花時計の王子様(下)3/5
私の頭の怪我を未だ心配してくれていたのか、はたまた罪の意識からだったのか。彼は迷うことなく、二つ返事であと一年こちらに留まってくれると約束してくれた。
彼の優しさや、私に対する後ろめたさにつけこんだ最低な我が儘。自分の厭らしさに反吐がでそうになる。でも、この我欲が彼を苦しめると分かっていても、どうしても離れたくなかった。まだ一緒にいたかった。
父は急な光一さんの変更に驚いてはいたものの、やはり腹を割って話せる唯一の男性居候。次の人がまだ決まっていなかったこともあって、一年の延長を快諾した。
それから私の卒業までの一年間、実家の事業を継ぐという志を棚に上げてまで、彼は父の鶏肉屋で働くことになったのだ。
一方でそんな私たちの関係はというと、二人の都合のよい時に一緒に花を見に散歩に行く程度の、以前と何ら変わり映えのないものであった。
しかし、そんな関係は周りには少し異様に見えていたようである。百合子には、『お姉ちゃんは光一さんとどういう関係?』と何度か問われたし、まだ居候していた孝子ちゃんや理恵ちゃんには『光一さんと正式にお付き合いしたらいいのに…』と苦笑いでよく言われていたものだ。
本音を言うと、付き合うとか、好きだとかいう感情は当時の私にはもう分からなくなっていた。なぜなら先輩と過ごした時に胸にあったあの甘酸っぱいトキメキを光一さんには感じることは一切無かったから。だから彼をそういう対象で見たことは一度もなかった。ただ、彼のことを大事な必要不可欠な存在と認識させるほどの、何か少し異なる感情が芽生えていたのは確かだった。
『卒業後は、お父さんのお店で働くわ』
そういう私に父ではなく光一さんが反対した。女性だとしても学業の選択ができるなら、そちらを優先すべきだと。俺が家庭教師をするからと、そう言って大学進学を強く勧めてきたのだ。将来のしたいことなんて当時は何も思い浮かばなかった。だが、何も思い浮かばなかったからこそ、光一さんに言われるがまま私は短期大学部のある女子大学へと進路変更することに決めたのだった。
それからは毎日が勉強の日々だった。一年なんてあっという間で、すぐに受験の日が来た。ほっとしたのも束の間で、ほどなく合格者発表があり…。掲示板に張り出された自分の番号を発見した時は美子と手を取り合って喜んで…。瞬きするように時は流れ、気が付けば高等学校卒業式の日だった。
その日は凍てつくように寒い快晴の中、風花が舞う美しい日だった。
父は百合子の卒業式の方へ参加するとのことで、私は美子が迎えに来るまで、ソワソワと一人、家の中で待っていた。茶の間で仏壇を眺めながら鈴をならす。『今日は卒業式なのよ』と母に心の中で報告するために。
ぼんやりと今までのことを振り返る。学校で美子や美術部の皆と過ごした楽しい思い出たち…。もちろんその中には先輩との日々も思い起こされた。だが、心の底から驚くこととなる。自分の心情の変化に…。なぜなら、先輩と過ごした数少ない記憶も、彼に対して感じていた心揺さぶられるほどの熱い情すらも薄れており、いつの間にか、光一さんと共に過ごした穏やかな日々が、それらを上書きするかのように取って代わって思い起こされるのだから。
いつの間にかこんなにも光一さんは自分の中で大きな存在になっていたのだ。
だが、ふと冷静になる。私が彼を引き留めたのは今日までだ。本当はまだ一緒にいたい。でも、彼にも彼の人生があるのだから…。彼は私に対する罪の意識でこの一年間留まり、そしてこんなにも尽くしてくれたにすぎないのだ。これ以上自分の我が儘で振り回してはいけない。
- もう光一さんを解放してあげないと…
仏壇の母にそう誓った時だった。
『おめでとう』
いつもと同じぶっきらぼうな声。振り返るとそこには沢山の荷物を抱えた光一さんが居た。
『ありがとうございます』
最後になるかもしれない会話もいつもと変わらず口数が少ないもの。だが、いつもはこれで終わる会話に光一さんがそっとあるものを私に手渡す。
それは一枚の絵葉書と一本の赤いポピーの花。
『夜遅いし、来なくてもいいから』
そう言葉が添えられたその絵葉書には、あの花時計の絵が描かれてあった。
『今夜17時、ここで貴女を待っています』
私は式から帰宅しても着替えることなく、一人部屋に籠って考えていた。
あの後、美子が家へと到着し、楽しく会話しながら学校へと向かったのだが、その後の式の事も、恩師に向けた感謝の言葉も、部活動の皆からの進学への激励も、全てが上の空で、殆ど記憶に残ってはいなかった。ずっと私の中にはあの絵葉書に対する戸惑いが溢れんばかりに込み上げていたのだから。
そして今この時も、彼に掲示された場所へ行くかどうか迷っていた。きっと行けば光一さんをまた引き留めてしまうかもしれない。まだ一緒にいたい。離れたくない。でも、彼の足を引っ張りたくないし、重荷にもなりたくない。彼に対する複雑な思いを感じる度に胃のあたりがキリキリ痛み、胸も苦しくなる。
- 今朝母と約束したのに。もう光一さんを解放するって…
気がつくと外は暗闇だった。私は目を瞑り、彼と過ごした日々を再度呼び起こす。
- 本当にこれが最後。これ以上は何も言わない。彼に感謝を伝えるだけ…
ようやく腹が据わり、心に決めた。私は光一さんに何も伝えていない。ちゃんと言わないとこの気持ちを。このポピーの花言葉を私の口からも。
『お姉ちゃん!こんな時間にどこに行くのよ!?もう外は真っ暗よ。それに、晩御飯はどうするつもり!?』
『私の分は大丈夫』
『今何時だと思ってるの?もういないわよ!』
百合子の少し怒りの含んだ甲高い声に多少疑問をもったものの、『ごめん』と彼女を振り切り急いで家を出た。
バス停へ向かい、車が来るのを待つ。だが、到着したどのバスの車内も人がひきしめあっており、女性一人の力では押し込み入れないほど混みあっていた。少しずつ私は気が焦り始める。なぜなら、もうすでに二台もバスを見過ごしているからだ。家を出た時は確か夕方6時だった。夜7時まで十分にまだ時間はある。だが、もし何かあって彼と会えなかったら?そう思うと不安で胸が押しつぶされそうになった。
そして三台目のバスが到着し、その車内を見た時に思った。
- もう、走っていこう、と。
道は暗く、人通りも少なかった。数台の車が歩道の隣を猛スピードで走る。だが、不思議と恐怖はなかった。花時計への公園へと向かっている間、私は頭の中を整理していた。今まで光一さんと過ごした思い出たちがまるで回燈籠のように蘇ってくる。
胸が温かくなった。だが、それが何か分からない。先輩に対して感じたものでも、父親に対して感じるものでも、級友に対するものでもなかったから。それは言葉で表現できない、もっともっと特別な感情だった。
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