欲しがりな妹に、婚約者も恋心も譲りました。~もう返していただかなくて結構です~
「お姉様、エドガー様を好きな気持ちも、私にちょうだい」
婚約者を譲れという話の途中で、妹のフローラはそんなことを言い出した。
初夏の光が差す応接間で、私は膝の上の手を握り直す。向かいの長椅子に並ぶ婚約者とフローラは、こちらを前にして悪びれもしないところまで、よく似た二人であった。
「……彼への気持ちを、あなたに?」
「だって、私もお姉様みたいに幸せになりたいんだもの。ほら、お姉様、前に薔薇を貰って、ずっと嬉しそうにしていたでしょう?」
フローラが腕輪を外して卓上へ置くと、小さな真珠が揺れた。
エドガーが贈ったばかりの品らしい。彼は、桃色のドレスに金髪を垂らしたフローラの、愛らしい顔を不思議そうに見ている。
「これは気に入らなかった?」
「素敵ですわ。でも、私もお姉様みたいに、お手紙を何度も読み返すくらい、恋を楽しみたいんです」
子爵家の長女である私の持ち物は、たいてい妹に奪われてきた。
ものを隠す場所を考えていたけれど、胸の中まで欲しがられてはどうしようもない。
「リディア、難しいことではないでしょう。妹を喜ばせるくらい、してあげなさい」
隣から母に促され、背筋が勝手に伸びる。
金髪を隙なく結い上げた母は、私の返事を待って細い眉を上げた。濃紺の袖がこちらへ寄っただけで、息がしづらくなる。
伯爵令息であるエドガーとの縁談を、母は子爵家の娘には願ってもない良縁だと喜んでいた。花嫁が私からフローラに替わっても、母にとっては良縁のままらしい。
「あなたの魔法で渡せるのだから、恋心くらい出し惜しみしないでちょうだい」
――私には、特定の誰かに向けた感情を、その持ち主と私の間で移す魔法がある。
手をつなぎ、一方が渡し、もう一方が受け取ることを望んで、私が魔法を使えば、その人への気持ちは丸ごと移る。
ただし、同じ相手への気持ちは丸ごとしか移せず、恐怖だけを取り除いて、親しみだけを残すようなことはできない。
渡した方には記憶が残るけれど、その思い出に伴う喜びや悲しみはなくなる。
母もフローラも、それを承知で私に引き取らせてきた。
父を亡くして間もない頃、音楽教師に叱られたフローラが泣き止まなくなり、私は母に命じられて、その手を握った。
先生を怖がる気持ちが濁流のように流れ込み、それから小さな感情が粒のように浮かんできた。
翌朝、フローラは先生に挨拶を済ませると、赤の他人に興味を向けないのと同じように、窓の外の小鳥を眺めていた。
私は隣で、叱られるのが怖くて楽譜も開けずに、母に臆病だと叱られた。
ある日、私はフローラの感情を引き受けるのを断った。その日は夕食が来ず、私は鍵付きの部屋に閉じ込められて、結局私が謝るまで、部屋の鍵は開けられなかった。
人に傷つけられるたび、フローラはその相手への気持ちを私に渡し、別の楽しいことを探しに行った。
母はよその方に、フローラは立ち直りが早く、私はいつまでもくよくよするのだと話したけれど、その違いがなぜ生まれるかまでは、誰にも説明しなかった。
「フローラが僕を好きになってくれるなら、いいことじゃないか」
エドガーが朗らかに言った。褐色の髪も、笑うと優しく下がる目尻も、初めて花をくれた頃と変わらない。
あの日、私は貰った薔薇を枯らしたくなくて、侍女に押し花の作り方を教わった。本に挟んでからも、綺麗な色が残るように毎晩願ったのを覚えている。
その人が今、私の恋心がなくなると聞いて笑っている。
「私があなたを好きではなくなっても、構わないのですね」
「その方が、君も気が楽になるだろう? 僕たちも変に気を遣わずに済むし」
気を遣っているつもりだったとは知らず、思わず返事に詰まった。
これまでの振る舞いに何とお礼を言えばよいのか、私の習った礼儀作法では分からない。
先月、彼は私との観劇の約束を忘れてフローラと湖へ行った。私は仕立て直したドレスで夕方まで待ち、フローラから水辺の花の話を聞いた。
それでも、いつかまた私に花をくれるかもしれないという期待が、今も胸にしがみついているのだから仕様がない。
