花時計の王子様(下)2/5
「遅かったね」
そう呟いて光一さんは少し寂しそうに笑った。
私は足取り重く彼に近寄る。なんて声をかけるべきなのか分からなかった。今の今まで彼のことをすっかりと忘れてしまっていた自分自身に罪悪感が募る。
歩み寄っていくうちに何か良い言葉がでるだろう、そう思っていた。だが、一歩一歩彼へと近寄っていく度に次から次へと大切な思い出たちがまるで雲のようにふわりと頭の中に蘇り、彼と過ごした記憶の断片を思い出させる。そしてそれが、私の気をより一層咎め、口を重くする。
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『悪かった。俺が後ろに乗せたから…。俺のせいで…』
事故の後、私は暫くの間昏睡状態に陥っていた。だから当然先輩との再会は果たされることはなかったのだ。
私がようやく目を覚ましたのは一週間後。目の前には父や百合子、美子がいたのを何となく覚えている。ああそうだった。頭に包帯を巻いている光一さんも私を覗き込んでいた。彼の顔はいつものすましたそれとは違い、泣きはらした腫れぼったい目で、ひどく歪んでいた。
あの事故もこの怪我もあなたのせいではない、そう伝えたかった。だけど瞼が重くて重くて、またすぐに眠りに落ちてしまったんだっけ…。
『大学を辞める。俺のことがトラウマになるかもしれない』
頭の怪我がひどかったので、大事を取って学校は暫く休学することになった。このことが光一さんをより追い詰めていたのかもしれない。普段以上に顔を合わせることが増えた私に気を遣って彼が父にそう伝えていたのを、自宅療養中の私は偶然聞いてしまっていた。
確かに自転車へと誘ったのは光一さんだったが、乗るのを決めたのは私。それに元はと言えば、自分の我が儘が発端だった。無計画な行動のせいで関係のない人を巻き込み、取り返しのつかない迷惑をかけてしまった。本当に申し訳もたたない。
『何かしたいこと、やりたいことはないか?』
春になり、新学期が始まった。だが、まだ体調が芳しくなかった私は学校に通えなかった。そんな私に心を痛めた光一さんはそう尋ねてくれた。特に望むことはなかったのだが、ふとあの花時計を思い出し、『花を見に行きたい』と呟いた。花時計と言わなかったのは、それが、全ての元凶であったから。触れてはならぬ忌み言葉だと思い、口を噤んだ。
そんな私たち二人の初めての遠出は、景色一面に咲き誇る芝桜だった。可憐に咲き誇る小さなそれらを見て自然と口元が緩む。ふと隣をみると、光一さんの表情も心ばかりではあるが緩んでいた。胸に温かいものが広がり、嬉しく思ったのを思い出す。
主治医からも、『ずっと家にいては気が滅入るだろうし、軽い運動くらいは…』との許可を受け、その後も時間があるときは二人で色々な花を散策しに行った。菜の花、藤、瑠璃唐草、鬱金香、紫陽花。光一さんは新しい花畑の情報を掴むたびに私を外へ連れ出してくれた。私もまたこの外出を心待ちしており、二人で過ごす穏やかな散歩が永遠に続けば良いと思っていた。
光一さんが積極的に外に連れ出してくれた甲斐あって、医者の想定よりもずっと早くに体調は回復し、夏休みに入るころには学校に復学してすることが出来た。
『また絵を描いてごらんよ』
復学してもしばらくの間体育の授業に出られなかった。美子からそのことを聞いた光一さんは絵画セットを贈ってくれたのだ。そして、それで授業を見学している間、様々な絵を描くことが日課になっていた。
記憶が定かではないが、この道具で最初に描いたのは、確か初めて光一さんと外出した時にみたあの花畑だったと思う。遠くに見える老夫婦が輝いて見え、将来自分もあんな風に生涯共に添える人に出会えたら良いな、と淡い期待に胸を膨らましていた。
『俺は君の絵の方が好きだよ』
美術部には私が休学していた間に三人もの女生徒が新しく入部していた。彼女たちの提案で、初めて皆でコンクール用の絵を描いたのだ。美子は佐藤先輩の指導の賜物で、絵がめきめき上達していった。気が付くと、彼女は全国区で金賞をとるほどの腕前へと成長していた。
一方で私は入賞すらすることができなかった。手元に戻ってきた絵をみた光一さんが眉を垂らして頭を撫でながらそう言ってくれたのだ。
『今までありがとう』
あまりにも平和だったためか、時は無情にも早く過ぎた。気が付くと父に説得されて大学を続けていた光一さんの卒業式。彼は卒業後すぐに実家に帰る予定だった。汽車の予約もしていたのだ。心の中でしっかりと理解し、それを受け入れていた。
だが、彼がこの家から出ていく時、どうしようもない喪失感にかられた。今まで我慢していた感情が溢れ出してきて止まらない。
この一年、大学に通いながらも私の怪我の心配や看病をしてくれた彼は、いつの間にか自分の中でとても大きな掛けがえのない存在になっていたのだ。それは家族に対して感じる安心感でも、先輩に対して抱いていた恋苦しい感情でもない。まるで麻薬のような、中毒性のものだった。どうしても彼と離れたくなかった。
『まだ行かないで。せめて…、私の卒業式まではここにいて…』
だから私は彼に再度足枷を嵌めてしまう。
優しい光一さんへ犯してしまった、最大の罪。