BYGONE
もう少しで……
もう少しで、あの男を追い詰められる……。
西村冴子は呪文のように繰り返した。
アキラのもとを去った後、真田真弓という名を捨てた西村冴子は、再び新しい名前を与えられてCIAの構成員としての活動を始めていた。
与えられた任務は全てこなし、組織からの信頼を得てきた。
全てはあの男を破滅させるために……
■
西村冴子は、
両親と姉のもとに生を受けた。
姉の美月は冴子より5才年上で、
才色兼備という言葉は美月のためにあるのだと冴子はずっと思っていた。
美月は小学生の頃から、成績は常に上位で体育も得意、
おまけにモデルのような容姿とくれば、
学校のマドンナになるのは必至だった。
一方、冴子はというと、容姿は美月と何とか張り合えるが、
勉強と体育は「中の下」という感じで、
公務員出身の両親は、美月を神童のように扱い、
何かにつけて冴子と美月を比較した。
冴子は次第に居場所を失い、、
中学生になった冴子は不良グループと付き合うようになっていた。
初めは、冴子を引き戻そうとしていた両親も、
冴子が高校生になっても付き合いを止めようとしないのがわかると、
いつしか冷え切った関係になっていった。
それでも、姉の美月は何かにつけて冴子とコミュニケーションをとろうと努力したが、
姉が名門国立大学で青春を謳歌していると思っている冴子にとっては、
そんな姉の優しさもうざったいだけだった。
そんな冴子だったが、
姉の美月が突然、大学を中退しモデルを始めた時は、さすがに驚いた。
姉は両親と大ゲンカし、
そのまま家を飛び出していってしまった。
姉と両親とは音信不通の状態になったが、
冴子は両親には内緒で時々美月と会っていた。
姉が突然、両親に反抗した原因の一端は自分にもあるのではないかと感じていた冴子だったが
美月と二人で食事をしていた時、
姉が冴子に話してくれたことがあった。
「わたしはいつでも優等生であることを求められ、
わたしも期待に応えようと努力してきた。
でも、ある時、
それが単に押し付けられたもので、
わたしが望んでしてきたことじゃないと思うようになったの…。
そう思った時、好きなことをやりたい、やりたいことをやろう、って気持ちになったの。
そんなわたしには、少し歪んでいたかもしれないけど、冴子がいつも自分のやりたいようにやってる姿が眩しかった。
…だから冴子にも自分らしく、一生懸命生きてほしい……。」
姉には姉なりの苦悩や葛藤があるのだと、
そんな当たり前のことに気付こうともしなかった独りよがりな自分を振り返り、
冴子は姉にすまない気持ちで一杯だった。
その後、冴子は不良グループとの関係を断ち、
猛勉強して大学へと進学した。
姉のほうは、
モデルの仕事は難しいようだが、
自分で決めた道だからと冴子に笑って話していた。
姉と両親の関係は相変わらずだったが、冴子と美月は頻繁に食事をしたりしていた。
冴子は大学でも上位の成績を修めていて、
そろそろ就職活動に目を向けようと周りが騒ぎ出した頃だった。
大学からのご指名で、ある企業が冴子に就職を持ちかけてきたのだ。
外資系のシンクタンクを名乗ったその担当者は、さっそく冴子にテストを出した。
就職のしの字もわからない状態でテストをだされて困惑したが、
大学側からも丁重に対応してくれと言われていたので、
冴子は仕方なく問題を解いていった。
テストとはいっても、
学校で習うような問題ではなく、IQテストや心理テストのような問題がほとんどだったが、問題数の多さにはさすがに閉口した。
解答を見た担当者は、大学側の人間を退室させ、
そして冴子に言った。
「先ほどからの対応、大変失礼しました。
一応、テストの一部だったものですから。
名称は伏せてもらいますが、わたしはある政府系情報機関の者です。
是非あなたに私たちの機関へ来てもらいたい。」
政府系………?
情報機関……?
