Part8 私じゃなかっただけ
佐々木 亜優
仕事は完璧にこなし、人間関係も大切にしている20代の女性。若くして結婚もしており、傍から見れば人生の勝ち組なのだが、彼女には現在不倫疑惑がかけられている。
※今回はPart6、7の続きとなります。
1年以上更新が空いてしまったため、前回までのあらすじを忘れてしまっている方や、より深く物語を楽しみたい方はPart6から再度読むことをオススメいたします。
「ねーねーおかーさん、今日もテストで100点だったよ!」
「さすが亜優ね。とっても賢くて良い子だわ」
これは、20年ほど前。
佐々木 亜優が、まだ小学生だった頃の話だ。
そこには、赤ペンで沢山丸がつけられた答案用紙を嬉しそうに見せる亜優を、優しく抱きしめながら、ゆっくりと頭を撫でる母の姿があった。
このとき亜優は、テストで何連続も100点を叩き出していた。
勿論それは簡単なことではなく、毎日何時間も勉強をし、友達と遊ぶことも我慢し続けていた。
それでも、彼女にとってはそれが幸せだった。
沢山努力して、その度に大好きな母に褒めてもらう。それが嬉しくて、また努力をする。
どれだけ大変でも、そんな日々が好きだったのだ。
しかし、それをいつまでも続けていられる程、勉学とは単純ではなかった。
「84点……こっちは87……」
更に学力を伸ばすため私立の中学校へ進学した亜優は、初めての定期考査で数学や英語などの新たな科目に苦戦し、小学生の頃ほど思うように点数を取れずにいた。
返された答案とにらめっこをしながら、変わることなどない数字を受け入れ、ため息をつく。
互いの点数を見せ合って笑い合う男子たち、不満な点数に愚痴り合う女子たち、そうしたいくつかのグループのいずれにも属さない亜優は、ひとり静かに答案用紙をファイルに挟み、鞄へと仕舞った。
そして、いつも通りの授業を終え、家路につく。人の少ない電車の座席にひとり座り、試験を終えた息抜きにとイヤホンをつけて動画を観る……が、何も頭に入らない。
目と耳から得られる情報を、脳が処理しないまま流れ出てしまうのだ。
周りと比較して高い点数でも、彼女にとっては80点台などあり得えなかった。そんなあり得ない点数を取ってしまった亜優に気分転換をする余裕はなかった。
「ただいま……」
誰に向けたものでもない覇気のない声は、玄関の扉が閉じる音にかき消された。
「あら、おかえり」
「ただいま」
今度は台所で洗い物をしている母に言う。
水の音にかき消されてはいたが。
「確か、今日はテスト返却日よね? どうだった?」
水を止め、高得点のテストが返ってきていることを前提に考え、嬉々として話しかける。
「えっと、出すからちょっと待って」
数日前、自信満々であることを母に伝えていた亜優は今回の試験を見せたくはなかった。ファイルが中々見つからないフリをしながら、白々しく鞄の中を漁る。
悪い点数ではない、むしろ学年の中では高い方だ。しかしこれまで1位を走り続けてきた亜優にとって、今回の点数は意気揚々と見せられるようなものではなかった。
とは言え、中学生になって初めての試験ということもあり、「よく頑張ったね」ぐらいは言ってもらえるんじゃないか、私の母親は優しいんだから……そんな淡い期待を抱きながら、ファイルから何枚かの答案用紙を取り出した。
「はい、これ」
「はい、受け取りました」
母は笑顔で答案用紙を受け取る。
「84……」
「う、うん」
そう呟いた母は、先程まで見せていた笑顔は一瞬にすぅっと消えていく。
「そっか、84か」
それ以上は何も言わず答案をキャビネットに仕舞い、再び皿を洗い出す母。その様子に亜優は、安堵した反面、恐怖を覚えていた。
怒らないのだろうか、そもそも怒っていないのだろうか……亜優には母が何を考えているのかわからなかった。
この時、初めて取った80点台と初めての反応を見せる母の様子は、亜優の記憶に深く深く刻まれることとなる。
それから幾度となく試験を受けるが、その度に点数は右肩下がりで落ちていく。
「あり得ない」「こんなはずじゃなかった」と何度心の中で叫んだか。やがて母は答案を見ることもなくなり、かつてのような期待を込めた眼差しを亜優に向けることも無くなった。
私は天才なんかじゃない。
時間と労力で誤魔化していただけだ。
残念ながら、世の中に天才はいる。
それが私じゃなかっただけだ。
そう考えるようになってから亜優は、家に帰るや否や逃げ込むように自室へ入り、ベッドのシーツを両手でしわくちゃにする日々を送り、食事や入浴の時以外、部屋から出ることはなかった。
頑張りたくない。
頑張った結果、苦労に見合った結果を得られない現実を見るのが怖い。
だけど、それ以外の生き方を知らない。
努力と結果を認められることが生き甲斐だった亜優は、他者からの期待を失い、努力の結果も得られなくなる。そんな自分を自分で追い詰めながら、見えない何かに怯え続ける。
そんな生活から簡単に脱却することなどできず、再び四季は巡り、夢や目標などを何も掲げぬまま高校生となった亜優。
本来行けたはずの高校のレベルよりも少し下の高校へ進学し、成績は学年で上位をキープしていた。