「それと、結婚してからもときどきフローラに会いに来てやってほしい。君なら、この子が不安になっても助けてやれるだろう」
彼はもう、フローラと暮らす家に私を呼びつけるつもりでいる。
これから何年、私はその家の扉を叩き、自分の傷を増やすのだろう。
「……わかりました。婚約は解消してください」
これ以上言葉を続けられたくなくて、私は当初の議題に結論を出す。私がエドガーへの気持ちをフローラに渡すという話も、婚約者を妹に譲るという話から派生したものだった。
膝の上で爪が食い込むほど手を握り、私は続けた。
「フローラと結婚なさってください。私はもう、あなたとの結婚を待ちません」
惜しんでくれたら涙の一つも落としたかもしれないが、彼は安堵して頷いたので、私は泣かずに済んだ。
母は話がまとまったことに満足して、以前から公爵の伯母様に招かれているのだから、しばらく泊まりに行ってはどうかと言った。
「これからお祝いにいらっしゃる方も増えるでしょう。あなたが沈んだ顔をしていると、フローラが気にするわ。少し気晴らしをしていらっしゃい」
私が悲しいことより、悲しそうに見えることが問題らしい。
それでも家を出られるのはありがたく、私は行きますと答えた。
◆
婚約の解消が済み、フローラとエドガーの婚約が決まった。
出発の前夜、フローラは私の部屋へ来ると、旅行鞄をまたいで両手を差し出した。
誰かへの気持ちを私に押しつけるときと同じ、早く済ませようという顔だった。
「フローラ。彼を好きな気持ちには、会えなかった寂しさも、彼がほかの人ばかり見ているときの苦しさも入っているの。幸せなところだけを渡すことはできないわ」
「分かっているわよ。でも、彼は私には優しいもの。お姉様と同じにはならないわ」
「それでも、欲しいのね?」
「ええ、早くしてちょうだい。明日はエドガー様とお出かけするんだから」
私は差し出された掌に手を重ね、魔法を使った。二人の指の間を縫うように、淡い光の線が走る。
花を差し出す少年の顔を思い浮かべる。彼の笑顔も、その後ろに見えた庭の生垣も、細かいところまで覚えているのに、もう一度あの日へ戻りたいという願いが、ゆっくり遠のいていく。
「これが……」
フローラは頬を染めて腕輪に触れたが、ふいに眉を寄せ、胸元を押さえた。
「……会いたいのに、なんだか苦しいわ。明日、ちゃんと来てくださるのかしら」
「そうやって、私も待っていたの」
フローラは唇を噛んだものの、すぐに腕輪を撫で、「私には優しいもの」と確かめるようにもう一度言った。
フローラの様子を見ても、その感情を取り戻したいとは思わず、私はただベッドで横になりたかった。
何年も大事にしてきた恋の終わりとしては、ずいぶん色気のない感想である。
翌朝、押し花は机に残し、本だけを鞄に収めた。花をくれた人に未練はなくても、好きな物語まで置いていく理由はない。
◆
馬車が公爵邸の門を抜けると、噴水の向こうに青や白の花壇が広がった。蔦の絡む白い壁に並んだ窓に、薄いカーテンが膨らんでいる。
玄関で待っていたこの屋敷の主――ユリウス様が、馬車へ歩み寄ってきた。霧のような淡い薄墨色の上着を着た背の高い人で、風に乱れた黒髪を片手で押さえている。
差し出された手を借りて降りると、藍色の目が私を見て和らいだ。
「よく来てくれた、リディア。道中は暑くなかったか?」
「ええ、窓から風が入って、気持ちよく過ごせました」
「この人ったら、さっきから三度も外を見に行くのよ。馬車は見張っても早くなりませんのに」
銀の混じる髪を結ったユリウス様の伯母――エリーヌ様が、薄紫の肩掛けを揺らして笑った。
「伯母上、客人を玄関で困らせないでください」
「困っているのはあなたでしょう。さあ、リディアさん、お部屋へどうぞ」
父が先代の公爵様と親しかった縁で、ユリウス様とはしばしば顔を合わせる機会があり、いつからか、本の話をする仲になっていた。いつも途中で母に呼び戻されてしまい、心ゆくまで話せたことはなかったけれど。
案内された部屋には庭を望む出窓があり、寝台には淡い緑の掛布がかかっていた。
