魔性の女と婚約した伯爵令息の顛末
伯爵令息ネイト・シルヴァンは、五回縁談が破談している。
雨上がりの陽の光のような澄んだ銀の髪に、おそろしいほど整った顔立ち。初代王より仕えしシルヴァン家は宮中で政を支えている。
跡取りであるネイトは学業に武芸にと励み、王太子からの覚えも良い。王立の学園では生徒会長である王太子の右腕として、副会長を務めている。
欠点は女性関係だ。特にネイトが女性にだらしないだとか、無意識にたらし込んでいるというものではない。
見合いをした女性たちの話題は乏しく、刺繍が得意、ピアノのレッスンを受けているなど、似たり寄ったりの会話ばかり。
夜会では大勢の令嬢たちに囲まれる。学園でも勉強を教えてほしいと令嬢たちが寄ってくるが、本気で学びを乞うた者は何人いたのやら。
一度、平民の特待生に、どんな勉強の仕方をしているのか教えてほしいと声を掛けられた。自分に合う学び方はそれぞれだろうと告げた。
令嬢たちはネイトの秀麗さに魅入り、家名にすり寄るばかり。彼女たち自身は一体何を磨いているのだろう。
そんなわけで、ネイトの婚約者は、いまだに決まっていない。
今年でネイトは学園を卒業する。通常、この国の貴族は、幼い時分、あるいは学生の間に婚約する。なかなかの未聞だ。
しかし、ネイトは彼の令嬢たちと共に道を歩む未来をどうしても想像できなかった。
両親も心配しているし、なんとかするべきなのだろう、ただ、どうやって?考え込んでいると、「ただ下を向いているだけなのに妙に絵になるな、見慣れた在校生はともかく一年生には目の毒だ」と王太子のリューシュにからかわれた。
生徒会室で、いくら仕事の休憩中だったとしても気を緩めすぎてしまった。
「すみません、何か御用でしたか?」
「いや、珍しくぼんやりしていたからどうしたのかと思っただけだ」
生徒会は現在、校則の改正を進めている。頭が固い教員の説得や、諸々の手続きが面倒でこれまでずっと後回しにされてきたが、現在に合わない古いしきたりが多すぎるとリューシュが動いたのだ。
「それで、憂い事はなんだ?」
リューシュは一口紅茶を飲むと問うた。
「生徒会関連ならそんな憂鬱そうな表情はしないな、他のクラブからのしつこい勧誘は副会長になってからはなくなった、となると、また縁談でも失敗したか? 今のお前の目下の問題といえばそれくらいだしな」
ひとつひとつ憶測を立てては破ってゆく王太子。実に側近候補をよく観察していると、ネイトは感心する。
「まだ新しく見合いはしていません」
「まだ」
苦笑するリューシェに、言い訳もできない。
「お前も少しは将来について考えるようになったか、それだけでも進歩したな」
「申し訳ございません、ご懸念させてしまいましたか」
「お前が良い縁を結べたらいいと思っているだけだ、そうだ、俺も協力してやろうか」
「え」
「お前とはそれなりに付き合いが長い、相性が良さそうな女性を見繕うくらいならできるかもしれん」
「し、しかし……」
確かにネイトは一人で解決するには限界を感じていた。だが、こんな私的なことで殿下の手を煩わせるなど、己が許せない。
「強制じゃない、嫌なら断ればいいだけだ、もちろん相手側も同じ条件だ」
──お前、自分が振られる側にならないと思っているだろう
暗に指摘され、ネイトはたじろいだ。そんなこと、考えたこともなかった。
「……といっても、実際目利きするのは俺じゃない」
リューシェがクッキーを摘まんだと同時に、ゆるりと空気が弛緩する。
ネイトは新しく紅茶を淹れようと席を立った。
「俺が一番信用している女性に頼むつもりだ」
王太子は誇らしげに語り、愛おしげに目を細めた。
「──と、いうわけで、殿下からシルヴァン様に釣り合うような女性がいないかと相談されましたの」
王太子の婚約者であるケイティは、茶会でネイト・シルヴァンについて話をした。
通常の茶会は庭や応接間で行われるが、今日は私的なものなので談話室を利用している。
