日常から非日常へ
洗い物をすませて、時計を見ると、
すでに深夜の3時半を回っていた。
鷹橋智子は、
カーペットに大の字になって寝ている達也を見て、
そっとブランケットをかけ直した。
午前1時過ぎに帰った達也に晩酌代わりのおかずを出すと、
テレビで「ダイ・ハード」がやっていた。
懐かしいと思いながら、
達也につられて見ていたら、こんな時間になってしまっていた。
映画の中盤で、すでにイビキをかき始めていた達也は、
すっかり寝入ってしまったようで、
起こすのも悪いと思った智子は、そのまま達也を寝かせていた。
スポーツ雑誌のライターをやっている達也は、
最近は毎日のように深夜に帰宅していた。
智子は少々無理をしている達也の体が心配ではあったが、
目を輝かせて仕事をしている達也を思い浮かべて、
気持ち良さそうに寝ている達也を見ながら微笑んだ。
今はほとんど専業主婦のような生活だが、
鷹橋智子もかつては政治部の新聞記者として、
忙しい毎日を送っていた。
■
大学卒業後、大手新聞社に就職した智子は、
警察担当のサツ回りをしばらくした後、
民政党「春日派」の代議士・高杉一郎の番記者となった。
入社当時はジャーナリスト精神に溢れ、情熱を燃やしていた智子だったが、
そこで目の当たりにしたのは、
マスメディアと警察、政財界との馴れ合いの関係だった。
終身雇用を前提として報道機関に採用された新卒者は、
次第に特権意識を持ったまま成長し、
単なる報道機関の「会社員」となっていく。
そこには一般企業と変わらない「業績至上主義」や「出世争い」といった現象が起きて、
記者たちは報道の本来の目的・使命を忘れ、
個人と企業の業績向上だけを目的として行動するようになっていくのだ。
一部の大学卒業者が大半を占める政治部の記者は、特に特権意識が強く、
また、番記者は取材対象者と距離が近くなるため、
癒着が生まれることもある。
金銭の授受や工作、果ては事件のもみ消しに加担する等の行為が過去に行われたこともあった。
智子が担当になった高杉は当時、
与党・民政党の政調会長をやっていたが、
「若林派」が実権を握る民政党において、
高杉の所属する「春日派」は単なるお飾りであると、
マスコミの間では囁かれていた。
ほとんど左遷されたような気持ちでいた智子だったが
高杉の番記者をつとめるうちに、
次第に高杉の魅力に引き込まれていくようになっていった。
女好きと評判だった高杉を、
最初の頃は警戒していた智子だったが、
高杉は智子たち番記者を平気で自宅に上がらせて取材を行っていた。
そのうち高杉の奥さんや娘さんとも親しくなり、
智子は高杉と家族ぐるみで付き合うようになっていった。
智子は番記者として、対象者の政治家に近づきすぎるのは危険だと感じていたが、
そんな智子に、
「お前に新聞の一面を飾って貰って、
刑務所送りにされるのなら本望だ。」
と、高杉は高らかに笑いながら話した。
政治家、特に政権の中枢にいる者は、それなりの悪事をやっている場合が多いが、
高杉はクリーンだとは言わないまでも、
そういった政治家と比べれば、
高杉のやっている事は、子供のようにかわいいものだった。
高杉がいつだったか智子に言った言葉を思い出した。
「俺の一番の弱点は、女好きなところだが、
それだってちゃんと一線はわきまえるようにしているからな。」
娘のように可愛がってもらっていた智子は、
「亭主関白」を装いながら、実は「かかあ天下」である高杉の奥さんを思い浮かべて、思わず笑ってしまった。
そんな時、智子はある筋から「若林派」の代議士に関する不正受諾の情報を手に入れた。
ぜひ記事にしたいと上司に頼んだが、
「若林派」と智子の新聞社の関係から記事にすることは許されず、
智子は高杉の担当を外されることになった。
ちょうどその頃、大学時代から付き合っていた達也からプロポーズをされていた智子は、
仕事への執着もまだあったが、新聞社を退職し達也と結婚することに決めたのだ。
結婚してからの智子は、
スポーツ記者としてはまだ半人前だった達也の取材の手助けをするようになった。
忙しい日々の中、
家族ぐるみで付き合っていた高杉と会う機会も無くなっていき、
智子は次第に政治の世界から遠ざかっていった。
■
「さて、寝るかな。」
智子は達也を寝室で寝かせようと、達也の肩を揺すろうとした。
「♪ーー♪ーー♪」
と、その時、
智子のケータイの着信音がなった。
心当たりのない電話番号が画面に表示され、
知り合いにしても、こんな深夜に非常識だと、智子は電話を取らずにいたのだが、
さすがに4回間を置かずに電話がかかってきたところで、
智子は不審な顔で電話に出た。
「もしもーし。」
智子は不機嫌さを隠そうともせずに話しかけた。
『…………』
「えっ?クロイワアキラ?」
どこかで聞いたような、と智子は記憶をたどっていく。
『………………………』
「ああっ!アキラ!?」
急に記憶の引き出しが開かれて、智子は思わず大きな声をあげてしまった。
智子が新聞屋に入社した頃、
情報を提供してもらっていた情報屋にいたのがアキラだった。
当時、智子はサツ回りをしていたのだが、
肝心な情報を上げない警察相手に、智子はアキラから重要な情報をいくつももらっていたのだ。
「久しぶりじゃない。」
先ほどまでの不機嫌さや、
自分のケータイ番号を何故アキラが知っているのかという疑問は吹き飛び、
智子はかつて記者として駆け回っていた自分を思い出していた。
『……………………』
「えっ、村田弓子?
もちろん知ってるわよ。
高杉さんのところにいた時、
わたしと弓ちゃんと高杉さんで出かけたこともあったから。」
次々と懐かしい名前が聞こえてきて、
智子の記憶の引き出しがどんどん開け放たれていった。
だが、それからアキラが話し始めた事を聞くうちに、
智子の表情は次第に険しくなっていった。
『……………………!』
「……それ、本当なの?」
そこで智子はテレビの画面を見た。
テレビではニュースがやっていた。
それは日付が変わる前に起こった、
神奈川県でのガス爆発事故を伝えるものだった。
ニュースで伝えている事が、
突然身近で起きたような出来事になって、
智子は不思議な感覚に襲われた。
アキラは話を続けた。
『…………』
「………わたしに頼みたい事?」
深刻な話しをしている智子をよそに、
鷹橋達也はイビキをかいて気持ち良さそうに眠っていた……。
■