窓辺の小卓に置かれた本を見て、私は思わず足を止める。
「これ、私が読んでみたいと言った……」
「あなたのためにと、ユリウスが置いていったのよ。覚えていたのね」
何かお手伝いできればと申し出ると、エリーヌ様は椅子を勧め、まず本を読みなさいと言った。
「でも、長くお世話になるのは」
「急いで帰ることもありません。あなたとゆっくりお茶を飲めるのを、私も楽しみにしていたのですから」
何もしなくていいと言われると、かえって落ち着かず、片付けるものを探してしまったが、さすが公爵邸というべきか、私の出番はなかった。
◆
「この方、どうして五頁も使って月の話をするのでしょう。結婚してほしいと、先に言ってしまえばいいのに」
滞在三日目の午後、私は庭の木陰で本を閉じ、膝に置いた。
紅茶と杏の焼き菓子を挟んで、ユリウス様が笑っている。
「相手の返事が怖いと、月の話でもしていたくなるんじゃないかな」
「それで朝になってしまったら、今度は太陽の話を?」
「その辺りで、相手にも察して貰えるとありがたい」
「お気の毒ですが、私なら眠ってしまうかもしれません」
くだけすぎたかと唇を押さえたが、ユリウス様は声を上げて笑った。
普段よりずっと若く見えるその顔を、もう一度見たくて話しているうちに、紅茶が冷めていた。
「長くお引き留めしてしまいました。お忙しいでしょうに」
「いや、いいんだ。そうだ、同じ作家の次の本は読んだ? あれは、最後の手紙がよくて」
「まだですから、結末は内緒にしておいてください。明日から読む楽しみがなくなってしまいます」
立ちかけた私を見上げて、彼は一度口を閉じた。
それから、困ったように笑って視線を落とす。
「すまない。本の話なら、もう少し座っていてくれると思った」
椅子にかけた手から力が抜け、首元が熱くなった。
引き留める口実だと分かると、さっきまで眺めていた顔をうまく見られなくなる。
この方は無邪気にこういうことを言うから、油断できない。
「……本のお話でなくても、私は楽しいです」
座り直した私に、ユリウス様が嬉しそうに笑った。
それから二週間、庭でのお茶が日課になった。
エリーヌ様と三人で話すことも、彼と散歩することもある。
来られない日は前もって報せが届き、次に会えば、聞けなかった話をしてほしいと言われる。
頬にも赤みが戻り、栗色の髪に青いリボンを添えると、鏡の中の私もそれなりに見えた。
◆
ある朝、鏡の前でリボンを結んでいると、妹のフローラから手紙が届いた。
便箋には、約束を取り消したエドガーが、他の令嬢と会っていたという訴えが並ぶ。フローラが怒ると、彼は気にしすぎだと笑い、そんな話はしたくないと言ったらしい。
最後には母の字で、フローラがこの調子では困るので帰るようにと添えてあった。
庭師が撒く水の音が遠くなり、私は旅行鞄を見た。幸せな夢が醒めたような気分だ。
帰らなければ母が怒る。フローラが泣いているなら、私が何とかしなければならない。それが、あの家での私の役目だから。
椅子を離れて鞄へ向かいかけたところで、午後に着ようと出しておいた青いドレスが目に入り、足が止まった。
今日は、ユリウス様と池の向こうまで歩く約束をしていた。小さな橋の先に、まだ私の見ていない花が咲いたのだという。
私がそれを見たいというだけでは、帰らない理由にならないだろうか。
しばらく立ち尽くしてから、私は鞄に背を向けて机へ戻った。
帰りません、とだけ書くのに、便箋を二枚も無駄にしてしまった。
謝る言葉ばかり書き足すものだから、読み返すと、今にも帰りそうな手紙になってしまった。
返事を託し、午後、庭へ出ると、ユリウス様が迎えてくれた。
「顔色が悪いけれど、何かあった? 疲れているなら、今日はここに座って話そうか」
何でもありませんと言いかけたけれど、心配そうな目を見ると、いつものように笑みを浮かべることができなかった。
私は手紙のことから、家でどのように魔法を使ってきたかまで打ち明けた。
「フローラが誰かに傷つけられると、その人への気持ちを私が引き取っていました。その気持ちが薄れる前に、また別の方への気持ちを渡されるものですから、一人でいるときまで、誰かの顔色を気にしてしまって」
