プロローグ
「人が自分の目で、自分の顔を直接見ることは、一生出来ないんだよ。」
母国の首都近郊で暮らしてきた私からすれば、ここはあまりにも気持ちが良かった。広大な自然が広がる山奥の、周りには明かりが一切ない森の中。その中に静けさとは程遠い大きな橋が、木々を生い茂り大地が見えない緑色の山々の間にかけられている。不自然なほどに幅が広いその橋は、心を空虚にしてくれるような気さえするが、今の私からしたらとるに足らなかった。ここは素晴らしい、母国の素を見ているような気分だ。今はもう夜も深い時間帯、あたりは何も見えない代わりに、黒い空間の中に黒のグラデーションが出来ている。目が慣れてきて見えなくはないが、矯正器具をはめてないときの独特の靄がかかったみたいだ。そんなことを考えて、私は橋の欄干に体重を預けながら下を覗く。暗闇でほとんど見えないが、水の流れる音が聞こえる。川が流れているようだが、そんなに深くはないだろう。ここから落ちても、きっと高層ビルの上から飛び降りるのとさほど変わらない。しかしそれでも私の心持は変わらなかった。躊躇なく欄干の上に足をかけ、外側に足をかけると、もう片方の足も外側に下ろす。欄干の外側はスペースなんてものは存在しないので、わずかな隙間につま先立ちで立ち、あとは後ろ手で橋に手をかけ、ギリギリの状態を保っている。橋を吹き抜ける風が、私の体を後押ししているような気がした。一切のためらいなく全身の力が緩んでいく刹那、後ろから声がした。
「やっと見つけた。こんなところにいたんだね、探したんだよ。」
待ち合わせ場所にやってきたような調子で放たれた言葉に、全身が一瞬のうちに硬直した。思わず体を端の方に寄せ背中を付けた。先ほどまでの解放感が嘘のように、下を流れる川の色が、一段と黒く感じた。すると不意に、目の前の視界が真っ黒になる。そして後頭部に、温かい風を感じた。
「ねえ、今どんな気分?」
後ろからささやかれると、プルっと身震いしたのと同時に、全身のすべてを支配されるような気分になる。今までぼやけていた視界が、徐々に慣れてくるあの寝起きの瞬間のように、気づかないようにしてきたものが見えてくる。
「これで怖いと思うなら、こんなこと止めな?その代わりに、刺激的な毎日を与えるからさ。」
そういわれたその瞬間、全身に急激な悪寒が走る。嫌な汗が全身を伝っていくうちに、心臓が重くなっていく。ただ戻ろうとしても、視界はふさがれた上にギリギリの状態で体を固定しているから何もできない。
「戻りたいけど出来ないんでしょ?協力してあげてもいいけど、その代わりに私のお願いを聞いてくれるかな?」
私はスイカ割りをするような勢いで首を縦に振った。視界を塞がれた状態のこの動きは、体の平衡感覚を鈍らせる。全身に不安感が募る。
「そんなに焦らなくても大丈夫。別に君を殺したりはしないから。私としても、君に死なれたら困るからね。」
そういうと、目の前の温もりが晴れるのと同時に、脇に腕が入ってくる。すり抜けたかと思うと、胸の前で力強く抱きしめられた。
「私が体を押さえてる間に、いい感じにこっち側に向いてくれないかな?こっちに向いたら、あとはもう大丈夫でしょ?」
そういわれると、醜態をさらすことへの羞恥心をも忘れ、蜘蛛の糸を必死に上った。体を支える華奢な腕を頼りに、死に物狂いで体を回転させると、欄干の上ででんぐり返しをする勢いで橋の上に降り立った。全身を大量の汗が流れ、足は少し痙攣するように小刻みに震えて上手く力が入らなかった。その姿が面白かったのか、助けてくれた女性は面白いお笑い芸人のネタを見るように笑った。睨むようにして泣き顔で彼女を振り返ると、一瞬時間が止まったような気がした。
「あ、見ちゃったね。もう終わりか、残念だな~。…もう少し喋りたかったな。」
少し悲しそうな顔を彼女がすると、目の前が強烈な光に包まれる。それは瞬く間に私と彼女の体の膜となるように包み込む。すると体が支配されるように勝手に動き出す。その時彼女が口を開いた。
「もうこうなったら止められないんだ、ごめんね、こんな私とで。」
すると私の体は彼女と向かい合い、近づき始める。徐々に彼女の顔が近づいてくると、私の両腕が彼女の後頭部を包む。一方彼女の腕は私のうなじを通り、首を包むように抱きしめる。お互いの吐息がかかる距離の中、彼女が最後の一言を告げた。
「事が終われば全て分かるから、我慢してね。」
その言葉を最後に、私の口が彼女の口を塞いだ。