1-12.
どんなことも努力すれば改善される。その後も何度か意思の疎通に齟齬はあったが、会話を重ねるうちに良くなっていった。
会話をする中で、セラはライラがスーラの妹だということを知り、そっと安堵の息をもらした。悶々と悩んでいた時のことが嘘のように思えた。
「それにしても、よく来た」
「うん。俺もびっくりした」
「会いに」
「それは絶対無いと思う」
肉親を肉親とも思っていないから、とスーラは力いっぱい否定した。
「何を企んでいるか分からないやつなんだ。気をつけて」
「そういうふうには見えない」
「そういうふうに見えなくてもそういうやつなんだ。何かあったらすぐに言っ――」
セラの後ろにライラの姿を認めて、スーラは口を凍らせた。
何を話しているかは分かっていないだろう。分かっていないはずだ。
だが、ライラは空恐ろしい微笑を浮かべていた。
「ま、また明日ね」
スーラはすぐに話を打ち切った。ライラがセラの耳元に唇を寄せていたのだ。脅されている。
「……」
部屋へと帰る、スーラとライラの二人並んだ後姿。そう仲の悪いようには見えないが。
「今日は何を話していらっしゃったの?」
やってきたマリーが、小首をかしげて質問した。近頃、姉が急速にスーラと親睦を深めているのがふしぎでならないのだ。
「今日は偶数次魔方陣の話題ではじまり、六次完全魔方陣が存在し得ない証明で終わった」
知らない単語ばかりなのでマリーは目を白黒させた。セラとスーラの話題は色気もへったくれもない。大半が数学の話題であり、日に日にそれは高度さを増している。さらに色気がなくなりつつあった。
「スーラさん、数学教えるのお上手?」
「上手」
欲目なしでうまい。少々嫉妬してしまうほどだ。
「マリー、茶会、どうだった。ソフィア叔母さま元気」
「お元気だったわ。お姉さまもいらっしゃればよかったのに」
小さな唇をとがらせ、マリーは何枚もの紙を取りだした。ソフィアからの預かり物だ。
「お見合いにどう、だそうですわ。家柄も財力も申し分なしだって」
渡された紙は肖像画だった。セラはつまらなさそうに、十枚ほどある肖像画を適当にめくる。肖像画といっても木炭で描いただけで、彩色まではされていない。
カエル、ウマ、ニワトリ、ネズミ、ライオン……肖像を見て抱いた感想は、そんなものだった。セラは眼中にない。すべて見終わると、義理は果たしたといわんばかりにそれを机の端に追いやる。
そして、お茶会から帰ってきたばかりの妹の姿を熟視した。
ドレスや装飾品の選定はすべてセラがやった。
選んだのは淡いオレンジのドレス。裾にむかってオレンジ色が徐々にうすくなっており、生地は軽くて柔らかい。髪は細いリボンをたくさん使ってボリュームを出し、白い小花をあしらってある。
うん、かわいい。
目が洗われるようだ、とセラはかなり酷いことを考えた。
「あと、王宮で奉公しないのかっていっていらしたわ」
「またそんなことを」
叔母のソフィアは、セラは女王のよい話し相手になる、頭が良いからぜったい気に入られるといってきかないのだ。断っても断っても、しつこくセラを口説き落とそうとする。
セラは嘆息した。
誰も彼も自分に夢を見過ぎだ。そんなに自分はすごくない。周りと自分の認識には溝がある。しかし、周囲の人々はそんなことは知らないから、過剰な期待を寄せてくる。
迷惑だ、夢を見ないでくれと突っぱねてしまえばいいのだが、セラはそれができなかった。それに対して応えなければと思ってしまうのだ。
セラは周りが望む自分を作りつづけてきた。
例えば、マリーの信頼と希望に応えるために頼りになる姉を。
例えば、クイルの望むように賢く聞き分けのよい娘を。
例えば、町民が望むように恐れず魔物と戦える自分を。
周りが望めば、セラは自分の恐怖や不快を押さえつける。限界のラインを広げ、周りの期待に応えようとする。
メルレル神官にこぼしたように、セラは魔物が恐ろしい。けれども、恐怖を隠す。
ライラにこぼしたように、セラは完璧ではない。けれども、完璧に見えるよう虚勢を張る。
これはもはや、長い間つづけすぎて習性と化していた。セラは自己を殺すことに慣れてしまい、今さら自分はそんなにすごくない、期待はやめてくれといえなくなってしまった。
(――だから)
森を疾走するスーラの姿が脳裏をかすめた。奔放でのびのびとしたその姿。気ままにどこまでも走っていけそうな。
たぶん、自分はあの姿に憧れたのだろう。こんな状態だから、ああいうふうに気ままに走ってみたいと焦がれたのだ。
翌日、セラは特に行く当てもなく遠駆けをした。気晴らしだ。供をつけず一人で見知らぬ場所をうろつくのが、セラの一つの楽しみなのだ。愛馬に乗って早駆けするとなると、一番好きなパターンである。