あまりにも胡散臭い感じに、考えておきますと答えて、その場は終わったが、
その後も何度か担当者が現れ、希望職種も定まっていない冴子は、その機関の幹部と会うことになった。
新聞で見かけたことのある顔が現れて、
熱心に勧められるうちに、冴子の就職は決まっていた。
就職後は、
周りには、もちろん就職先を正直に話すこともできず、
行動も制限されるため、家族や知人と接触する機会は激減していった。
そのような状況ではあったが、
冴子は働いているうちに、仕事の魅力に引き込まれ、やり甲斐を感じるようになっていた。
簡単な情報収集から、次第に潜入の仕事がまわってくるようになり、
冴子も期待に応えようと努力した。
アキラが来ることになる情報屋への潜入が命令されたのは、そんな時だった。
アキラが来た頃には、
冴子はその情報屋の中でも重要な案件を任されるまでになっていて、
情報屋としてはかけだしだったアキラの教育係という形で、一緒に行動することになった。
アキラは普通の人が見れば、
どこにでもいる物静かな若者といった印象しか持てないだろうと思われた。
だが、冴子はアキラが年齢や性格からくるものとは違う、
修羅場を経験しながらも、強い意思で様々な感情を封じ込めているような静けさを感じていた。
初めの頃は、アキラに対して恋愛感情は持っていなかった冴子だが、
冴子の一目惚れで付き合っては別れるという繰り返しに、
男を見る目が無いと嘆いていた冴子が、
アキラと付き合うことになるとは当人も思ってもいなかった。
アキラと一緒にいる時間が増え、
アキラの仕事に対する姿勢や、普段無感情を漂わせながら何気なく見せる周りへの優しさから、
冴子は次第にアキラに引かれていった。
どちらから付き合おうと言ったわけでもなかったが、
仕事終わりに二人でラーメン屋に行った時に、
アキラが冴子に言った言葉を良く覚えている。
二人でラーメンを食べていたら、突然アキラが箸を止めて言った。
「こういうのって、デートと呼べるのか?」
冴子は噴き出しそうになりながら、
「そうじゃない?」
と、笑って答えた。
仕事柄、外で張り込みをする機会も多かったが、
そんな時、アキラは夜空をよく見上げていた。
空を眺めている時のアキラは、
冴子と接する時のような穏やかな表情をいつも浮かべていた。
普段はどちらかと言えば口下手なアキラだったが、
そんな時は熱心に冴子に話し掛けてきた。
「知ってるか?
この夜空は、
今も少しずつ広がっているんだ。」
「一般相対性理論の応用ね。」
冴子が茶化すようにアキラに言った。
アキラは、仏頂面になって話しを続けた。
「そういう小難しいことは、どうでもいいんだよ。
とにかく、
今見ている星がずっと昔の輝きで、
もしかしたら今はもう星自体は無くなっているかもしれない。
その一方で、宇宙はそんなのは関係無しで風船のように膨らみ続けている。
そう考えると、
俺達の人生なんてほんの一瞬なんだなぁって、つくづく思うんだ。
だからこそ、その一瞬を懸命に生きている人に共感して、
自分も頑張ろうって思うんだろうな…。」
夜空を眺めるアキラを見て、冴子も再び夜空を見上げた……。
アキラといると、冴子自身驚くほど素直な自分が現れて、
アキラに癒されていくのがわかった。
その一方で、
諜報員として偽りの自分でアキラに接していることに、
例えようの無い罪悪感を冴子は感じていた。
そんな時、
姉の美月から冴子に会いたいと連絡が入った。
どうしても会いたいという美月に、
冴子は忙しい合間を縫って時間を作った。
久しぶりに会った美月は、少しやつれた印象だった。
「どうしたの、姉さん。」
「…………。」
美月は暫くの沈黙の後、冴子に話しはじめた。
「……妊娠したの。」
「……えっ?」
「わたし、妊娠したの。
この子はわたし一人で育てるから。」
最初、状況が整理できずに呆然とした冴子だったが、
我に帰り、
相手は誰なのか、どうして結婚しないのか美月を問い詰めたが、
美月は決して答えなかった。
それどころか美月は、
相手を探すようなことはせず、
両親にも言わないで欲しいと冴子に頼んできたのだ。
冴子は何とか説得しようと試みたが、
美月は引き下がらず、冴子に応援してほしいと、涙を浮かべて頼まれたところで冴子も諦めた。
その後、美月は無事女の子を出産し、
「香織」と名前をつけた。
美月はモデルの仕事を辞めて、ホステスをしながら香織を育てていた。
冴子も時々美月と香織に会いに行ったが、
美月は驚くほど元気だった。
