1-10.
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
宛がわれた部屋にもどったスーラは、深く深くため息をついた。
「それは兄さんがおバカさんだからよ」
「……」
「あら? なんでこんなことになっているのか、考えていたんじゃなかったの?」
ライラはセラたちには欠片も見せたことがない、意地悪い笑みを浮かべる。
「騙す方より、騙される方が悪いのよ。知らなかった?」
「そんな無礼な常識は持ってないよ」
「甘ったれた常識ねぇ。そんなことだから、妹にまで手玉に取られるのよ」
コロコロと心底愉快そうに、ライラは笑う。スーラは耳をふさぎたかった。
ライラ=ヘリエル。名前の方は本名だが、姓は適当につけたものだ。髪は亜麻色、目は灰色、顔立ちもスーラと似ても似つかないが、正真正銘スーラの実の妹である。
「兄さんは変化がヘタすぎなのよ。毛の色も目の色も変えられないくせに、よくもまあ、人前に出ようという気になったものねえ」
小バカにしたように肩をすくめる。
再会して数日の間こそ身体が弱っていてしおらしかったが、いまや絶好調だ。人目がなければ、憎たらしい妹は本性丸出しである。本気で心配した自分がアホらしくなってきたスーラだった。
「ふふ、私がここの言葉を話せないから安心していたのに、残念だったわね」
「……何が残念だ。両親の設定を細工師と白魔女にしたのは、お前だろう」
スーラはぎりぎりと奥歯を噛みしめる。
してやられた。まさかセラが古代語を話してくるとは。自分が会話を仲立ちすることで妹の口をふさごうと思っていたのに、これでは台無しだ。近頃、この妹がいつ何をセラに告げ口するか不安で仕方ない。
「精神鍛錬でも積んでいるみたいに、オーラが全然読めないんだもの。魔術師かと思って賭けてみたんだけど、正解だったわ」
しかし、セラのオーラは元々読みにくい。その考えは外れたわけだが、結果だけ見れば正解だった。
「あの人、頭の回転がいいのね。森で迷ってここまできた――なんて安易な理由を信じるから、おバカさんかと思っていたのだけれど」
「やめなさい。助けてくれた人に対してそんな物言いは」
「あら、感謝はしているわよ。でも、それとこれとは別。おバカさんじゃなくて、警戒心が少し足りないのね。まったく、こんなか弱い人間の身体であのゾグディグの森を超えられるわけがないじゃない」
人間たちに魔の森と呼ばれるゾグディグの森。しかし、それは魔物にとっても同じだ。方向感覚が狂う。他の魔物と出くわす。広くて出口にたどり着けない。
「何より厄介なのは、森自体よ……。引き寄せられる」
ゾグディグの森には妖しい魅力がある。魔物を引き寄せ、惑わせる魅力が。強ければ強いほど、余計に森の奥に引きこまれる。
「魔の森どころか、人間にとっては聖なる森じゃないの? 本当に危なかったわ。森から抜けられず、死ぬかと思ったもの」
「そんなに引き寄せられたのか?」
「兄さんは鈍感ね。まあ、あの人の香りに惑わされてないみたいから、当然かもしれないけれど」
ライラの言うとおり、スーラはセラの香りがそれほど気にならない。
「あの人自体がゾグディグの森そのものだわ。あの気弱そうな男、いったい何と結婚したのかしら」
あの気弱そうな男、というのはセラたちの父、クイルのことだ。不躾な呼び方に、スーラは眉をひそめた。
「ライラ、そんな呼び方は――」
「わかってるわよ。いちいちうるさいんだから。はいはい、それで、兄さん? お次は、どんなふうにしないと私をここに置いてくれないのかしら?」
斜め下からライラはスーラを見上げた。完璧になめきった態度である。
「どうして赤の他人にしたの? 正直に妹って言っておいた方が、色々楽なんじゃないの?」
「それは絶対にだめだ。俺の正体がばれたら、お前の正体までばれる。お前の身まで危なくなるだろう?」
譲らない口調だった。めずらしく一本気な兄の主張に、ライラは少しなめきった表情を緩める。
が、それは一瞬のことで。
「そういうってことは、自分でもこのヘタクソな変化じゃばれるかもって思っているのね」
「……」
いつもの小バカにした態度に早もどりする。
「だいたい、人間ごときに呪獣が傷つけられると思ってるの? ばかばかしい。逆はありえても、それは絶対に無いわ」
「セラさんが相手だったらわからないだろう?」
「そうね。……危険な人だわ」
ライラはすっと目を細めた。途端に、スーラは眉間を険しくする。
「やめてよ。何もしやしないわ。現に、今だって兄さんの言う通りにして大人しくているでしょ?」
「今は、だろう」
いつ何をしでかすか分かったものではない。片時たりともそばを離れられない。この妹は、自分よりはるかに魔物らしい魔物なのだから。
