MEMORY(3)
「……三ヶ月前、弓ちゃんが突然、秘書を辞めたいと俺に言ってきたんだ。
結婚でもするのかと俺は思ったんだけど…。
しばらく黙っていた弓ちゃんが話しはじめたんだ……。」
「……わたし、高杉さんに謝らなければならないことがあるの。」
冴子は重い口を開いた。
冴子の尋常ではない様子に、
高杉はできる限りの笑顔を作って言った。
「おう、どうせ大したことじゃねえんだから、
全部吐き出しちまえよ。」
そんな高杉の優しさを感じながら、
冴子は話し始めた。
「……わたしは、CIAの諜報員で、スパイとして高杉さんの事務所に潜入したの。
高杉さんに関する情報は、定期的に上層部に上げる。そんな活動をずっと続けていたの。」
CIA……?
スパイ……?
高杉は、にわかには信じられない話に、半信半疑で黙って聞いていた。
「名前はもちろん、戸籍も潜入するために用意されたものなの……。
わたしの本当の名前は西村冴子。
……4年以上もお世話になりながら、
わたしは高杉さんや事務所のみんなをずっと騙し続けていたの。
………本当にすいませんでした、高杉さん。」
冴子は涙を流しながら、高杉に謝りつづけていた。
初めて見る冴子の涙に、
現実なのか……、と高杉は夢から覚めたような気持ちでいた。
高杉も政界に飛び込んで随分経つので、
そういったスパイ絡みの話を沢山聞いてきた。
現実に存在する以上、高杉や事務所の職員も十分気をつけてきたつもりだった。
なるほど、見事なものだな……。
そう感心している自分に、高杉は不思議な気持ちがした。
冴子を前にして、
怒りや憎しみといった感情は高杉の中に芽生えてはこなかった。
まだ泣いている冴子に、高杉は語りかけた。
「……お前も苦しんでいたんだな。
偽りの自分で俺たちに接することに、
ずっと罪悪感を持ち続けていたんだな……。」
冴子はうつむいたままだったが、
そんな冴子に高杉は微笑みながら言った。
「たとえ名前や戸籍が偽りだったとしても、
お前の全てが偽りだったわけじゃねぇだろ。
お前の笑顔……、
お前の怒った顔……、
そして、
今流している涙も……。
俺達はみーーんな知ってるんだぜ……。
お前がいい女だってことを……。」
「………はい。」
冴子は泣きながら、まっすぐ高杉を見つめてうなずいた。
■
アキラは一言も喋らずに高杉の話を聞き、
智子は声を押し殺しながら泣いていた。
「………俺にスパイであることを明かしたということは、
CIAと何かしらトラブルがあったんだと思い、
手助けできることは何でもすると弓ちゃんに言ったんだ……。」
そこで高杉は、
ドアの向こうにいる香織を思い浮かべた。
「俺が何度そう言っても、アイツはずっと断り続けていたんだが……。
……ひとつだけ俺にお願いしたいと。
娘が何か問題を抱えてきた時は、力になってあげて下さいと、
……その言葉を残して、弓ちゃんは事務所を去っていったんだ。」
涙を必死に拭いながら話していた高杉は、
嗚咽を漏らしながら自嘲気味に言った。
「あの時、無理にでも手助けしていれば………。
……後悔先に立たずとは、よくいったもんだぜ。」
「……冴子の意思はまだ生きています、高杉さん。」
アキラは自らを鼓舞するように高杉に言った。
「まだ、終わってはいない。
ここで幕引きになることの方が、冴子にとっては死ぬよりつらいでしょう。
俺は、冴子の意思を全うしてやりたい。」
「……そうだな。」
高杉は強くうなずいた。
「高杉さん、あれを見せてほしい。」
アキラはそう言いながら、部屋の隅にある簡易机を指差した。
その机の上には、
榧でできた碁盤が置かれていた。
囲碁の腕前はプロ級という高杉は、
時々プロをこの自室に招いて碁を打っていた。
「………碁盤?」
高杉がいぶかしげな顔をした。
「いえ、その下の物です。」
アキラの言葉にうながされて、高杉が碁盤の下を見た。
そこには、
鍋敷きのような扱いで碁盤を乗せられているノートパソコンがあった。
■