「それで、君がいつも先に帰っていたのか。具合の悪い妹が心配だと聞いていたけれど」
「ええ。私が帰れば、妹はすぐ元気になりましたから」
言いながら、大したことではないと笑って見せたが、彼の表情は変わらず、私は袖の縫い目をなぞった。
「今度は帰らないと、お返事を出しました。でも、お母様がどんな顔でお読みになるかと思うと、落ち着かなくて」
小さい頃は部屋に閉じ込められた。今はどうだろうか。今度は、逆に家から追い出されてしまうかもしれない。
そんな想像ばかりが頭を巡り、気づけば指先に力が入っていた。
ユリウス様は何かを言いかけて口を閉じ、一度息を吐いてから、静かに話し始めた。
「そんな思いをしていたとは知らなかった。僕と話した後も、君が帰って悲しんでいたことも。……僕は、君が苦しむなら、もうあの家に戻ってほしくない」
「でも……私は、ここにいてもよいのでしょうか。何もお返しできませんのに」
「僕が、君にここにいてほしいんだ」
ほとんど間を置かず、迷いのない声が返ってきた。
「今日も一緒に橋を渡れると思って楽しみにしていた。君も同じように思ってくれているなら――今日も、一緒に来てほしい」
差し出された手へ、私はそっと自分の手を重ねた。
手を引かれて歩き出すと、池を渡る風に頬の熱が冷めていく。
帰らないと決めた午後を、私はこの人と過ごせるのだと思い、並ぶ足取りまで軽くなった。
◆
数日後、ユリウス様は白い薔薇の前で立ち止まった。
花壇を眺めて少し遅れた私が追いついても、彼は花を見つめたままだった。
「――ユリウス様?」
隣で声をかけると、ようやく気づいたように微笑まれる。
「すまない。今日は兄の命日で、少し思い出していたんだ」
ユリウス様がお兄様を亡くされたことは知っていたけれど、こうして直接、話を聞くのは初めてだった。
「昔、兄が母に贈ろうと言って、この辺りの花をほとんど切ってしまったんだ。僕は鋏を渡しただけなのに、一緒に庭師に叱られた」
「それでは、庭師もお困りだったでしょうね」
「僕も困ったよ。兄は半分を僕に持たせて、弟も母を喜ばせたかったんだと、実に立派なことを言ったから」
彼の視線が花へ戻ると、口元に残っていた笑みも、わずかに薄れた。懐かしんでいるようにも、寂しがっているようにも見える横顔。
その表情を見ると、私は考えるより先に手を伸ばしかけていた。
「ユリウス様。おつらいのであれば、私が引き取りますから……」
言いかけて、手を止めた。
寂しそうな顔を見たら引き受けることばかり考えてしまうけれど、彼は、花を見るだけで思い出すほどお兄様を慕っているのだ。
「……申し訳ありません。それでは、お兄様を大切に思うお気持ちまで、なくしてしまいますね」
彼は私の手を見てから、穏やかに頷いた。
「気遣ってくれて、ありがとう。でも、今日はこうして兄に会いたいと思っていたいんだ。もう文句を言い合うこともできないけれど、この気持ちは僕が持っていたい」
手を下ろしても立ち去りがたく、その場にいる私へ、彼が語り掛けた。
「よかったら、もう少し聞いてくれる? このままだと、兄が弟を巻き添えにした話で終わってしまう」
「では、ぜひ伺いたいです。叱られたままでは、お二人ともお気の毒ですもの」
「翌年は、兄が小遣いを貯めて花を買ってきた。僕は何も出していないのに、母には二人からだと言うんだよ」
母親に礼を言われて困っていると、兄が肩を抱いて、黙っていればいいと笑ったのだという。巻き添えにするのは叱られるときだけではなかったと話す彼の顔に、私も笑みがこぼれた。
話の途中で彼が黙ったときは、二人で花を見た。寂しさを取り上げなくても、こうして隣に立っていられたことが不思議だった。
「君は、お父上とよく何をしていた?」
ゆっくり歩き出してから聞かれ、私は昔の書斎を思い浮かべた。
父が生きていた頃は、あの家にも安心して座れる場所があった。
「窓辺で本を読んでいました。父は勉強していると思って褒めてくれたのですけれど、実は冒険小説ばかりで。私も訂正しなかったので、たいそう学問好きな娘だと信じていたはずです」
