ここからが本番
準備を終えて部屋を出る。この建物は貴重だ。壁に花丸の目印を残す。
「…行くか」
変わらず北東へ進む。奥へ進むほど倒壊した建物や即席のバリケードが増え、パンデミックの時に誰かが過ごした痕跡が残っている。
その亡骸は首に鎖を巻かれ、壁に項垂れていた。ゾンビになる前に、自分で動けなくしたのだろう。
「…なんか、人のいた跡がありますね。今まで無かったのに」
「外側まで出てきた奴らは逃げ切ってるから」
だが、都会から逃げてきた人間がゾンビ化し、また次の人を襲う。報道が止まり、ネット回線が死んだ後も、ゆっくり、しかし確実にゾンビは増え続けた。
この小さなビルは小規模なコミュニティだったのだろう。布団の跡や食べ物の痕跡が残る。だがここにある物は使わない。もう使える状態ではないのだ。外縁15km調査でそう判断して以来、回収員たちは奥には深く入らなかった。
乾ききった亡骸からはもう虫も湧かない。リズが嫌そうな顔をするので距離を取る。
「…ここら辺、虫の気配も無いな」
カワイが周囲を見渡す。言いたいことはわかるが、カワイほど気配に敏感でもない。
「ボーダーライン際はいつも少ないですよ」
ミナトが答える。耳慣れない言葉に問い返す。
「ボーダーライン?」
「外縁10km地点から胞子の量が急増します。ベゴニアさんもご存知ですよね?」
知らぬ間にそんな呼び方が定着していたらしい。
昔はこれを「胞子の壁」と呼んだ。まるで線を引いたかのように、その先で胞子が急増する。逆にこちら側は数えられる程度で、外縁10〜15km付近は胞子がびっしり漂う。その先にも建物は見えたから、どこかで再び途切れるのだろう。
「…なんか、キモいっすね」
「虫の巣窟だ。キモいで済めば楽でいいけどな」
あくまで調査だ。危険だとわかれば即撤退する。
ここまでの虫は、ちっちゃい甲虫と、鎌を持ったセミ。前回の工業地帯で見たデカ虫は「要塞種」と名付けられているらしい。
胞子の中へ入る。白とも緑ともつかぬ粒子が漂い、視界が曇る。
「…これ、本当に目に害はないんですか?」
胞子を払いながらシライシが尋ねる。
「これらは死体にのみ作用しますが、殺傷能力はありません。あなたが死なない限りただの霧です」
ミナトが答える。
「吸い込むと?」
「特に害はありませんが、大気汚染もあるのでガスマスクは外さない方がいいです」
「ミナト達はどこまで調べた?」
「10km地点までですね。そちらのケラ喰いや他にも幾つか新種が確認されています」
踏みつけた胞子の塊が砕け、周囲に白い粉が舞う。
横で「バサリ」と音がした瞬間、斧に手をかける。
黒い塊が目に入る。ギリギリ致命傷は避けたが、左肩を少し抉られた。
「ミナトさん!なんすかこれ!」
お団子がメイスを構える。見たことのない虫だ。
2mはある黒い甲殻、白錆のような胞子をまとい、スラリとしたゴキブリにクワガタの鋏をつけたような姿。
壁に張り付いて歩いてくるが、足音が無い。
「…わかりません。初遭遇です」
虫が羽を広げたかと思えば、一瞬で距離を詰める。カリンに迫ったところを、オダンゴがメイスで弾き飛ばす。
「…重っ!」
体勢を崩したオダンゴに虫が再び飛びかかるが、カリンとシライシの援護射撃が阻む。
だが散弾では甲殻も羽も割れない。
「…襲われた瞬間にカウンター取るしかないな」
「速すぎる…射撃で落とせますかね?」
「おい、ベゴニア。もう1匹いるぞ」
いつの間にか2匹目に挟まれている。虫は相変わらず歩く時は静かだ。
「二手に分かれるぞ。カリン、リズ、ミナト、こっちで通常弾で援護」
斧を構えた時、虫の動きが止まった。
「…止まった?」
「そっちも?」
原因はすぐにわかった。タネだ。
そわそわしていたが、ようやく虫に気づいたのか飛びかかる。
だが虫も速い。飛んだ瞬間に回避する。
いつもの虫ならそのまま逃げるが、こいつは反転してタネに襲いかかる。
その線上にカリンの射線が重なり、ペレットが虫の頭に撃ち込まれる。
のたうつ虫にタネが噛みつき、食い始める。
「…カリン、ナイス」
「上手くいって良かったです」
カワイ達の方に向き直る。飛び回る虫はなかなか襲ってこない。
撃つのをやめると動きを止め、周囲の音を探っているようだった。
その時、瞬間すぎて理解できなかった。
目の前の虫が一瞬で貫かれていた。
長い何かが虫を貫き、そのまま地面に転がる。
視線の先にはケラ喰い。
獲物を刺した尻尾を引き戻している。腕は6本。
「ボーダーライン」
外縁10km地点から胞子が急増し始める地帯の通称。虫の生息域と同心円状に広がっていると推測され、視界不良と高濃度胞子の影響で強力な虫の出現頻度が高くなる。回収員の活動域の限界線とされ、基本的にこのラインを超える調査は高リスクとされている。