ケイティ専用のその部屋は、家具も調度品も彼女好みに整えられ、庭にある薔薇園が窓から一望できる。落ち着いた色合い室内に、窓越しの鮮やかな花弁の虹。ほのかに漂う薔薇の香りも菓子や紅茶の邪魔にならなかった。
「かわいらしいおひとね」
「貴方がかわいくないと思う男のひとなんていないでしょう」
「だって、まさに男の子って感じじゃない」
「ところで、お断りされた令嬢方のその後はどうなったのでしょう……?」
「安心なさって、皆様、それぞれ素敵な出逢いをなされましたわ」
ケイティが心許している三人の友人だけが参加した茶会は、始終なごやかだ。
ネイトに熱を上げている女性はここにはおらず、他人の恋模様で騒ぐほど軽々でもなかった。
「ケイティ様はもうお選びになられているのではありませんか?」
ケイティはそっと微笑んだ。
いくら親しい仲といっても、何の案も立てず婚約者からの相談事を口に出すわけがないのだ。
「ローリー」
「あら、あたし?」
呼ばれたのは、真っ先にネイトをかわいらしいと褒めた少女だ。
「貴女も今年で卒業でしょう、そろそろ身を固めては如何?」
「あたしはいいけど、あちらはどんな反応するかしら」
社交会の華、ローリー・エイベル伯爵令嬢。
麗しいかんばせと妖艶な肢体は男性陣を魅了する。実際、多くの男がローリーへ跪き、花を贈り、夜会でのエスコートの権利を求める。
「決めるのはシルヴァン家ではなくてよ」
ケイティが選んだ今日の茶葉は、すっきりとした香りでほろ苦く、あまいマカロンとぴったりだ。
「貴女のお眼鏡にかなわなかったならば、その程度」
ローリーは先ほどまでマカロンを摘まんでいた指先を舌で舐めた。行儀が悪いと窘められるが、もちろん公の場でこんな仕草は絶対にしない。彼女たちといる時のみだ。
薄くもやわらかそうな唇から赤い舌がちろりと蠢き、白い指を這う様は、なるほど魔性の女にふさわしい艶美さだ。
「いいわ、逢ってあげる」
ローリー・エイベル伯爵令嬢とネイト・シルヴァンの婚約が結ばれた。
魔性の女が遂に一人のものになる。
彼女の虜であった男たちは血の涙を流した。
一方、ネイトのファンであった令嬢たちは、一部はハンカチを噛みしめたらしいが、ほとんどが冷静であった。
それもそのはず。
見合いで着飾らない令嬢などいない。香水だって当然のたしなみである。
派閥の筆頭の娘ならば、夜会でネイトへの挨拶の機会に、己の派閥の同性を紹介することだってある。
「あわよくば誰かが花嫁候補に、と思惑もなかったわけではありませんが、彼の性格上無理でしょう、それくらい見当がつきます」
侯爵令嬢のキャロルは、談話室での茶会でため息を零した。
王宮で働いているキャロルの父が、ネイトの父と繋がりがあるので挨拶をした。それだけだったというのに警戒されたなど、堪ったものではない。
「あいつ、そういうところあります、というか、そういうところしかありません」
平民の特待生であるサラも、談話室での茶会で怒りを露わにした。
貴族としてのマナーや、学問の基礎などは家で家庭教師から学んでいる。将来、結婚し夫人としての務めを果たすのならば、それで十分なのだ。
己の生活を会話の切り口にするのは自然なこと。そこから日常や趣味、興味のある分野などお互いに知りあっていけたらと期待するではないか。
……それを
──普段はよく刺繍をしています
──へえ、そう
ぶった切られては始まるものも始まらない。
そんな前提がありながらも学校へ進学する令嬢たちの第一目標が、婚約者探しなわけがない。まったくいないこともないが、ごく僅かだ。
爵位を継ぐ一人娘はより深く学ぶ。職業婦人を目指す令嬢は専門的な知識を求める。王宮の官女の試験を受ける令嬢も多い。
サラだって良い就職先に就けるよう、貴族ばかりの学園で平民の代表として恥じないよう、必死に学んでいるのだ。
そんな事情を知ろうともせず、お洒落ばかりに気を取られており辟易する、などと平気で思い込んでいるあの野郎!
