Part7 無償の愛なんて
佐々木 清伍
若くして大企業に就職し、人生を謳歌していた既婚者の男性。いわゆる『勝ち組』だったはずの彼の人生に、突如不穏な風が吹き始める。
いや、風が吹き始めたのか、はたまたいつの間にか変化していた現実に気づいただけなのか……。
多くの人が夕食にするこの時間帯、約束のハンバーガーショップには多くの客が居り、ガヤガヤと賑わっていた。とは言っても空席もちらほら見受けられ、一般的な休日の飲食店といった雰囲気だった。
「ふぅ、なんとか間に合いましたぁ……」
広い店の隅にある四人席に、息を切らした依頼人の清伍が現れた。
時計の針は6時58分を差している。
「黒崎さん?」
「大丈夫です。生きてます」
テーブルに突っ伏してぐったりとしている摩耶を見て心配する清伍。
動き回った疲れと、疲れから来るストレス、そして夜の飲食店特有のこの賑やかな空間に1人では耐えきれなくなったのだ。
「そりゃ死んではいないでしょうけど……こんなところで人が死んでたらそれこそ探偵さんの出番ですよ」
「いや、警察の出番でしょう」
清伍は摩耶の冷静な返しに何も言い返せず、向かいの席に座り、隣に仕事用の鞄を置く。
「とりあえず、昨日の尾行で得た情報の共有です」
摩耶は顔と上体を上げ、ボサボサになった髪を指で軽く整え、清伍の方を見る。
「共有と言っても、亜優さんに怪しい言動は何一つなかったんですけどね。あたしが得た情報はゼロです」
「そうですか……」
摩耶が軽い気持ちで放った言葉に、清伍は想像以上に落胆していた。たとえ凶報だろうとも、答えを出してしまい、ハッキリさせてしまいたかったのだろう。
「まあでも、尾行なんてなかなか一回で成果は出ませんよ。昨日は平日ですし、尚更行動には移さないんじゃないでしょうか」
「休日の方が可能性が高いですかね?」
「休日というよりは、亜優さんにとっての休日、清伍さんにとっての平日……当然と言えば当然ですが、これが最高の密会日和でしょうね」
摩耶は頭を掻きながら説明をし、更に一言付け足す。
「例えば今日、土曜日とか」
「今日……そういえば、確かに……」
今週が特別という訳ではなく、毎週末仕事へ行く清伍にとって、土曜日などほとんど平日と変わらない。それに対して亜優はしっかりと2日間の休みがある。
週に一度訪れる大チャンスという訳だ。
「だとすると、今日尾行をせず今日僕と会っている理由ってなんですか?」
「これは単なる予想ですので、平日は絶対に会わないと決まった訳じゃありませんし、ひとつ確認しておきたいことがありまして」
「確認?」
摩耶は「はい」と、頭を軽く縦に振る。
「亜優さんの不倫疑惑が真実へと変わったとき、清伍さんはどうしますか?」
「どう……とは?」
「自分への愛が失われていても、亜優さんを愛し続けられますか? それとも別居でもしますか? それとも離婚? そういう話です」
「離婚……」
最も引っかかった言葉を呟き、清伍は右手で顎を触りながら暫く考えている様子だった。
摩耶は何も言わずじっと清伍の答えを待つ。
「少し怖いですけど、ちゃんと話し合って、わかり合うことができたら……僕はまだ亜優と居たいです。不倫の原因は僕にもあるかもしれませんし……」
「ホントですか!?」
摩耶は嬉しそうに前のめりになり、目を輝かせる。まるでお菓子を買い与えられた子供のように。
「な、なんでそんなに嬉しそうなんですか?」
「いやぁ、あたしならどんな理由だろうと不倫なんてされたら確実に一回で見捨ててしまうので。自分に非があるかも……と思えるなんて、とても美しい愛だな〜と思いまして」
乗り出していた身体を戻し、にこにこしながらポテトをつまんで口へ。これを5回ほど繰り返し、摩耶の心は喜びで、口の中は芋の味でいっぱいになる。
「でも……」
覇気のない声で清伍が話し始める。
「そもそも亜優の中に、僕への愛なんてあるのでしょうか。黒崎さんと話していたら、なんだか亜優を信用していいのかわからなくなってしまって……これまで僕らが過ごしてきた日々は、亜優にとってなんだったんだろう……とか……ははは……」
自分の側にいた最も大切な人が突如信じられなくなり、その不信感から日常生活を送るだけでストレスが溜まっていく。溜まったストレスは発散されることなく蓄積されていき冷静さを奪う。清伍の乾いた笑いは、その全てを表していた。
前を向きたいという意志は失われておらずとも、歩くべき道が見えなければ、進みようがないのだ。
「探偵さんに依頼までしたのに……自分でもなんでここまで亜優に執着してるのかがわからなくて……」
清伍は思考を巡らせる事に必死で、何も見えていない。大きく膨れ上がった不安が、清伍の意識を取り込むように冷静さを奪っている。
「それを考えて何になりますか?」
「え……?」
そこには子供のような表情をしていた摩耶の姿はもうなかった。
笑いなど一切ない真剣な眼差しで、清伍の目を見つめている。
「亜優さんと居たいんですよね。それに細かな理由が必要ですか? ただ亜優さんのことが大切で、大好きだから一緒に居たい……それじゃ駄目なんですか?」
摩耶の言葉が清伍の中に眠っていた亜優との記憶を呼び起こす。
ねえ、清伍の好きな人は誰?
