『絶対に離れたくない人』
妻がいる。
正確に言えば、半年後、離婚する予定の妻。
夫婦関係は、もう終わっている。
話し合いも済んでいる…はず。
離婚も決まっている…はず。
だから彼は、すでに独身男性のような顔をしながら、日々を過ごしていた。
戸籍上はまだ既婚者。
そして、その彼には、彼氏持ち、家庭持ちの、元彼女のセフレもいる。
彼女に彼氏がいることも、家庭があることも、彼自身の現状も、お互いに知っている相手。
幼馴染みの元彼女。
今は一年前からセフレだ。
つまり彼は、
「半年後に離婚する予定?の既婚者」であり、
「彼氏も家庭もある女性と親密な関係を持っている男」だ。
ある日。
彼に、好きな人ができた。
気付いた時には、
彼の心の中に、その人がいた。
その瞬間、彼の中で、すべての優先順位が変わっていった。
妻は?
離婚予定。
子どもは?
俺にはついてこないだろう。
セフレは?
彼氏がいる。
全て、問題ない。
……と、彼は思っていた。
いやいや。
……問題しかなかった。
「俺、好きな人できたわ」
彼は、友人に告げた。
「お前、離婚予定の嫁がいて、彼氏持ち、家庭もちのセフレもいて、そのうえ好きな人?」
「そう」
「お前の人生、渋滞してんな」
「今までで一番好きだと心から言える人なんだ」
「いやいや、口に出すのはいいけどさ、まず、今いる人たちとの関係を整理しろよ」
「わかってるけど、それより、好きな人の近くに居続けて、意識してもらえる相手になることの方が、今は何より大事なんだ」
友人は黙った。
彼は、本気だった。
好きな人から離れたくなかった。
そのためなら、何でもするつもりだった。
いや。
何でもするというより、
好きな人に嫌われる可能性のあることを、必死に避けようとした。
その結果、
彼の生活は、
かなりおかしなことになっていた。
妻との、期限付きを忘れるような、平穏な日常。
好きな人に嫌われないよう、必死にする仕事。
セフレから連絡が来るたび、どう返すべきか?悩む。毎回。
「まだ、今まで通りでいい?」
「いや、好きな人ができたから、もう会えないってちゃんと言う?」
「何も言わない?関係切ったら、怪しまれない?」
「いや、そもそも何を心配しているんだ、俺は?」
結局、
「予定見て、また連絡する」
と、先延ばしの返事を送る。
最低だ。
しかし彼は、自分が最低な行動をし続けている…ということより、
「このことを好きな人に知られたら、嫌われる」
それを一番に恐れていた。
彼の人生の判断基準は、いつの間にか一つになっていた。
好きな人に嫌われない、こと。
半年後の離婚の話を妻とするときも。
妻との生活を整理するときも。
セフレとの関係をどうするのかも。
すべての基準は、
「好きな人に知られたとき、嫌われないか?どうか?」
だった。
ある日、
彼は好きな人に唐突に言う。
「俺、ちゃんとするから」
彼女は首をかしげた。
「えっ?何?」
「全部ちゃんとするから」
「何?どうしたの?」
彼は何も答えなかった。
離婚する。
生活を整理する。
人間関係を整理する。
自分の過去を片付ける。
そして、好きな人の一番近くに居続けられる男になる。
彼の頭の中では、壮大な人生再建計画が進行していた。
しかし現実は、
妻…離婚は半年後。
セフレ…関係の終わりを告げられず、だらだら続いている。
借金も完済出来る目処はまだない。
仕事も忙しい。
けれど、肝心の本人は、
「好きな人の傍から離れないように」
と、毎日必死に生きている。
ある夜、友人が言った。
「なあ、お前さ」
「何?」
「好きな人に嫌われないようにって頑張る前に、まず自分の人生を、まわりを、ちゃんと片付けたほうがいいんじゃない?」
彼は真剣な顔で考えた。
「……それをしたら、好きな人から離れなくて済む?」
「知らねえけど、今よりましにはなるんじゃね?」
「じゃあ、やる」
「動機、全部そこか」
彼は今日も頑張っている。
離婚に向けて。
借金返済に向けて。
セフレとの関係の整理に向けて。
その理由は、
好きな人から離れないために。
かつて彼は、
「自分の人生を自分らしく生きたい」
と、そう思っていた。
今は全く違う。
好きな人に嫌われないように、そのためだけに生きている。
そしていつの日か、
好きな人の傍から離れなくていい存在になるために。
それが、今の彼の最優先事項だ。
ちなみに、
彼の好きな人は、
まだ何も知らない。
離婚予定の妻と暮らし、
彼氏と家庭のある元彼女のセフレを持ち、
借金を抱えながら、
自分の一番近くにくるために、
そしてそこに居続けるために、
彼が、
毎日を今必死に生きている、
ということを。
彼は今日も、
大した用はない連絡を、
好きな人に送る。
挨拶のスタンプや、短い返事が彼女から来るのを、
妻やセフレと過ごしながら、
何時間も待つ。
既読はない。
当然返信も、まだだ。
たったそれだけのことに、
嫌われた?
彼は焦る。
iPhoneを置く。
「いや、忙しいだけだろう」
三分後。
またiPhoneを手に取り、確認する。
「……やっぱり俺、嫌われたのかな?」
返事が来るまで、
それを延々と繰り返すのが、
彼の日課だ。
その頃、
なかなか返事をしない彼の最愛の人は、
そんな彼の気持ちなど何一つ知らず、
連絡にも気付かず、
友人たちと楽しく遊んでいた。
彼の頭の中だけで着々と進行している、
壮大な人生再建計画。
彼がそれを実現するのは、だいぶ先になるだろう。