「お父上も気づいていたんじゃないかな。君が本の話をするときは、あまりにも楽しそうだから、僕も続きを聞きたくなる」
「そんなに、分かりやすい顔をしていますか?」
「少なくとも、僕はその顔が好きで、何度も本の話を持ち出していた」
返す言葉を探しながら歩いていたら、小石を踏んでよろけてしまい、彼に腕を支えられた。
目を合わせられなかった理由まで見抜かれてしまいそうで、ますます顔が上げられない。
「では、明日も聞いていただけますか。父が亡くなってからも、読んだ本の話をする相手がほしかったのです」
「もちろん。……明日の約束を取り付けるのは、今日は君に先を越されたな」
彼は頷いて、そっと腕を離した。私は礼を言いながらも、もう少しそのままでいてもよかったのにと思ってしまう。
部屋へ戻ってからも明日の約束を思い返し、あの人に会えるのが楽しみで、つい笑ってしまった。
◆
翌日、庭へ出る支度をしていた私に、家族の来訪が告げられた。
迎えに来たという母たちを、エリーヌ様が応接間へ通したらしい。鏡の前に座ったまま指先が冷えていき、結びかけていたリボンを落とした。
廊下へ出ると、報せを受けたユリウス様が来ていた。
「帰りませんと、自分で申し上げたいのです。一緒に来ていただけますか?」
声は頼りなく揺れたが、彼が頷いて並んでくださったので、私も顔を上げて歩いた。
庭に面した窓から風の入る応接間で、母はエリーヌ様へ愛想よく話していた。
私を見るなりその笑顔が消えた。その隣に座るフローラとエドガーも顔を上げる。
「ずいぶん元気そうね。フローラはあなたがいなくて大変だったのよ」
フローラは私の服からユリウス様へ視線を移した。
華やかな桃色のドレスが、やつれた顔をかえって目立たせている。
「お姉様ばかり、こんなところで楽しく過ごして。私、お手紙にも書いたでしょう?」
「ええ、読んだわ。それでも、私は帰りません」
母の扇子が閉じられる音に、喉がきゅっと縮んだ。
隣の彼の袖が触れ、私は一人で母の前に立っているのではないと確かめて、視線を戻した。
「リディア、皆様の前で我儘を言わないで。フローラが落ち着かないから、エドガー様にまで来ていただいたのよ」
「僕が一緒なら君も帰ってくれると、フローラが言うものだから。さあ、一度帰って、ゆっくり話をしよう」
昔なら迎えに来られただけで胸を弾ませていただろう。
けれど今は、彼を前にしても心は揺れなかった。
喜びも、期待も、失望さえもない。
ただ、風の止んだ水面のような静けさだけが、胸の内にあった。
「帰らないなら、今ここでいいわ。お姉様、この気持ちを引き取ってちょうだい。もう嫌なの、好きでいるのがつらいのよ」
フローラが立ち上がり、卓を回り込んで私の前へ来ると、手を差し出した。
綺麗に整えられた指が震えている。私も何度も窓に向かい、通り過ぎる馬車に落胆した。問い詰めれば嫌われると思って、笑って待ったこともある。
その手を取って引き受ければ、またあの人に会いたくなる。私を選ばなかった人に、もう一度選んでもらいたくなるのだろうか。
「君からも、そこまで気にしなくていいと言ってやってくれ。毎日会えないくらいで、僕を責めるんだ」
エドガーはフローラに答えず、私に向かって訴えた。
フローラの顔が歪んでも、彼は言葉を改めなかった。私に引き取らせれば、フローラが自分を好きでなくなることさえ、気にならないのだろうか。
責められずに済むのなら、彼にはそれで十分なのかもしれない。
「お姉様はもう平気なんでしょう? だったら、エドガー様も返すわ。それなら気持ちも引き取ってくれるでしょう。全部、元どおりにしてよ」
「フローラ、勝手に決めるな。僕は物じゃないんだぞ」
エドガーが眉を寄せたので、私は彼を見た。
私の恋心を譲る相談には、あんなに気前よく賛成していたのに、自分が返される番になると、急に話が違うらしい。
母も席を立って近づき、フローラの肩を抱いて私を見据えた。
「こんなに苦しんでいるのよ。あなたは慣れているでしょう。少しくらい、妹のために我慢してあげなさい」