召使たちにはお供をお付けになってくださいと眉をつりあげられるが、その日はスーラと一緒だったので、風当たりが弱まった。
セラとスーラは森に出かけ、セラは馬で、スーラは元の姿で森を散策した。
「あー……生き返る。ずっと人間の姿でいるのも、けっこう疲れるんだよね」
倒木の近くでいったん休憩にすると、スーラは全身を使って伸びをして、倒木の近くに腰を落ち着けた。セラも馬を下り、倒木に座る。
「よければ走ってきても」
「ううん、歩くだけで結構気晴らしになったから」
スーラは前足に頭をのせ、目を細めた。暖かな陽の光に身をゆだねるように。
ああ……これは理性と本能の第一次脳内大戦が勃発するな、とセラは嬉しい悲鳴をあげた。
鷲づかみしたくなるようなふさふさのしっぽ。
思う存分いじくりたくなる獣耳。
思わず手の平にのせたくなるような小さな足。
クッションに抱きつくように、その大きな体躯に抱きつきたい、抱きしめたい、抱いてしまいたい――セラは近くの木の幹に額を打ちつけた。
「どうしたの!?」
「いや。虫が」
「虫!?」
「取り逃がした」
それより額で虫を潰すのはいかがなものかとスーラは思ったが、奇矯さに驚いて、その質問が外に出ることはなかった。
額を犠牲にして少し冷静さを取りもどしたセラは、またスーラの獣姿をじっくりながめた。そして、つっと目を逸らした。
ああ、神よ。あなたはこの世で最大の禁忌を犯した。
スーラを創造するとは何事か。正気の沙汰とは思えない。正気でこんなものが作れるものか。いや、できない。できようはずがない。
くそう、心臓が動物の胃腸を限界までふくらませたような状態になりつつあるではないか。私を殺す気か。
「……」
スーラは自分から正面をそらしてしまったセラに、悲しそうにした。自分の鋭い爪をため息とともに見下ろし、しっぽを力なく地面に垂れる。
「――っ!」
クリーンヒット。
視界の端でそれを捉えたセラは悶絶し、悶死しそうになった。あと一撃くらったら確実に心臓が破裂する。
「ごめん、無理言って。人に見られるかもしれないっていうのに」
「いや、そんなことは。……でも、できれば早めに人間に」
理性の限界と生命の限界が近い。もう必死のお願いである。
しかし、スーラはそんなセラの心中を察することはなかった。
不幸なことに、スーラは自分にむけられる好意には鈍かった。鋭い観察眼もそのことに関してはスリガラスを隔てるがごとく。スーラは己の姿に苦悩しつつ、わかったと返事をした。
「スーラは、群れに帰らなくても」
「ああ、べつに。俺は群れを離れたから」
「離れた」
呪獣の毛はふつう真っ黒だが、スーラの毛は濃い灰色だ。ひょっとして、そのせいで群れの者たちからのけ者にされてきたのだろうか。
「いいや、そんなことはなかったよ。確かに、生まれた時は真っ白で気味悪がられたみたいだけど」
「ほう」
真っ白な子供時代のスーラを思い浮かべて、セラは胸をときめかせた。
「毛が白かったから、俺は生まれて間もないうちに一度ゾグディグの森に捨てられたりもした。でも、運良く人間に拾われて、十三歳ぐらいまでその人に育てられたんだ」
セラはなるほど、とうなずいた。スーラがあんなに器用なのは、人間に育てられたせいなのか。
「魔物とばれることもなくうまく暮らしていたんだけど、ある日、群れの長が俺のことをどこかで知ったらしくてね。俺を群れに連れもどしてくれたんだ」
「群れの長……」
「群れの中で一番強い者がなる。世襲制じゃなくて実力主義でね。……長はなぜか俺を跡継ぎにしようとしていたんだよ。でも、俺は長にはなりたくなかったから、長と言い争うことになって、結局群れを飛び出した」
「どうして」
「人間に育てられたせいか、俺は人間にも仲間意識を持っているみたいなんだ。だから、もし人間と争うことになったら群れの人たちと絶対反目する。長なんて務まらない」
群れと離れなきゃいけなくなったのは淋しいけど、とスーラは表情をかげらせる。
「近頃、長はめっきり身体が弱ってきたみたいだから、早く跡継ぎが決まって皆が安心できるといいんだけど」
スーラは心底そう願っているようだった。群れを飛び出してきたが、長を納得させたわけではない。自分が長にされる可能性がまだあるのだ。
「そういうわけで、今は逃げ回っているって感じかな」
「自由気ままというわけでもない」
「そうだね。魔物ってことがばれないようにしないといけないし」
「もっと自由奔放としているかと思った」
「そう?」
「そう。でも、ただそう見えたというだけの話。私の主観」
「ふうん。まあ、俺も最初はセラさんにもっと違うイメージを持っていたから、おあいこかな」