それは彼女の口癖で、甘えてくる時は決まってこう言う。人前ではいつも強い女性を演じる彼女が、自分の前でだけ見せるその姿を可愛いと思っていた。
しかし、こんな言葉はもう何年も聞いていない……だから忘れていた。
「僕の想いがどれだけ強くても、それを亜優に届けられる程の能力は僕にはありません……」
「諦めるんですか? 清伍さんの想いはその程度なんですか?」
「違います、気持ちだけではどうにもならないということです……。亜優が幸せになれるのなら、隣に居るのは僕じゃなくてもいいんじゃないかって……」
初めはやや食い気味に言い返すも、声は少しずつ小さくなっていった。
いつからだろうか、彼女と共に過ごす時間が減っていったのは。照れながら見せる遠回しの愛情表現に気づいてあげられなくなったのは。
仕事を理由に会話を減らし、いつか幸せにするからと未来の話ばかりして、彼女との“今″を大切にしなかった。
「僕は……僕の大切な人の気持ちに応えられなかったんです、そんな僕に誰かを愛する資格なんてあると思いますか……?」
「質問に質問で返すようで申し訳ないのですが」
摩耶は長いカリカリに揚げられた曲がらないポテトを清伍の方へ向けた。
「資格も何も、自分の事すら愛せない人が他人を愛せると思いますか?」
「自分を……?」
「愛される為に何かをしました?無償の愛を求めていませんか?」
「無償の愛なんて、そんなことは……。僕は僕なりに亜優と過ごす為に……」
「なら、行動を起こしたあなたを否定する理由はありません。あなたの努力はあなた自身が誰よりも理解しているはずです。亜優さんに愛される理由があったからお付き合いをして、結婚まで辿り着いた……違いますか?」
なんとか反論をしようとするも、摩耶の圧に清伍は冷静さを欠き、言葉が見つからなくなる。
「私はあなたと亜優さんの仲を引き裂くために依頼を受けた訳じゃありません。亀裂が入ったお二人の関係を修復する為です」
「…………」
それが善意の押し売りであることを摩耶は理解していた。しかし、それで良いのだ。黒崎探偵事務所が他と違うのは“それ″なのだから。
拒絶されれば素直に依頼内容だけ熟して終わるつもりで、摩耶は更にもう一歩依頼の奥へと踏み込む。
「ちゃんと向き合いましょう、亜優さんの事を強く想うあなたと、亜優さんと。その為なら、あたしはどんなお手伝いでもさせていただきます」
そう言って摩耶は少し冷たい手で、握られた清伍の両手を優しく包み込んだ。
ポテトを食べ付着していた油は、いつの間にか拭き取られているが、指先はほんの少し湿っていた。
冷たいはずの手が、なぜか清伍には暖かく感じる。
「しんどい時ほど考えてしまう気持ちはわかりますよ。でも思考を巡らせるのは疲れますし、その時考えたことを思い返せば八割は後ろ向きです。美味しいものでも食べて、一度休んでからまた考えてもいいんじゃないですか?」
そう言って摩耶は右手でポテトをつまみ、清伍の目の前に見せた。
誰かに言われるまで、こんな簡単な事にも気付けなかっただなんて。
亜優の隣に居るのは僕がいい。僕が幸せにしたいと。
幸福感と後悔が溢れ、顔が赤くなり、涙が頬を伝う。
「あ、でもバーガーはあげませんよ。食べたかったら自分で……」
「黒崎さん……」
「なんですか?」
「ありがとう……ございます……」
「あたしはまだ何もしてませんよ」
摩耶は笑ってそう言った。
しかし、本当にまだ何もしていない。現状摩耶はただ成人女性を尾行した翌日に成人男性を泣かせただけの人なのだ。
「来週の土曜日、また同じ時間に会いましょう。不倫の真偽を含め、全ての報告をさせていただきます」
「はい……お願いします……」
清伍は鼻水をすすり、袖で涙を拭って言った。
「いや泣きすぎでしょう、まだ何も解決してないんですから。ホラ、バーガー食べますか?バーガー」
「大丈夫です……自分で買ってきますので……」
そう言って清伍は立ち上がり、もう一度鼻水をすすってからゆらゆらと歩き始めた。
この日以降、ハンバーガーショップのアルバイターの間で“とんでもない泣き方をした男”として話題になってしまい、清伍は二度とこの店に足を運ばなかったという。
はい、また約2ヶ月が経ちましたね。
誰ですか?週1投稿するとか言ってたのは。
ちまちま書き進めて出来上がったら投稿、という感じなのですが、ダメですねこれ。1日の1割も執筆に割いていません。
……しかし、これは俺が悪いのでしょうか?時間が潰れていくほど面白い世の中のゲームが悪いのでは……というのは冗談で。
桃鉄新作、面白いですよ。
これからもun callと桃太郎電鉄シリーズをよろしくお願いします。