胸が冷えて、私は母の顔を見つめた。
エドガーへの未練はなくなっても、母には一度くらい私をいたわってほしいと、まだ思っていたらしい。
何度も苦しんだのだから、もう一度苦しんでも構わない。
その言い分を聞いていると、これまでこらえてきた涙まで、粗末に扱われた気がした。
母はフローラの背を撫でていた。同じ家で育った私には、あの手で撫でられて泣き止んだ覚えがない。
「お母様――」
言いながら、目の奥が熱くなった。それでも、今ここで俯いてしまいたくなかった。
「私も、ずっとつらかったのです。フローラが泣かなくなった後、私が泣いていたのを、ご存じでしょう? もう、誰かを待って泣く暮らしにも、妹の代わりに泣く暮らしにも戻りたくありません」
「何を大袈裟なことを。手を取るだけで済むでしょう」
「その後に苦しむのは私です」
思いのほかはっきりした自分の声に支えられ、私はフローラの手を取らずに首を振った。
「婚約者も、恋心も、もう返していただかなくて結構です。あなたが欲しかったものなら、あなたがどうするか決めてください」
フローラの手が私の手首を掴んだ。爪が食い込み、反射的に顔が歪む。
「早くしてよ、お姉様。いつもやってくれたじゃない!」
「リディア、いい加減になさい。帰ったら、謝るまで部屋から出しませんからね」
鍵の回る音を思い出し、反発する力が緩む。その一瞬だけ、フローラの言うとおりにしてしまえば楽になると思った。
その時、動けずにいる私の横から、ユリウス様がフローラの手首を押さえた。
私と母の間に立つと、聞いたことのない低い声で告げる。
「彼女は嫌だと言っている。手を離して、下がってください」
フローラが憎々しげに手を離すと、母が慌てて口を開いた。
「公爵様、これは家の躾でして。この子は昔から、少し言い聞かせないと」
「閉じ込めると言われて、彼女がどんな顔をしたか、ご覧にならなかったのですか」
母の口が閉じても、ユリウス様はそのまま母に向き合っていた。
「私の前で、二度と彼女を脅さないでいただきたい。もちろん、あなた方の家へ連れ帰らせるつもりもありません」
エリーヌ様が使用人を呼び、馬車を回すよう命じてから、母に向き直った。
「お嬢様が心配でいらしたのだと思ってお通ししましたが、私の思い違いだったようですわね」
「お待ちください。私どもは、ただ」
「リディアさんは、私がお招きした大切なお客様です。どうぞ、お三方でお帰り下さい」
母は口を開くが、言葉が続かなかった。家なら私の名を強く呼べば済んだのに、ここでは誰も動かない。
エドガーに名を呼ばれ、私はユリウス様の隣へ出た。
「フローラは、あなたを好きでいるのがつらいと申しています。私に頼む前に、あなたが聞いて差し上げてください」
「君まで、そんな言い方をしなくてもいいだろう。僕はただ、二人が今までどおり仲良くしてくれればと……」
「そのために、リディアが苦しめばいいというのか」
ユリウス様の声に、エドガーは言葉を止めた。
私には不満そうに寄せていた眉が、公爵であるユリウス様へ向き直った途端、頼りなく下がる。
「いえ、公爵様、そういうつもりでは」
「私は公爵家の当主とはいえ、まだ若輩です。貴方とも、そう歳は離れていないでしょう」
ユリウス様は少しだけ、声の調子を落として言った。
「伯爵家の令息であるなら、自分の言葉と行いには、もう少し責任を持っていただきたい」
エドガーの顔が赤くなり、口元が引きつった。
いつもなら私の方が謝って、話を終わらせていた顔だった。
「私は、貴方がここでしたことを見過ごすつもりはない。嫌がる客人を連れ帰ろうとし、脅されていても止めなかった。今後、貴方の訪問は断る。彼女にとりなしてもらおうとも思わないことだ」
「お待ちください、公爵様。僕は、そこまで……リディア、君からも何か言ってくれないか」
彼は私を見たが、今度ばかりは笑って頼もうとしても、笑えないようだった。
母が慌てて彼の袖に触れたけれど、私を見る目は動かない。
伯爵令息が子爵家の娘に助けを求めている。それでも私の名を呼ぶ口ぶりには、まだ、呼べば来るはずだという甘えが残っているように見えた。