どんなイメージを持っていたのか聞きたかったが、ろくでもない感想なような気がしたので、セラはその問いを心の奥にしまいこんだ。大量殺戮者とか、冷血魔女とかそんなところだろう。
しかし、セラの意に反してスーラは自分の主観を述べだした。
「もっと硬い感じの人かと思ってた。近寄っても追い払われそうな」
聞くのが怖いが、怖いもの見たさでセラは話を止められない。
「でも、話してみるとそうでもないから安心した。感情がその、乏しい感じがしたけど、実際は色々思っているみたいだし」
そう評されて、セラはぎくりとした。
まさか、私の妄想はスーラに筒抜けだったのだろうか。毛皮触りたいとか、頬擦りしたいとか、しっぽにリボンを結んでみたいとか。
「今、ひょっとして動揺してる?」
言い当てられて、セラはさらに焦った。どうして分かるのだ。
「あ。やっぱり。驚いてるんだね」
スーラは満足げに笑んだ。この鉄面皮を看破するとは並みの洞察力ではないな、とセラは感嘆した。
いや、それとも。
「……」
「心は読んでないし、オーラも見てないよ。そもそも、セラさんガードが固いからぜんぜんわからない」
嘘だ。だったらどうしてこうも私の考えていたことがピンポイントで分かるのだ。
無表情を十八番とするはずのセラも、この時ばかりは爪の先二つ分ほど眉根を寄せた。
「表情と雰囲気。あとはセラさんの思考を想像しているだけ」
すばらしい想像力だ。セラは無言で褒め称えた。
「話しにくいと思ったりは」
セラは何を考えているか分からない、とよくいわれる。無口なので会話が弾むことはない。たいていの人々はセラと話すのを苦手とする。
「思わないよ。セラさんは黙っている時の方がたくさんしゃべっている気がするから」
そういう感想ははじめてだったので、セラは意表を突かれた。
「むしろ、話し出すと惑わされるというか……」
「……」
セラは詭弁を弄して相手を惑わすようなことはしていない。破滅的なまでに会話のテンポと焦点が合っていないので訳が分からないだけだ。
自分でもそれが分かっているセラは、咳払いを一つして、話題を変えた。
「話題、少しもどる。ライラの毛の色は」
「黒だよ。白かったのは俺だけ。何でか知らないけど」
「どうして黒く」
返答はすぐにはなかった。半拍子ほど遅れて「年を取るごとに黒くなってきた」と回答があったが、スーラは言葉を濁しているようだった。セラが怪訝そうにすると、今度はスーラが強引に話題を変えた。
「話が変わるんだけど、セラさんはハンターになる気はないの?」
不審な回答につづいて唐突な質問だったので、セラは当惑した。
「あ――ごめん、バカな質問だったね。セラさんは領主の娘だし、そんな危ないことは周りが許してくれないか」
スーラがさっさと話題をたたもうとするので、セラはあわてて首を縦にふった。
「なれるものなら、なりたい」
少しためらってその言葉を舌にのせると、ふしぎと胸が軽くなった。長年のつっかえが取れたような気がした。自分でも、どうしてこんなに簡単にいえてしまったのかふしぎだった。何年も底にしまってきた考えなのに。
「そうなんだ……」
垂れ下がっていたスーラのしっぽが、指一本分ほど空をむいた。
「でも、家のこととかは?」
「……」
セラがただ沈黙を返すので、スーラの尾はまた地面につきかけたが、完全に垂れてはしまわなかった。
「取るだけ取って……家に残る。ここで魔物退治つづける。それに、取得できるかどうかもわからない」
「じゃあ、本当になる気なんだ」
なぜかスーラが喜ぶので、セラはうっかり首肯した。さらには「試験を今度、受験しようかと」などと調子に乗って口を滑らせたので、スーラは一段と声を弾ませた。
ああ、もう後に引けない。セラは遠い目をした。
「なぜそんなこと」
「ん――いや、さ。ハンターの中には、魔物を使役している人もいるでしょ? あれ、聞いたことない?」
少なくともセラは知らなかった。スーラの話によると、オヌではいるらしい。
「それでさ、セラさんもそういうことをする気はないかな、と思って」
スーラは真剣そのものの赤い目にセラの姿を映した。指先すら微動だにさせないセラを。
なんだと。つまり。それは。もしや。
「俺を、セラさんの使役獣にしてくれないかな。魔術の腕は今一つだけど、これでも並みの魔物よりは強いつもりだし」
「……」
「こんな姿だから怖いかもしれないけど、絶対に君のことは傷つけない。誓って」
セラは返す言葉がなかった。
これだけ真摯な瞳で訴えかけられて、断れるはずがない。
心臓が破裂しそうでセラは返事ができなかったが、スーラはちゃんとセラの答えを聞き取った。雄弁な沈黙が語る答えに、声を弾ませる。
「よろしく、セラ」
スーラの声は、今までで一番親しげだった。