追い返したいが、群れはオヌにいる。帰ろうと思ったら、またゾグディグの森を越えていかなければならないのだ。このまま追い出すのは気が引けた。
「なぜここに来た? 群れはまだオヌにいるんだろう?」
「そうねー。家出ってことにしておこうかしら? あの人はどうもそう思っているみたいだし?」
「思いこませた、のまちがいだろう。あのわざとらしい動揺の仕方はなんだ」
スーラは膝を指で叩く。
「それで? 本当はどうしてこんなところに来たんだ」
なめられてたまるか、と真正面から見据える。すると、ライラは悲しそうに目をうるませた。
「ひどいわ、兄さんったら。群れから離れた兄さんのことを心配してきたのに」
「お前がそんな殊勝な性格でないことはよく分かっているよ」
兄を兄とも思わぬ所業の数々が走馬灯のように頭をかけめぐる。
吸血コウモリの巣をつついてその対処を任されたこと(血を吸われすぎて貧血になりかけた)。
見世物小屋に売られたこと(兄の芸が見たかったらしい)。
ドラゴンから盗んできた宝物を返してきて欲しいと頼まれた時のこと(あやうく戦闘になりかけた)。
毛の色をまだらに染められた時のこと(数日間群れの皆から笑われつづけた)。
誕生日にダンゴ虫とハチとヒルが各百匹欲しいといわれた時のこと(苦労して捕まえて見せたら気持ち悪いと言ってすぐに逃がされた)。
新しい魔術の実験台にされたことは数知れず、罪を被せられたことも多々あり、気まぐれにつき合わされるのはいつものこと。一生忘れられない思い出ばかりだ。
「ちゃんと答えなさい。どうしてここに来たんだ? 連れもどしに来たのか?」
詰め寄って本当のことを吐かせようとすると、間の悪いことに、扉を叩く音がした。
「あの、スーラさん?」
遠慮がちに扉を叩いているのは、マリーのようだった。
「入ってもいい? お取りこみ中ならまたあとで……」
「ううん、大丈夫だよ。どうぞ」
スーラはすぐさま表情を改め、穏やかな笑みでもってマリーを出迎えた。すばらしい豹変ぶりだった。
「どうかした?」
「どうということはないんですけど、よかったらライラさんにと思って」
マリーが差し出したのは、バラやマーガレットに形作ってある砂糖菓子だった。
「前に、お姉さまがもらったお見舞いの品なんです。さっきの花輪のお礼に、よかったら」
「わざわざありがとう。ライラも喜ぶよ」
スーラはふり返って、ライラにマリーの言葉を通訳した。兄に負けない見事さでライラも笑顔を作り、大喜びする。
そして、マリーが去っていくと、スーラもライラも顔をそむけ合い『うわ。気持ち悪』と心の中で互いの作り笑いを罵った。
「さっきの花輪、作ったのが兄さんだって知ったら、どんな顔するかしら」
「……」
元が獣のライラは、花輪を作れるほど手先が器用ではない。
「ほんと人間くさいわよね」
「悪かったね」
「あら意外。悪いと思っていたの?」
「……」
ああいえばこういう。こういえばああいう。「ああ、マリーが妹だったらなぁ」と考えてしまうスーラだったが、セラにこの妹を押しつけるのは大変申し訳ないので、すぐにその想像をふり払った。
「それで? 話を逸らさない。どうしてここに?」
「なんだっていいじゃない。兄さんがここにいる理由に比べたら、私がここにいる理由なんて些細なものよ」
「え」
「あら? ばれていないとでも思ったの? ずばり好きなんでしょ、あの人のこと」
図星を指されて、スーラは押し黙った。この妹ならそれくらい見抜くだろうと思っていたが、正面切って言い当てられるとショックだ。
「……反対か?」
「私が反対したら、兄さん、あきらめるの?」
スーラはまた口を閉ざした。
「そうでしょ? 何も言う気はないわ。だいたい、友達程度の仲にもなってないのに何を心配しろっていうのよ」
耳に痛い言葉だ。スーラはうなだれた。
「こんなところで不毛な会話を繰り広げているぐらいなら、あの人に数学でも教えてあげたら? だぁいじょうぶ。大人しくしているわよ。そんなに心配なら、この部屋に不出の結界でも張っていったらどう?」
ライラが犬でも追い払うようにしっしっと手をふるが、スーラはぐずぐずとためらってなかなか出て行こうとしない。
「これ以上、私との仲を誤解されたくなきゃ、何か話しに言ったほうがいいと思うわよ」
「誤解?」
気づいていないスーラに、ライラはこれみよがしに盛大なため息を吐いた。
「出会い頭にキスをブチかまして、そのあと片時もそばを離れずつきそっていたら、普通なんと思うかしらね?」
はっきりと、スーラの顔色が変わった。
「し……しかし、非常時だったから」
「その言い訳を抱いて失意のまま死にたいの? おカバさん」
「……行ってくる」
辛辣なセリフに後押しされて、スーラはドアの取っ手をつかんだ。
「――邪魔なんかしないわよ。仲良くなってもらわなきゃ困るんだから」
一人になったライラは、暗い愉悦をふくんだ微笑をうかべた。




