よく紐が結ばれたが、紐がだいぶ余った。ゆるめに結んでも余って、見栄えが悪い。
「俺の手首を参考にして長さを決めたんだけど、ライラを参考にするべきだったね。細いなあ」
スーラはセラの手首をまじまじと観察した。
むきだしにされた手首は静脈が透けていた。白く華奢な造り。着ている服が黒いせいで白さが際立っていた。
「……」
あんまり熟視してくるので、セラはだんだん恥ずかしくなってきた。さりげなく手を引っこめてみると、スーラはやっと見るのをやめてくれた。
「セラさんは、どうしてハンターになりたいの?」
「どうして、といわれても」
理由は漠然としている。外を見たいという好奇心もあるし、ありきたりな正義感もあるし、現状に対する反抗心もあった。どれが主要な理由か判然としていない。
「魔物が憎いわけではない?」
「いいや、憎い。そしてそれ以上に、怖い」
「それなのに、ハンターに?」
矛盾していないかと思うが、セラははっきりとうなずく。
「恐怖に負けたくはない」
「勇敢だね」
「時に愚か」
勇敢も行き過ぎれば無謀と同義だ。
セラは地面に横たえた手を少し横に動かした。指数本分ほど先に、開きかけのレンゲソウがある。その花をセラは指先でもてあそぶ。
「――昔」
「うん」
「十になった頃に、この辺りで魔物に襲われて」
「襲われて?」
「私ではなく、一緒にいた母と弟が死んだ」
人差し指と中指でレンゲソウの茎を挟み、プツリと花を摘み取る。
「怖くて反撃することができず、私はその魔物のなすがままだった」
セラは紫色の花を掌中で転がした。恐怖に身がすくみ、少しも抗うことができなかった。大事な家族は目の前で蹂躙され、その光景は鮮明に脳裏に焼きついている。
「憎悪で魔物と戦っているというよりは、その時の後悔で戦っている気がする」
「そう……ちょっと分かる気がする。俺も似たようなことがあったんだけど、犯人を憎むより、むしろそれを防げなかった自分が悔しかったから」
「スーラは何が」
「俺の場合は、育ての親。あんまり褒められた仕事やってなくてね、人の恨みを買って死んじゃった」
「どんな人」
「酷い人だった。頼まれれば誰でも殺す殺し屋だった。貴族でも神官でも殺した。赤ん坊でもね」
言葉では非難しているが、スーラの口調には親愛の情が溢れていた。スーラにとっては大事な育て親だったのだろう。
「なんで赤ん坊まで殺すのかって聞いたら、『俺は人の命を区別しない』っていってたよ。そういう人だった。ある意味すごく公平な人」
「その人は、スーラが魔物だとは」
「確信はしていなかったみたいだけど、うすうす感づいてはいてみたい」
知っていながら育てていたのだから、なるほど、ある意味公平な人物だ。
「セラさんと少し似てるかな。男の人だったから外見は似てないけど、性格とか雰囲気が似てる」
「ほう」
それは光栄だ。
「ごめん、ちょっともどってもいい?」
急な台詞に理解が遅れたが、元にもどっていいかという質問だと気がついた。
セラは周りを見渡してみたが、人は見当たらない。大丈夫だろう。
「セラさんの傍にいると術を維持しているのが辛くて。香りのせいかな」
「でも、スーラ、そんなに効いているふうではない」
「ふつうの魔物よりは効きが悪いけど効いてるよ。嗅覚も鈍るし」
「それはすまない」
つくづく自分は魔物の天敵だ。スーラにとってこの身体は害にしかならない。
セラは欲望に負けて伸ばしかけた手を寸前で止めた。
「いいよ、触っても」
スーラの好意は天使の誘惑か悪魔の誘惑か。どっちでもいい。その誘惑に惑わされたい。嵌まりたい。溺れたい。セラは煩悶しつつ、そっと触ってみた。
「……」
ふさふさ。
「気になるなら、気の済むまでいいよ」
甘い言葉にセラは身をゆだねた。
ああ……甘美な感触。クセになりそうだ。
「もうちょっとやっても」
「どうぞどうぞ」
興奮に息をほんのわずか弾ませ、セラは一番やりたかったことを実行した。
「セッ……――!」
思いっきり抱きつかれスーラは焦ったが、身体をがっちり拘束されていて逃げられない。
頭の後ろに、ほのかに温かく柔らかい頬の感触があった。
「満足……」
「そ、そう」
積年の思いを遂げて、セラはこの上なく満足だった。幸福の絶頂。一時だけすべてを忘れた。
「クイルさんが明日あさってにでも、リーベラス家と会うっていってたよ」
「……」
ルイの家と者と会う。
このタイミングならば話題は間違いなく結婚のことだろう。敵はさっそく外堀を埋めてくる気だ。早く決断をしなければ。
セラは現在のことに頭を働かせながらも、毛皮により深く顔を埋めた。