「単純に記憶力が凄かったから、どんな覚え方してンのか気になっただけなのに!勉強法くらい教えてくれたっていいでしょう!なァーにが「参考にならないだろう」だ! スカしやがって、あンの×××××!」
「まあ、シルヴァン様の真似が上手ねサラ、それはそれとして訛りが戻っていてよ」
「あ!お耳汚しをすみませんケイティ様!」
「罵倒はいいのですか……?」
キャロルは暴言の方が気になる。
サラから平民の嫌味や売り言葉はそれなりに聞いているのでもう慣れたが、初めて罵詈雑言を耳にした時はあまりの衝撃に失神しかけた。
「わたくしたちは遠回しなお喋りが得意でしょう」
「それは……そのように教えられていますから」
「ふふ、そうね、だから直接的な悪口ってあまり知らないでしょう?でも、いつか必要になるかもしれないし、覚えておいて損はないと思わなくて?」
「……そんな日が来ないよう努めます」
どんな状況だろう、とキャロルは想像しようとしたができなかった。ケイティが堂々と罵倒する姿はちょっと想像できてしまった
ローリーはネイトの評判の悪さも軽やかに笑う。
「やっぱり、かわいらしいわ」
あれもいや、これもいや。そんな女性の理想が高い、もとい、女性に夢見がちな気難しいお坊ちゃんが、いつまでも選ぶ側なわけがないのだ。
王太子に指摘されたというのに、そんなことにいまだに気づいていない甘ちゃんは、それはそれはローリーに夢中になった。
交流を深めようと、ネイトの家で、ローリーと二人きりの茶会が定期的に開かれるようになった。
ネイトはローリーが好む菓子を訊ねてはいそいそと用意し、飾る花を自ら剪定し、会話の種になりそうな情報をせっせと調べた。
「ローリー、その手紙はなんだ?」
「前にデートした方が、あたしたちの婚約をお祝いする手紙をくれたのよ」
「そんな手紙捨ててくれ!」
「せっかくお祝いしてくれたけど、アナタが望むならそうするわ」
すっかり骨抜きである。
エイベル家はもともと化粧品や美容商品などの商売に力を入れており、ローリーも実家に一役買うつもりで学園に入学し、特に栄養学の研究でめざましい成績を出した。
美容だけでなく健康そのものを意識し開発された新たな商品は、顧客の年齢層を広めた。
そもそも魔性の女と称されているローリーだが、個人的に浮名を流したことはなく、誰かの婚約者を奪ったこともない。勝手に男性が侍ってくるだけ。その美貌、その妖美さにひそかに憧れている令嬢も多い。
魔性の女を悪評ではなく広告に変える、その手腕。
シルヴァン家からの反対はなく、ローリーは婚約者と決まった。
「ケイティ、君は実に予想外のことをしてくれるな」
学食にて昼食を共にしていたリューシュとケイティは、同じく昼食中のローリーとネイトを眺めている。
「忍耐強い、健気な淑女の方がよろしかったでしょうか」
「まさか、あいつは女性に振り回されるくらいで丁度良い」
副会長と魔性の女の婚約は学園中に知れ渡っていながら、ローリーに近づこうとする男子生徒はちょくちょく現れる。
今日も今日とて頼んでもいないのに、食堂で彼女の座る椅子やテーブルを拭いたり、食器を片付けようとしたり、通学時に彼女の鞄を持とうとする。もはやしもべである。
ローリーはしもべに笑顔で「ありがとう」とお礼を言う。
「ええい、ローリーの隣は私だけのものだ!」
「隣ではありません、三歩後ろです!」
「お役に立てるだけで本望!」
「詭弁か!いや本音か!どちらにせよ私の婚約者に近づくな!」
「つれないことを仰らないでください婿殿ぉ!」
「誰が婿だ……私だな!そうか、婿か……」
平民の生徒たちが集まる席では、サラがテーブルに突っ伏して震えていた。時たま顔を上げネイトを見ては笑い声を上げるのを我慢する。他の平民の生徒はそんなサラの背中を撫でたり、水を持ってきてやったりと世話をしてやった。
一方キャロルも、同じ派閥の女生徒が実に面白そうにネイトを観察するのを止めなかった。
「シルヴァン様、すっかり名物になってしまいましたが、よろしいのですか?」
「スカし野郎よりはマシだろう」
「あら……ご存じでしたの」
ローリーは、賑やかなネイトとしもべたちを微笑ましく聞き流し、のんびりとデザートのショートケーキを食べている。ふわふわの生クリームに瑞々しいイチゴを口に含んだだけなのに、どことなく淫靡である。