「失礼ですが――貴方に対する気持ちは、全てフローラに譲りました。貴方に何を言われても、もう心は動きませんので、私を頼りになさらないでください」
今度は、彼の方が目を伏せた。
彼が頭を下げたのはユリウス様に対してだったけれど、そんな彼に声をかける気も生まれなかった。
フローラが袖を引くと、エドガーはようやくそちらを向き、二人で扉へ歩き出した。
帰り際に母がもう一度私の名を呼んだときも、私はその場を動かなかった。
「お母様、何とかしてよ。お姉様が、あんなふうに……」
フローラの声が廊下へ遠ざかり、母が小声で宥めるのが聞こえた。いつもなら私に言いつけて済ませていたところだ。
扉が閉まっても、庭に面した窓は開いていた。風に揺れるカーテンを見ながら待っても、鍵の回る音はしなかった。
◆
終わってから、膝が震えはじめた。
ユリウス様に支えられて長椅子へ座ると、エリーヌ様はお茶を淹れ直しましょうと部屋を出ていかれた。
私は差し出された彼の手に自分から触れ、指を握った。
「怖かったです。あのまま連れて行かれたら、また言うことを聞いてしまうと思って」
「けれど、君は自分で帰らないと言った。ここにいてくれて、僕は嬉しい」
優しく言われて、とうとう涙が落ちた。
空いた手で拭おうとすると、彼がハンカチを渡してくれたので、私はもう片方の手を握ったまま、目元に当てた。
私の涙のために人が何かしてくれることに、また泣けてしまった。
彼は急がせず、私の指を包んでいた。
数日後、庭のいつもの席に腰を下ろすと、ユリウス様は向かいに座らず、私の前で立ち止まった。
薔薇の香りを運ぶ風が、彼の黒髪を揺らしている。本も持たず、私だけをまっすぐに見ているので、落ち着かない気持ちで背筋を伸ばした。
「リディア。君の返事が怖くて、月の話でもしたくなるけれど、今日はちゃんと伝えたい」
覚えのある言葉に顔を上げると、彼が照れたように笑った。
「君が来る日、朝から何度も玄関に行った。伯母に笑われても、部屋でじっと待てなくてね。あれほど人に会いたいと思ったのは、初めてだった」
徐々に頬が熱くなる私の前に彼が膝をつき、私の右手をそっと取った。
「一緒に話していても、もう明日会う理由を探している。君が笑うと、次も僕が笑わせたいと思ってしまう」
彼が一度言葉を切り、私の手を包む指にそっと力を込めた。
藍色の瞳がまっすぐに私を見つめていて、恥ずかしいのに、その目から視線をそらしたくなかった。
「リディア、君を愛している。僕の妻になってほしい」
庭で見つけた小さな花も、本の面白い一節も、この人と一緒に笑うために覚えておきたかった。会えない時間にも、私は彼と話すことを探していた。
「私も、あなたに会いたくて、毎日、庭へ出る時間ばかり気にしていました」
言うと、彼の緊張した表情がふっと緩んだ。
「ユリウス様」
今度は、迷わずに彼を見つめた。
「私も、貴方が好きです。どうか、これからも私と一緒に笑ってください」
彼がほっと息をついて笑い、立ち上がるのに合わせて、私も椅子を離れた。
彼の腕が背中へ回り、胸に頬が触れると、その鼓動も私と同じくらい速かった。
抱き返した腕に少し力を籠めたら、彼の腕にも力がこもったので、私はもう一度、ここにいてよいのだと思った。
◆
婚約が決まってからしばらくして、領地へ出かけたユリウス様から手紙が届いた。
窓辺で封を切ると、旅先の景色を綴った後に、早く君に会いたいと書いてある。
私はその一行を何度も読んで、頬が緩むのを持て余した。
返事の紙を出し、まず私も会いたいと書いた。それから、彼が帰るまでに話したいことが増えすぎそうなので、早く帰ってきてくださいと続ける。
窓の外では、二人で歩いた庭に日が差している。
私はもう一度だけ手紙を読み返してから、同じように会いたいと言ってくれる人へ、返事の続きを書き始めた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
作者的には、妹と母の処理が甘かったかなと思いつつ……。
ハピエンなのでよいかと。




