Part4 悪い気はしない
某中学校
摩耶が住む街にある市立中学校。
新が通っており、長谷川の母校にあたる。
摩耶には何の縁も無いため、この学校についての知識は殆ど無いが、長谷川から教師のアタリとハズレの差が大きいと愚痴を聞いたことがある。長谷川が通っていた頃とは多少異なるため、今でもそうかはわからない。
この学校の名前が今後明かされるかは不明。
数日特訓したからと言って、突然足が速くなる訳でも、体力がつくわけでもない。むしろ筋肉痛で最高のパフォーマンスは出せなくなる。
3位から始まり3位のままバトンを次の人に渡すだけの役割。
もしこれが6人ではなく5人で行われるリレーだったなら、真っ先にメンバーから外されるのはきっと俺なんだろう。
だったら何だ?
それは単なる可能性の話だ。
俺は今、第4走者としてここに立ってる。
それなら、このバトンだけは……絶対に……ッ!!
この一歩で、バトンを繋げられる……それなのに握る力が弱まり、バトンが手のひらを離れそうになりながらも、必死で腕を前へと伸ばす。
少しでも前へ、そう思いながらも体制を崩しつつある新にはそれしかできなかったのだ。
そして、バトンが新の手を離れそうになった時、突如バトンは強い力で引っ張られた。新の方へ伸ばされていた3年生の手に届いたのだ。
バトンを受け取った彼は左手から右手に持ち替え、小さな砂煙を起こしながら前を走る者の背を追う。
自身の役目を終えた新は全身の力が抜け、身体はそのままグラウンドへ叩きつけられた。
「新ッ!!」
「ちょっ、摩耶さん!」
保護者席で静かに見守っていた摩耶は突如立ち上がる。
今トラック内に入ることは、競技の妨害をすることであり、大勢にとって迷惑な行為だ。そんなことはわかっていた。それも摩耶だけではなく、そこにいる大半の人がわかっていた。
だから、誰も動かなかった。
自分じゃない誰かがあの子を助けるだとか、あの子は転げただけで1人で立ち上がるだとか、そんな風に考えて。
「……ああもうっ、クソ!」
摩耶はトラックを囲う細いロープを跨ぎ、倒れた新を抱えて、ロープの外へ連れ出した。
「えっと……紅組、1位のままアンカーにバトンが渡りました!」
3年生が1周して戻ってくるまでになんとか間に合ったようで、周囲が少しざわめいただけで競技そのものに支障は出なかった。
摩耶がトラックから離れたあと、何事も無かったように、リレーはそのまま続行していた。
新の身体に付着していた砂は、いつのまにか摩耶のジャケットをも汚していたが、そんなことはどうでもよかった。
ホッとひと安心した摩耶は、そのまま新を保健室に連れて行こうとする。
「ちょっと!」
歩き始めてたった数歩、何者かが摩耶の右肩を掴んだ。
振り返ると、そこに立っていたのは眼鏡をかけた教員らしき三十代ぐらいの男だった。
摩耶は新の保護者でも何でもないため、当然この男が何者かなど知る由もないが、保護者という風貌ではなかった。
「すみませんが、今急いでるので後にしてもらえませんか?」
「急いでるのでじゃないですよ!競技中のグラウンドに侵入したでしょう!」
「ああ、そうですね。すみません」
「あんな危険な真似はやめて下さい。保護者の方と言えど、勝手にあのような事をされては困ります!ルールは守ってください」
「最近の先生方は子どもの安全よりもルールを優先するんですか?」
男の必死な姿勢に、摩耶は冷静かつ冷たい声で受け答えをする。
その様子を見ていた長谷川が、摩耶の背後から恐る恐る二人に近づく。
「勿論、子どもたちが最優先です。しかし、生徒を助けるのは我々教員の仕事ですから!」
「それなら、あたしよりも新の近くで一部始終を見ていたあなたがすぐに動かなかったのは何故ですか?」
「それは……非力な私なんかより、隣に居た体育の武井先生の方がその子を安全に……」
男はオロオロと言い訳を並べる。
結局、誰かがやると思っていたのだ。それに、適当な理由を付けて丸め込もうとしている。