「エイベル嬢は余裕だな」
「彼女にとっては、みんなかわいらしい、ですから」
婚約前に、ローリーはネイトに確認した。
結婚しても、おそらく一生ローリーは変わらない。男たちを魅了し、そんな男たちをかわいらしいと愛玩する。
誤解されがちだが彼女は乙女だ。誰かと一夜を共にしたことなどない。
「だって、初夜は婚約者とするものでしょう、旦那様の願いもなんだって叶えられるようにがんばるわ、誰かと添い遂げるってそういうことよ」
男たちがローリーに尽くしてくれるように、ローリーも夫に尽くすことを当然としている。
「あたしが与えられているのは愛よ、あたしが愛するのは旦那様だけ、でも、これからもあたしは男たちの愛を拒まないわ、そんな寂しくて悲しいこと、あたしには絶対にできない」
ローリーにとって他者からの愛とは、受け入れて、大事に愛でるものであり、決して拒絶し、ましてや捨てるものではない。
「これを浮気と、最低と思うならお別れしましょう、アナタが苦しむだけだもの」
ローリーは自分のこの本質をよく理解していた。
魔性とはよく言ったものだ、一般の価値観ではあり得ない。
「君は……それでいいのか……?」
ネイトは愕然とした。
「ええ、あたしはあたしを変えられないもの、もともと一生独身かしら~とも思っていたしね」
別段、ローリーは人生に悲観していない。
「栄養学の勉強はとっても楽しいし、研究者として生きていくのも悪くないわ、うちの事業を別にしても、美しくなるお手伝いができるのは嬉しいもの」
いつか愛が与えられなくなったとしても、ローリーは世界を愛して生きていく。
ローリーは既に嫁ぐ覚悟も、破談される覚悟もできている。
「あたしのかわいいこ、あたしの最低な条件を受けるかどうか、アナタが選んで」
ネイトは悩みに悩んだ。三日三晩眠らず、食事も喉を通さず、苦悩した。
目には濃い隈、げっそりとやつれ、なお崩れぬ美貌はまるでゴースト。ぎょっとした王太子が「仕事なんてしている場合か、眠れなくても横になってろ」と生徒会室から追い出した。
恋したひとからの特別が欲しい。特別を独り占めしたい。ネイトが望めば、きっとローリーはネイトだけを特別扱いしてくれる。それでも、ローリーはネイト以外の恋も愛も抱きしめてしまう。
果たして耐えられるだろうか?彼女を詰ってしまうのではないか?どれだけ責めても、きっと彼女は謝らない、抱きしめたどこぞの馬の骨の愛に対して失礼になるから。
ああ、それでも……それでも!
──最初からわかっていたとも
これだけ悩んでいる時点で、彼女を手放すなんてできないのだ。
「ああいった殿方は、彼女のようなタイプにとことん弱いですわね」
底なしの沼に溺れてゆくだけ。手を差し伸べてくれるのは、沼に足を滑らす原因となった彼女。
ケイティと魔性の女の視線が交わった。もごもごとケーキを飲み込んで小さく手を振った友人に、ケイティは笑みを返す。
ネイトもローリーの視線の先に気づき、生涯仕えたい殿下に醜態を晒してしまったことに血の気が引いた。
リューシェが愉快げにひらりと手を振れば、真面目な男はますます身を縮こませた。
「からかうなんて、意地悪ね」
ケイティが婚約者へ囁いた。
「いやなに、頭は切れるが融通のなさがな、どうしたものかと思ったが」
余計な敵を増やしやすい男を側近にするのは躊躇いがあった。
だが今は。
「婿殿、結婚式には呼んでくだされ、祝福の歌を歌いまする!」
「呼ぶか!いらん!いや、えっ、貴殿は音楽家の御子息……」
「ご存じでしたとは!感激でございまする!」
「離れろ!拝むな!拝むならローリーにだろう、いや違うするな去れ!」
せいぜい、自分の思い通りにならない婚約者とそのしもべたちに鍛えられるといい。
リューシェにとって上々の婚姻だ。流石は我が自慢の婚約者の采配だが、一体どこまでが彼女の手のひらの上なのか。
「君はここまで想定していたのか?」
「まさか!買いかぶりすぎですわ、わたくしはただ、ひとりでも勝手にしあわせになれる親友のしあわせが、もっと増えたらいいなと願っただけですの」
ネイトを見つめるローリーは、いつもよりちょっと無邪気な表情を浮かべていた。