香織からたくさん元気を貰っているからと、
穏やかに笑う美月が印象的だった。
その頃、CIAから冴子に指令が下りてきた。
それは、冴子が現在取り扱っているある政治家の案件に関するものだった。
冴子は、アキラと田崎と共にその政治家に関する内偵調査を進めていたのだが、
その政治家は民政党「若林派」に所属していて、
CIAとも繋がりのある人物だった。
その辺の関係は冴子も十分わかっていて、
その案件の担当になったことを上の幹部に伝えた時、
曖昧な状態で仕事を終わらせるように命令された。
冴子はなるべく重要な情報が上がらないようにしていたが、
アキラが決定的ともいえる証人を見つけ出したことで、状況は一変した。
CIAはその証人の殺害を決定し、冴子に身を隠すよう命令してきたのだ。
「残念だが、ここまでだ。お前は雲隠れしろ。」
そう言ってきたのは田崎陽平だった。
田崎は冴子がこの情報屋に入る前から、
CIA諜報員として潜入していた。
こういったことが起きた場合の保険として、冴子が潜入していたということは冴子自身がよくわかっていた。
三人で内密に進めていた以上、
誰が疑われるのかは明白だ。
……逃げるしかない。
そんなことは冴子もわかっていた。
………アキラ。
最後までアキラを裏切ることしかできなかった自分に、冴子は絶望するしかなかった。
冴子はアキラに手紙を残そうとしたが、
アキラとの思い出ばかりが浮かび、涙が出るだけで言葉にすることはできなかった。
「ごめんなさい。」
その言葉だけを残して、
冴子はアキラのもとを去った……。
CIAから提供された場所で、
冴子はしばらくの間は身を隠していた。
外部との接触はほとんどできない状態で、
そんな冴子の頭に浮かぶのは、アキラの事ばかりだった。
その後、仕事にも復帰し
アキラとの思い出を振り切るように働いていた冴子のもとに知らせが届いた。
………そんな馬鹿な。
それは、
姉の美月が殺害されたという知らせだった。
にわかには信じられない知らせに
冴子は頭が真っ白になっていた。
冴子が美月と再開したのは霊安室の中だった。
腹部に包丁で致命傷を受けたという話だったが、
顔には傷一つ無かった。
いつもの綺麗な美月の顔を見るうちに、
眠れる森の美女のように、
何かをきっかけにして美月が眠りから覚めるのではないかと冴子は思っていた。
冴子は、自分の身体の時間の流れが狂ったような感覚になっていて、
気付いた時には、いつの間にか来ていた両親が、
美月の身体にすがるように泣き崩れている姿が目に入った。
………香織。
思考を失っていた頭に、
香織の顔が浮かんできて、冴子はいつの間にか霊安室から走り出していた。
夜間保育園に預けられていた香織を冴子が抱き上げると、
香織は冴子に天使のような笑顔を投げかけた。
「姉さん………!」
冴子はそんな香織を抱き抱えながら、
人目もはばからずに泣き崩れた。
美月の告別式がしめやかに行われている時、
美月を殺害した犯人が逮捕されたことが冴子に伝えられた。
美月が殺された日、
美月は香織を預けた後、いつものようにスナックに出勤した。
殺害された時間、店には美月とオーナーのママ、そして常連客の年配男性が一人いるだけだった。
容疑者の30代男性は、
刃渡り30センチの包丁を持ってスナックに押し入り、
突然美月に切り掛かった。
美月の腹部を4回刺した後、男性客の胸部を刺し、逃げようとするママを背中から切り付けた。
その後、店のレジから現金を奪い逃走した。
美月と男性客は死亡したが、オーナーのママは一命を取り留め、
彼女の証言から、仮出所中の容疑者が逮捕された。
冴子はまだ気持ちの整理もできていない状態だったが、
これで事件の真相が明らかになると思っていた。
だが、そうはならなかった。
公判を控え、留置所で拘束されていた容疑者が、
自らの衣服を使って首吊り自殺したのだ。
呆然とする冴子をよそに、被告人不在で裁判は消え去ってしまった。
……ありえない。
天文学的な確率で起こることが、自分の身に降りかかって、
冴子は冷静な思考で分析していた。
生前、美月が話していたことを冴子は思い出した。
わたしがもし死ぬようなことになっても、
両親には香織のことを秘密にしてほしいの……。
両親に迷惑をかけたくない……。
その時は、知り合いが働いている施設へ香織を預けてほしい……。
冴子がその話を聞いた時は、
まさかこんなことが起こるとは思っていなかったが、
今思えば、あの言葉は何かを暗示していたのではないだろうか?