「ねえ、ここってなんて書くの? さっきの授業すっごい眠たくてさぁ」
そんな亜優のもとに、一人の女子生徒が現れる。彼女は長く茶色い髪をクルクルと巻いており、黒い髪を真っ直ぐに伸ばしている亜優とは全く異なる容姿をしており、話し方や行動さえも違う彼女は、亜優にとっては別世界の人間だった。
「えっと、ここかな?」
成績トップとまではいかずとも誰よりも真面目に授業を受け、おとなしい性格の亜優を頼る者は少なくなかった。それ故に彼女とも何度も同じやり取りをしており、慣れた様子でノートをパラパラと開く。
開かれたノートはどのページにも文字がびっしりと書き込まれており、勉強漬けの生活は変わっていない様子だった。
「うわっ、相変わらずすっごいノートだ……」
「次こそ授業中起きてられるようになるといいね」
「ムリムリ、あたしが起きてられるような面白い授業をオッサン教師ごときができるわけないじゃん!」
「あはは」
どんな授業でも寝てる癖によく言うよ。
喉まで出かかった言葉を呑む。
「とにかくありがと! 後で返すから!」
「うん」
クラスメイトは渡されたノートをぱたんと閉じ、両手で持ったたま自身の席へと戻っていく。
「ノートが返ってこなかった事はないし、悪い子ではないと思うんだけどな……」
机に頬杖をつきながら、思わずそんな言葉が漏れ出す。
頭の中では少々冷ややかな言葉を浴びせながらも、なんだかんだ頼られるのは嬉しかった。
それに、彼女はいつも亜優だけを頼る。もしかしたら自分を信頼してくれているのかもしれない。もしかしたら仲良くなれるのかな……。
そんなことを考えていると、いつの間にか時が過ぎ次の始業のチャイムが鳴る。
……そして数時間後。
6限が終わり、皆が鞄を持って教室を出ていく。
亜優は忘れ物が無いよう机の中を確認し、教室を出ようと左肩に鞄をかけて教室を出ようすると……。
「ちょっと待ったー!」
例のクラスメイトが慌てた様子で亜優の前に走ってきた。
「あっぶなぁ、これ返す前に帰っちゃうところだった! はいこれ!」
右手に持っていたノートを差し出す。
「ああ、すっかり忘れてた」
「これが無かったら勉強できないっしょ?」
「ふふっ、そうだね」
「なんか嬉しそ。どした?」
何気ないやり取りで、ただ貸したものを返してもらっただけなのに、何故か亜優は喜んでいた。
「ううん、なんでもない」
亜優はそう言って、微笑みかける。
「そっかそっか。んじゃあね!」
「またね」
ノートを手渡ししたあと、小さく手を振り、小走りで数人の友達の方へと向かって行った。
亜優はゆっくり手を振り返し、手に持ったノートを見つめる。
一度は何もかも嫌になって、全て投げ出したくなった。それが何よりも簡単な選択で、楽だったからだ。
それでも、真面目に勉強をして、ノートを書いていたおかげで新しい縁ができるかもしれない……できたらいいな……と、そんなことを考えながら亜優は手に持ったノートをそっと机の中に仕舞い、教室を出る。
窓から差し込む沈みかけの太陽の光に照らされた廊下を、沢山の生徒が通っている。
殆どが同じ方向に流れており、亜優もその流れに乗って歩く。
左肩の鞄をかけ直し、少し早歩きになる。
右手の人差し指で右足に履きかけたローファーのかかと部分を広げ、足を入れる。上手くはまらず、かかとで地面を蹴り、勢いに任せると足はかかとは難なくすっぽりとはまった。左側も同じように履き、上履きをロッカーに仕舞う。
ガラスで出来た大きな扉を潜り校舎を出ると、沈みかけの太陽が街中を明るく照らしていた。
まるでマンションや木々が自体が、眩く輝いているかのように見えた。
何度も見ているはずのその景色が、不思議と特別に感じる。
……とはいえ、少し眩しい。
く亜優は両手をサンバイザーの様に額に当てて光を遮り、歩き始める。徐々にズレ落ちる鞄を左手で直し、歩き続ける。
その足取りはいつもより軽やかだった。
些細な幸せとそれに気づくキッカケがあれば、人は何度でも前を向くことができる。
たったひとつの出来事で絶望するのと同じように、前を向くための出来事がひとつあれば、案外コロッと心が変われることもある。
そうすればまた、理想を追い求められる。
……もう少しだけ頑張ってみようかな。
そんな風に思えた。
「ただいまー」
玄関の扉を開けて、不意にいつもよりほんの少し大きな声が出る。
「おかえり。これから勉強?」
2階の自室へ向かう亜優を見て、居間に座ってスマホを見ていた母が訊く。
「うん。今日とったノートで復習しようと思って」
「ふぅん……」
「なに?」
「いや、なんかニヤニヤしてる気がして」
「ええ? 気のせいだよ」
「まあいいわ。勉強頑張って」
「言われなくても頑張るよ」
亜優はそう言い、階段を登って自室に入り扉を閉める。
「彼氏でも出来たのかしら」
母はボソッと呟きながら、液晶に指をスライドさせた。
「さてと」
亜優は鞄を床に置き、座ってチャックを開けノートを探す……が、どこにも見当たらない。
「あれ……?」
教科書の隙間、ファイルの中、弁当箱の下、あらゆるところを探してもノートは見つからない。
もしかして、学校に忘れた?
