花時計の王子様(下)5/5
「ねぇ?今更だけれども、ここはもしかして…」
私の声に光一さんは静かに頷いた。その表情に私は阿吽の呼吸で理解する。やはり、そうだったのか…。そして周りをぐるりと見渡して再度今までの人生を振り返った。
大学を無事卒業した孝子ちゃんと理恵ちゃんの新たな人生への旅立ちの日。
芸術家として成功した美子が、期待に心を躍らせながら異国へと旅立った日。
百合子が母と同じ病気に罹患し、永遠の別れとなったあの辛い旅立ちの日。
今まで出会った人との笑顔の日々。そして涙の別れ。様々な思い出が目まぐるしく、しかしはっきりと回想されていく。
この撫子色の芝桜の花畑で求婚されたことも、親族だけで細やかな結婚式を挙げたことも、子どもが生まれた時、娘の名をこの花の名からとったことも…。走馬灯のように様々な記憶が浮かんでは消える。
海や山での過ごした家族との特別な思い出。普段の幸せな日常を喜ぶ日々。些細なことで喧嘩した他愛無い出来事。感動するドラマや映画で共に涙し、悪戯を仕掛けては、バカなことだとお互いに笑いあった。
私たちの一人娘の成長、結婚。新たな家族の誕生にそして、そう…。彼、光一さんとの別れもあった。
「私はずっとあの日にとらわれていたのね」
光一さんが自分の目の前から去った後、私は生きる気力を失っていた。そんな時、たまたま押入れの奥から出てきたのがあの絵葉書だった。それを見た時に光一さんへの愛しい思いが再度こみあげてきたのだ。
まだ、伝えきれていないことがあった。
まだ、あなたに触れていたかった。
また、あなたに会いたいと願った。
「あれからずっと光一さんを探し彷徨っていたのね…」
その懐かしい絵葉書を発見したときから、私の記憶は混乱することが増えた。
最初は物忘れの頻度が増えたに過ぎなかった。
だが次第に、新しいことを覚えることも難しくなってきた。
人を認識することもできなくなってきて、
いつの間にか、今まで分かっていたことですら理解に苦しむようになった。
そしてついに、もういない人たちの幻影が見えるようになった。
私は私が分からなくなり、その幻影たちのあとを藁にも縋る思いで追いかけるようになった。
こうして私は、今ではなく、貴方と過ごしたかけがえのない日々に現実逃避するようになったのである。
それでも、そんな私にずっと寄り添ってくれていた人がいた。
「ずっと、誰だろう?と不思議に思っていたのよ。あんなに怖い顔をして、何度も私を怒鳴って…」
その人は元々はよく笑う、笑顔の素敵な人だった。だけどいつしか支離滅裂な言動を発する私に向ける顔は、疲労と呆れと怒りを含んだものとなり、もうここ何年も笑わなくなってしまっていた。
「私があの子から素敵な笑顔を奪っていたのね…」
首にかかっていた御守りを思い出し、そっと胸に手を当てる。
「これは光一さんと、あの子からの贈り物…」
色褪せたこの御守りは、光一さんに初めてもらったものだった。そしてこの硬い中身のものは…。
「GPSというものらしい。君がどこにいるのか分かる、不思議な機器だそうだよ」
彼の答えに私は納得した。そうだった。いつも光一さんを探しに昼夜問わずに家を飛び出す私を、娘やお巡りさんがすぐに保護に来てくれていた。私はずっとあの御守りに見守られていたのだ。なのに、その優しさに気づかず、恐ろしいものに追われているものだと勘違いしてしまって、逃げて逃げて…。最期に聞いた、あのけたたましい音。ああ、最悪だ。きっと最期は…。
「最期の最期まであの子に迷惑をかけてしまったわ。私はもっと早くここに来るべきだったのよ」最愛の娘を思い浮かべながら続ける。反省してもしきれない。私はこの世を去る最期の時まで罪を犯してしまったのだ。「あなたに引き続きあの子にまで、あんなに迷惑をかけていたなんて。自分が情けないわ…もう言葉にすらならない…」
光一さんは苦々しい顔を浮かべ、しかしながら優しい手つきで私の頭を撫でてくれる。その気遣いに心が温かくなり、次から次へと涙が溢れ出てくる。止まらない。
「病気だったのだから、誰も君を責めることなんてできないよ。それに、もうここに来てしまった俺たちには、ここから子どもたちを見つめてあげることしかできないんだ…。さあ、家族みんなの息災を祈って、末永く見守ろうじゃないか」
そっと見上げるとそこには青年の姿をした光一さんではなく、よく見慣れた姿の彼が居た。大きな眼鏡に、ふさふさとした白い髪。少しふくよかになったお腹。そして、最期の記憶よりずっと顔色の良い優しい微笑み。
そんな姿を見たら少し安堵してしまい、ふふっと笑みが零れる。
「そういえば、あの家に飾ってあったデュランタの花もあなたの指示でしょ?」あの家に飾ってあった濃い菫色の花を思い出しながら続ける。「あの子は私と違って草花に興味はないもの…。今になって思い出してみると不思議なものだわ。あれはあなたの忘れ形見だったのね。ずっと見守っているなんておじいさんそんなにロマンチストだったかしら?」
光一さんとの名前呼びから、いつの間にか使い慣れたおじいさん呼びに代わっていた。それに気づいた彼は少し残念そうに眉を下げ、口を尖らせる。
「また名前で呼んでくれよ。今は子どもたちも誰もいない。二人きりなのだから…」
私は豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くし驚いた。初めて聞く彼の甘え。
「ふふ。ごめんなさい、光一さん」
そう答えると、彼は口元を緩め、心なしか喜んでいた。
「思い起こせば、いつの間にか名前の呼び名は、歳を重ねるごとに変わっていったわね」
「確かにな…」
いつからか、光一さんがパパになり、お父さんになり、おじいさんになった。
「もう少しゆっくり思い出に浸らないか?」
いつの間にか目の前にはベンチがあった。私たちは二人並んでそこへ腰かける。
「君の話をもっと聞きたいんだ」
「どこから話そうかしら…」
遠くから見える二人の姿は若い者ではなく、いつのまにか仲睦まじい老夫婦のものになっていた。
穏やかな風が芝桜の花びらを舞い上げる。いつの間にか百合子の姿は光の粒となって風に乗り、また違う遠い場所へと旅立っていったのだった。
次話で完結です。