あめだま
「飴玉ですか?」
女が小首を傾げた。結われた髪と和装の襟の間から、白い肌が大きく覗いた女だ。
床に伏した老人が女に微かに頷いた。
「お好きですものね。飴玉」
そう、老人は飴が好きだった。女がねぶる飴玉が好きだった。この歳では唾も枯れると、老人はまずは女に飴をねぶらせていた。
二人で飴をねぶった夜を、女は思い出す。
女の唾液にまみれた飴を、老人は舌を出して受け取る。老人が飴玉をねぶって女に返し、女がまたねぶって老人に返す。そんな夜だ。
唾とともに飴玉を迎える度に、老人は子供のように目を細めた。
「飴玉が欲しいのですね?」
女の問いに、老人はまたもや小さく頷いた。
女の人生の全てを奪った老人の、その力ない頷き。やはり頷くだけで多くの人間の人生を狂わせてきた、老人のその力ない動き。
女は無言で飴を取り出した。
いつものようにまずは自分でねぶり始める。
老人は僅かに首を傾け女の頬と顎の動きに目をやる。だがもはやその目に光はない。
女の頬は時折大きく膨らむ。
右に。左に。頬の中で。舌の上で。唾にまみれ。飴が女にねぶられていく。
老人は震える右手を床より差し出した。ままならない様子でその右手を持ち上げる。
女は老人の意を察したのか、その手をとってやる。飴を舌先で左の口中に寄せ、膨らんだ頬を老人に触らせてやった。
「あら、泣いてらっしゃるの?」
老人は応えない。
「初めて見ましたわ。でも何故かしら? まだ私が言うことを聞くから? それとも――」
女は身を屈めた。己の紅い唇を老人の紫のそれに重ね合わせてやる。
唾液にまみれた飴を舌で押し込む。
老人の右手が、涙とともに床に落ちた。
「それとも、こんな大きな飴玉は、お母様にも貰ったことがないからかしら?」
老人は答えない。ただただ涙を流す。
「よく聞かされましたわ。ご自慢でしたもの。飴玉一つ買ってもらったことのない自分が、今やこの国を動かす程になったって。だからあなたはいつも、ご褒美に飴玉を欲しがるのね」
老人はゆっくりと舌を動かした。
もはや老人の自由になるのは、この舌先しかないようだ。落ちた右手は、そのまま動かない。もうどう力を入れればそれが動くのか、この老人にも分からないのだろう。
それでも舌だけは思うように動いてくれる。
いや、そう思っているのは、老人だけだったのかもしれない。飴はなかなか減らない。それでも老人は、飴玉をねぶり続ける。
老人は飴を――
舐め。吸い。啜る。
しゃぶり。転がし。震わす。
味わい。慈しみ。そして、ねぶる――
それは老人が女にしてきたことだ。
女の人生にしてきたことだ。
だがもう幾らも唾が出ないのだろう。
老人が苦しげに呻き、女は己の舌で老人の口中から飴を拾い出してやった。
かつて老人自身にもそうしてやったように、女は丹念に飴に唾を舐めつける。
女は飴が唾液にまみれると、老人の口に戻してやった。老人はまた飴玉をねぶり始める。
幾ばくかの時間が流れ、老人は大きく咽仏を震わせた。
老人は力なく口を開けもう一度女を見やる。もう何も見えないようだ。それでも女が居るであろう方を老人はじっと見つめる。
「おかわりが欲しいの?」
女は幼子に訊くように優しく微笑む。
老人が心の中だけは頷いたようだ。
「はい」
その僅かな動きに女は柔らかに応えてやる。
「お約束。覚えておりますわ」
老人は応えない。
「あなたが死んでも私は他の男のものにならない。他の男を見ない。そんな約束でしたね」
女はぐっと力を込めて飴玉を取り出すと、またねぶり始めた。これは老人にとって最後の飴だ。そして女にとっても最後の飴だ。
女は老人の微かな息を頼りに顔を寄せた。
そのままゆっくりと、新しい飴玉を老人の咽の奥に送り込んでやる。
老人がその飴を受け入れ少しねぶると、その微かな息づかいもしなくなった。
「最後まで勝手な人」
女は手探りで老人の顔を撫でた。触れても閉じない老人の瞼を、その手で撫でてやる。
「でも私は約束を果たしましたよ」
女は優しく微笑む。
そして全てを捧げた老人の瞼にそっと親指を添えると、
「だから私にも、ご褒美の飴玉を下さいな」
ぐっと力を込めてその瞼の奥に指を差し入れた。