この男の態度を見ていれば、摩耶にはそれが簡単に読み取れた。
「適当な理由を付けて責任から逃れようとしないでくださいよ。たったひとりの中学生なんて、非力な私でも担げるんですから」
「うっ……」
男は言葉に詰まる。
「でもまあ、新が無事で良かったかな」
新を見て微笑む摩耶に、男はそれ以上何も言わなかった。
と言うよりも、言えなかった。
「って長話してる場合じゃなかった! それじゃ、あたしはこれで」
摩耶は男に軽く一礼した。
「長谷川、保健室に案内して」
摩耶の背後に立っていた長谷川は、突然振り返りながら名前を呼ばれたことに驚いた。
「えっ? いつから私が近くまで来てるって気づいてたんですか?」
「勘」
「あぁ、摩耶さんはそういう人でしたね」
たった一言で納得させられてしまった長谷川は、保健室に向かって小走りする。
摩耶は黙ってそれに着いて行った。
摩耶と長谷川は無事に新を保健室に連れて行き、ベッドに寝かせることができた。
摩耶は新が目覚めるまでここで待つと言い、長谷川を先に帰らせた。最初は長谷川も残ると言ったが、摩耶が500円を渡して無理やり帰らせた。
新と面識がない長谷川をここに残し、新に余計な不安を与えたくないと。
保健室にいた教諭に、新が起きるまで自分は隣に居たいとを伝えると、騒がないことを条件に快く承諾してくれた。
いい歳した大人が保健室で騒ぐ奴だとでも思われてしまったのだろうか。
そして、それから数時間が経った。
他の生徒が怪我や体調不良で保健室に来ることはなく、グラウンドでは無事閉会式を終え、片付けすらもほとんど完了していた。
「……ん……?」
新が目覚めると、そこは見覚えはあるが馴染みのない天井と、見覚えのある女性が座っていた。
「おっ、目ぇ覚めた?」
摩耶は右手に持っていたスマホをスリープ状態にし、ズボンのポケットに入れた。
「えっと……今どういう状況ですか?」
起きたてでまだ頭が働かない新に、摩耶は事の経緯を掻い摘んで話した。
新が倒れたことや、男性教員とのことを。
「そう……ですか……」
その話の中に聞いて嬉しくなるような情報は無く、身体が痛む新の気分は少し沈む。
「そういえば、リレーはどうなりましたか?」
「紅組は1位と4位を、白組は2位と3位をとって引き分け。新がバトンを渡したチームは2位だったよ」
新が渡した時点での順位は3位、つまりその後に3年生がひとり追い抜いていることになる。
「あそこで渡せなきゃ、確実に負けてただろうね。保健室からぁとあまり聞こえなかったけど、総合得点もかなり接戦だったみたいだし」
「そうですか……よかった」
結果だけを見れば引き分けだが、新の決死のバトンパスが無ければあのリレーは確実に敗北していた。
目覚めてから聞いた摩耶の話の中で、ようやく笑顔になった。
「そういや怪我とかはない? 大丈夫?」
そう言われた新はハッとなり、肩や胸などを確認するも、目立った怪我は見当たらない。
「疲れと痛みはありますけど、傷は無いので大丈夫だと思います」
「そっか」
夕方、窓の外から差し込む陽はまだ眩しく、ふたりに1日の終わりの始まりを感じさせた。
元々リレーのみに出場予定だった新は、気を失ってしまったとはいえ自分のやるべきことを終え、満足していた。
「さて、俺達も帰りましょうか」
「大丈夫? またおぶってあげよっか?」
「大丈夫です、もう歩けますから」
心配をしてもらえるのが嬉しかったのか、新は微笑みながらベッドから降りた。
「もしかして、美人の探偵におぶられるのが恥ずかしい? 中学生だもんねー、友達に見つかったらイジられたり……」
「いえ、普通に歩けるので言っただけです」
「はい。わかりました」
優しく微笑んでいたはずの新に真顔でそう言われ、摩耶はそれ以上余計なことを言うのを止めた挙句、反射的に敬語で返してしまう。