そういえば帰るとき間違えて机の中に入れたような……。
鞄の次は、記憶の中を探す。
自身の無意識下の行動を思い出そうとするも、朧気な記憶しか蘇ってこない。
しかし、机の中に入れた気がしている。なんとなく。
取りに行くしかないか……。
亜優はしぶしぶ部屋の扉を開け、階段を降りる。
「学校にノート取りに行ってくる」
「忘れて来たの?」
「うん」
「気をつけるのよ」
「大丈夫だよ、もう高校生なんだから」
亜優はそう言いながら微笑み、制服のまま手ぶらで玄関を出て学校へ向かった。
幸い亜優の家から学校は比較的近いため、15分程歩けば着く。
下校する他の生徒たちを横目に、小走りで逆走する。道中何度か歩いて休憩を挟みながら、学校へ向かう。
つい先程まで美しく見えていた景色はほんのり薄暗くなっており、気分も相まっていつもより暗さが際立っているように感じる。
ロッカーまで辿り着くと、慌てて靴を履き替える。
別に急いでる訳ではなかったのだが、忘れてしまったという事実により、心のどこかで焦りを感じているのだ。
人気の少ない廊下を小走りで進み教室が近づいてくると、開いたままの教室の扉の奥から、何やら女子生徒の話し声が聞こえる。その中には亜優が知っている声も混じっていた。
『ほんとヤバいでしょこのノート』
その言葉が聞こえた瞬間、亜優は足を止めた。
しかし、ここからでは会話が少し聞き取りにくいと感じ、足音を立てないように忍び足で教室へと近づく。
『こんなことしても意味ないのに。生きるの下手くそ?』
『ホント、バカ真面目って感じ』
亜優には誰の事を言ってるのかまではわからない。だが彼女らがノートの持ち主を嘲笑していることだけは伝わってきた。
『で、こんだけ真面目にやって学年トップ3すらも取れないんだもんねぇ。なんならあたしの方が点数高いときもあるしぃ?』
この声だ。私が知っているのは。
『ヤバすぎ〜!天才じゃん!』
何人かの笑い声が聞こえる。
呼吸が荒くなる。
ただひたすらに、自分のことではありませんようにと願った。
もし自分のことじゃなかったら、私の代わりに他の誰かが傷ついていることになる……ということを考える余裕も無く。
心臓の鼓動が早くなる。
亜優は、ゆっくりと教室を覗く。
あの子だ。
右手のあれは、私のノート……。
亜優がノートを貸した女子生徒は、びっしりと書き込まれた亜優のノートを他の女子生徒に見せ、彼女らと共に嘲笑している。
“バカだ”と。
“非効率だ”と。
“モテなさそうだ”と。
盛り上がる彼女らは、いつしか勉強や授業とは関係のない亜優という人そのものを否定していた。もちろん本人たちはそんなことに気づいてはいないのだが。
「……………………死んじゃえばいいのに」
教室から漏れる冷たい笑い声から離れ、亜優は学校で何もせずゆっくりと家に帰ったあと自分の部屋にこもり、1時間ほど眠った。
目が冷めた瞬間から、あの出来事は1秒たりとも亜優の頭から離れることはなかった。
そのままろくに食事も摂らず、1日を終えた。
次の日、また次の日も、亜優は義務感で学校へ行く。
今、生きているから、学校へ行く。
亜優はこのときから、学校にいるときは口を開かなくなった。
亜優の成績が落ちていくと同時に、亜優のノートを借りていた者たちの成績も次第に落ち始める。
その様子はまるで、機械が壊れた工場のようだった。
2024年明けましておめでとうございます。
そして2025年明けましておめでとうございます。
いや、あの、ホント、1年間以上更新できなくて大変申し訳ございませんでした……。
ですが2024年が忙しかったのはホントですし、その期間も書いてはいました。ただ出来に納得がいかずに何度も書き直してモチベは最底辺でしたが……。(あとゲームしてました、なんならこれが一番時間食ってる)
まさかなろう君も1年以上何の動きもなかった作品が唐突に投稿されるだなんて思いもしないでしょうよ。
ニチャついてるなろう君も裏切りたいですし、読者の方々にも最後まで届けたい(気持ちはある)ので、また投稿頑張りたいと思います。
あ、週1とかはマジで勘弁してください。