美月はこうなることを予測して、
冴子に香織のことを頼んだのではないだろうか?
冴子は、知りえる情報網を使って容疑者に関する情報を収集し始めた。
仕事で時間が空けば、どんな些細な情報でも自ら足を運んで確認した。
その一方で、施設に預けた香織にも定期的に会いに行っていた。
せめて両親には、
香織の存在を知らせたほうが良いのではないかと思ったこともあったが、
美月と交わした約束だからと、
冴子は両親には知らせず、
自分が美月のためにも母親代わりになろうと決めていた。
そんな香織が、会うたびに美月に似てくることが冴子はとても嬉しかった。
美月や容疑者に関する情報収集は、なかなかうまくは進んでいなかったが、
それでも冴子は我慢強く続けていた。
一つ一つの情報を精査し、取捨選択しながら、情報同士の繋がりを吟味していく。
蜘蛛の糸を手繰り寄せるような作業だったが、そこからある組織の名が浮かび上がってきた。
……海江田組?
冴子の所属するCIAと深い繋がりのある組織が関係している…。
まさかとは思ったが、更に調べていくと、次に浮上してきた名前に、冴子は言い知れぬ寒気を感じた。
民政党「若林派」……!
かつて冴子がアキラのもとを去った原因となった政治家も、
民政党・若林派だった。
姉の事件に政治家が絡んでいる、
しかも、
CIAと浅からぬ強い繋がりのある民政党・若林派が関係している。
背中から切りつけられたような感覚を冴子は感じていた。
地獄の釜のフタを開けてしまったような気がしたが、もう引き下がることはできなかった。
冴子は身内であるはずのCIAの目も気にしながら、作業を続けた。
そして、
時間はかかったが、冴子はある結論を導き出した。
その時から、
冴子は「復讐者」として生まれ変わり、動きだした………。
■
もう少し………、
もう少しで、あの男を追い詰められる……。
冴子は自宅の窓際のソファーで、呪文のようにつぶやいた。
そして、ふと窓際から夜空を見上げていた。
都心では珍しく、いつもより夜空の星が綺麗に煌めいていた。
自分でも不思議なほど、穏やかな気持ちになっていく。
その理由が、夜空の美しさだけではないことを冴子はよく知っていた。
さまざまな思い出が甦り、
アキラの姿が溢れてきた。
そして冴子は、いつだったか香織と旅行に行った時のことを思い出していた……。
香織がまだ小さい頃で、
冴子は仕事と美月の件での調査で疲れきっていたが、
時間を作って香織と二人で温泉地に出かけた。
「おかあさん、おそらが好きなの?」
湯上がりに、縁側から夜空を眺めていた冴子に、
香織が尋ねてきた。
冴子は笑いながら答えた。
「そうだよ。
おかあさん、おそらを見るのが大好きなの。」
「ふぅーん。」
「香織はおそら、嫌いなの?」
「ううん、かおりもおそら好きだよ。」
そこで冴子の横に来た香織は、夜空を見上げて何かを探しはじめた。
「あっ、あれ、
おつきさん。」
「お月さん?」
「そう、おつきさん。
あのね、いい子にしてたら、おつきさんから、うさぎさんがあそびにきてくれるって、せんせいがいってたの。」
先生も上手いことをいうもんだと、冴子が感心していると、
「ねぇ、おかあさん。」
「ん?何?」
「かおり、いい子にしてたら、おとうさんもあいにきてくれるかな?」
「お父さん」という響きに、冴子は一瞬鳥肌が立つのを感じたが、少し考えてから答えた。
「きっと、会いに来てくれるよ。」
「ほんと?」
「ほんとうだよ。
お父さんはお仕事忙しいから来れないけど、
お父さんは、お母さんみたいにいつもお空を見て、
香織に会いたいってお願いしてるんだよ。」
「へぇ、そうなんだ。」
香織は目を見開いて、嬉しそうに笑った。
変な嘘をついたかな、と冴子は香織に悪い気がしたが、
本当に叶ってほしいと、
冴子はアキラの顔を思い浮かべながら、夜空の月を眺めていた……。
■