新が帰ることは教諭から学校に伝えてくれるらしく、保健室を出たふたりはそのまま校門へと向かい、学校から出た。
いつものように、くだらない雑談をしながら二人は歩いた。主に摩耶の愚痴だったが、それでも新は笑っていた。
新はたった数日でここまで摩耶に信頼を置くのをおかしく思っていたが、それが嫌ではなかった。
短期間でそうさせるのも、彼女の魅力なのだと思う。
ゆっくりと陽が落ちていく中、まだまだ明るい街中を歩き、摩耶は新を家まで送り届けた。
「本当にありがとうございました。俺、なんか頑張れました」
何故あそこまで必死になれたのか、新はよくわかっていなかったが、ただひとつ、摩耶のおかげであるということだけは確信していた。
「あたしは背中を押しただけ。でも言われて悪い気はしないし、沢山感謝しておいてもらおうかな」
「ははっ、なんですかそれ」
強がりながらも嬉しそうな摩耶に、新は笑いながら返す。
「明日はどうする?あたし忙しくなけりゃまた来よっか?」
「大丈夫です。もう、簡単には迷いませんから」
自信に満ちたその表情を見て、摩耶は納得した。
出会った時はずっと不安げで、何かに怯えたような顔をしていた男の子が、今はこんなにも強くなっている。
「わかった、それじゃあなんかあったらいつでも呼んで。あたしの連絡先知ってるし、というかここから5分も歩いたらあたしの事務所だし」
「わかりました、ありがとうございます」
摩耶に軽く頭を下げ、礼を言う。
「それじゃ、あたしはこれで」
「はい、また!」
顔の横で小さく手を降る摩耶に、新は頭よりも高い位置で大きく手を振り返した。
歩いていく摩耶の背中を数秒ほど見つめたあと、新は扉の鍵を開け、家の中へと入った。
「ただいま」
誰もいない家に向かって言い、荷物を全て玄関付近の床に置いたあと、真っ先に洗面所へと向かい、衣類をカゴに入れ、風呂に入った。
汗や砂を流しサッパリした新は、いつもなら自室へ向かうところだが、今日はリビングで聡美の帰りを待つことにした。
カーペットを敷いた床に寝転がり、スマホを触る。動画を見たり、ゲームをしたり、いつも通り過ごす。
それから二時間ほどが経った。
1階の扉が開く音がしてから、誰かが階段を上ってくる音が聞こえる。
「おかえり」
リビングの扉を開けて入ってきたのは、仕事を終え、買い物も済ませ帰宅した聡美だった。
「ただいま。珍しいわね、新がリビングにいるなんて」
「まあ、なんとなく」
おかえりと言われたことや、リビングに新がいたことに聡美は思わず笑みをこぼす。
「どうだった?体育祭」
新は寝転んだまま、黙って人差し指と中指を立てて見せた。
「ピース?」
「……いや、2番の2」
「2番でも凄いじゃない! 新の周り足速い子多いんでしょ?」
「まぁ俺がバトン渡したときは3番目だったけど。誰も抜かさず、誰にも抜かれず。でもさ、ただの3番目じゃないんだよ」
「ただの3番目じゃない?」
新は話した。今日あった出来事を。
今日まで頑張ってきたこの数日間のこと、全てを、たった1人の母親へ。
その日を境に、新はリビングで聡美と過ごす時間が多くなることを、二人はまだ知らない。
そして陽が沈んだ夜、照明の点いた部屋で摩耶がポテトチップスを食べていると、机の上に乗ったスマホの画面が音を立てながら明るく光り、振動した。
そこには「arata:またいつでも来てください!」と書かれていた。
「たった数日で単純な子。悪い人に騙されなきゃいいけど」
摩耶は微笑みながら独り言を言って、またもう1枚、ポテチを口の中へと運んだ。
新と聡美に関わるお話は今回で終了になります。
今後もどこかで登場するかも……?
un callはこんな感じで「○○編」的なものを繰り返して進めていく予定です。たまに1話完結の話も書きますが。
これから更に忙しくなるかもしれないので、毎週このクオリティを保てるかわかりませんので、文字数が極端に少ない話が出てきても許してください、と保険をかけておきますね。